道南バス株式会社(どうなんバス 英称:"Donan bus Co.,Ltd")は、北海道室蘭市を中心とする胆振・日高・後志地方を主たる事業エリアとするバス会社。本社所在地は室蘭市東町3丁目25-3。1925年に創業した室蘭乗合自動車を前身とし、1944年に胆振・日高地方のバス会社が戦時統合して現在に至る。道南と称しているため誤解されることが多いが、渡島・檜山地区は営業エリアではない(狭義の道南は渡島・檜山地区のみをさす)。1960年代後半より、モータリゼーションの発達や沿線の基幹産業である第一次産業の不振や鉱業衰退などにより経営が悪化し、1975年9月には会社更生法が適用された。その後も1977年の有珠山噴火や室蘭市の鉄鋼不況による人口減少などの逆風があったが、道央自動車道の開通によって都市間バス事業を積極的に展開することにより難局を切り抜け、現在に至っている。道南バスのルーツは、1925年に室蘭自動車合資会社が設立されたことによる。室蘭で最初に自動車による旅客輸送事業を行ったのは北海自動車株式会社であるが、1919年(大正8年)に創業するも、道路状況の悪さによる故障などが頻発し、業績が悪化、廃業を余儀なくされてしまっている。その後、バス事業は難しいとされている中で、創業者の徳中祐満らによって室蘭自動車合資会社が設立される。同年7月10日には室蘭駅 - 輪西駅間の運転許可が下り、営業を開始した。しかし室蘭では、既に客馬車が営業しており、さらにタクシー会社が営業を開始したことによって、合資会社を取り巻く環境は厳しいものとなっていた。1927年に、長輪線の開通を目前にして、市街電車を運行するという話が持ち上がったものの、不況が深刻化。さらに世界恐慌も起こり、実現はしなかった。景気が回復し、世間でも自動車が普及し始め、バスに乗ることも一般化してきたためバスの乗客も増え、経営も安定してきた。太平洋戦争の開戦によって、タイヤや金属などの修理部品などの入手は困難になった。さらに、バス事業者に対し、本当に必要であると認められる路線のみに規制された。市内線については、室蘭が軍需工業地域だったため、運行日数を極端に減らしたうえで運行し、その他の地域は休止を余儀なくされた。このような状況下で、政府はバス会社の統合方針を正式に発表した。北海道では、1942年に「北海道における旅客自動車運輸事業統合要綱」を発表。室蘭地区においてもそれは例外ではなく、室蘭自動車株式会社や登別温泉株式会社などと統合。社名を道南乗合自動車株式会社とすることとなった。戦争が開始してからも、避難訓練を繰り返しながら運行を続けていたが、1945年7月15日に艦砲射撃を受けてからは、交通網が麻痺。殉職者1名、負傷者も多数発生する事態となった。戦時中は新車の割り当てがなかったため、老朽化が進み、少ない車両をやり繰りしながらの運行が続いた。その車両も、破損箇所を修理する資材もないため乗り心地は悪く、また、路面の状況も悪かったため、運行は困難であった。終戦とともに制限や規制は解除されたため、運輸省はバス事業の再建推進を指示したものの、戦後の混乱期に計画の実行は無理であった。1950年には、朝鮮戦争に伴う特需景気によって、室蘭にも活気が戻り、人々もバスを利用するようになったため、収入の増加にもつながった。また、労働組合(道南乗合自動車労働組合)も設立され、労働協約を会社側と結んでいる。1952年に、社名を現在の「道南バス株式会社」に変更。バス事業をこれまでの路線バスのみから、観光用の貸切や長距離運行事業にも参入した。それに合わせて、大型ロマンスカーなどの新車を次々に導入した。1956年には、神武景気と呼ばれる好景気となり、この年に施行された積雪寒冷特別地域における道路交通の確保に関する特別措置法によって、除雪の負担が軽減され、支出の減少につながった 。また、景気の上昇により、今まで鉄道しか利用しなかった人々もバスを利用するようになり、旅客も急増したため、事業の拡大を図った。1966年の株主総会において、前年度の営業成績が赤字であったことが報告される。赤字の原因は、運賃収入の伸びがとどまってきたことや、人件費の大幅な増加である。翌年には黒字に戻ったものの、1969年には再び赤字に転じる。1970年の12月には資金繰りがつかない事態にまで陥った。その要因には、高度経済成長期によるモータリゼーションの進行や、レジャー事業の失敗(「洞爺サマーランド」の建設)が主なものとしてあげられる。レジャー事業は、洞爺湖温泉にレジャーランドを作るというものであった。採算面が不確実であったために反対論を唱える者もいたものの、その意見を退けて実施した結果が招いたものといえる。上記のような経営不振のため、ワンマンバスが導入されることとなった。運賃収入に占める人件費の割合が大きいことも、導入理由の一つとなった。これに先駆け、1968年には業務合理化の一環として、整理券をプラスチック製のものから紙製の軟券に変更している。1970年に再び経営が悪化し、冬のボーナスの支給さえ困難となった。これはメインバンクである北海道銀行が融資に応じなかったためであった。経営陣を一新し、新たな体制で臨んだものの、経営は思うように改善しなかった。一新した直後は、夏のボーナスの支給や新車両の導入を行い、順調に経営が回復したかのように思える時期もあった。しかし、1975年には、社長が資金調達のためと称し、手形を乱発していたことが発覚。社長は、手形を社長自身が関係する会社や不動産取得のために使い、それで得た利益を道南バスの資金運用に充てようとしていた。それに気がつくのが遅れた背景には、社長が会社発行株式の半分を持っており、オーナーのような存在だったため、命令に背くことができなかったためである。そして、8月分の給料が払えなくなったことや、今後の手形決済が難しいことから、会社更生法の適用を札幌地裁に申請した。更生手続き開始を受け、保全管財人の選定を行ったものの、路線が24市町村にもわたっており、その再建に高度な政治力を必要とされたことから、選定は難航した。選定後には、従来とは違い、株主も製鉄会社中心となった。室蘭市からの特別融資も受けるなど、路線バスは依然として大幅な赤字であったが、この融資の決定により、銀行や自動車会社との信頼関係を回復するきっかけとなった。再建計画が軌道に乗り始めた1977年に、有珠山が噴火した。噴煙が1万2千メートルにも上るほどの大噴火であったため、温泉街へ向かうバスの運行も途中までしかできず、伊達市に仮設営業所を設置し、情報収集に追われることとなった。昭和新山の花火大会が噴火前日に行われており、観光客が温泉街に多数いるなかで、住民や観光客を避難させるためにピストン輸送を行った。だが、噴火の影響は想像以上に大きく、洞爺営業所での業務は不可能となった。そのため、伊達市より私有地を借り受けて仮設営業所を設置し、バスの運行を継続した。しかし、噴火は観光客の減少を招き、洞爺湖温泉だけでなく、登別温泉への観光客も減少した。洞爺湖を観光営業の拠点としていたために、この噴火の影響はとてつもないものとなった。そこに追い打ちをかけるかのように、洞爺に建設したレジャーランドの売却の見通しが立たなくなった。「洞爺サマーランド」の売却計画が進行していたものの、有珠山噴火により観光客が減少したことにより、買い手がつかなくなってしまった。資産の処分に困っていたところ、有珠山の泥流被害を防止する目的で、流路工の工事を行うこととなった。その建設場所が幸運にもサマーランドの敷地にかかっていたため、所有地が適正価格で買収される見通しが立った。建物部分に関しては、虻田町(現:洞爺湖町)に無償譲渡し、火山科学館として再整備ののち、開館した。更生計画後、バスの老朽化が激しくなり、車両の更新が急務となった。1977年から79年の3年間をかけて、室蘭市からの特別融資を受けたうえで、車両の更新を行った。また、それに伴い、路線の再整備も行うこととした。業務の合理化を推進するため、コンピュータを導入し、各路線のダイヤの実態調査や、予約状況の管理など、正確性とスピード向上を図った。また、車内に運賃表示機と自動両替機を設置することで、ワンマン化に伴う運転手への負担を軽減させた。さらに、観光貸切バス部門を強化することで、1978年ごろからの国内観光ツアーの増加に対応し、収入の増加につなげた。1980年代に入ると高速道路が次々に整備され、貸切バスについても、全国的に高級化が進んでいた。また、高速道路の整備が進んだことにより、国鉄に対抗できないことを理由に休止していた長距離バスの運行を再開することとなった。国鉄の特急と比較して運賃が割安であること、時間がほとんど変わらないことから、利用客が急増。その結果から、翌年以降も引き続き運行することとなった。国鉄は、これに対抗するために、特急列車を利用できる往復割引きっぷを設定し、往復の普通運賃が割引きっぷより割高になるという逆転現象も発生している(現在でも逆転現象は残ったままとなっている)。室蘭 - 札幌間だけでなく、室蘭 - 千歳空港や苫小牧 - 札幌など、次々と都市間バスを運行するとともに、高級バスを導入し、国鉄に対抗した。道路整備の進捗により国道36号と国道37号が連結したことから、結節点として両国道に近い東室蘭地区の場所を確保し、1963年(昭和38年)1月21日に東町ターミナルが完成、同年2月1日より営業を開始した。1965年(昭和40年)3月1日にターミナル内に室蘭東営業所を開設。室蘭市発着路線全般を担当する。1979年(昭和54年)10月に室蘭東営業所の車庫として設置。登別市西部の発展に伴い業務を拡大し、1982年(昭和57年)4月4日に若山営業所として分離独立した。室蘭市内線の東部地域、登別市に発着する郊外線を担当。室蘭貸切センターを併設し観光貸切も担当する。1943年(昭和18年)4月1日の仮営業開始時に、登別温泉株式会社およびカルルス温泉自動車の業務を継承し設置。一時期、機構改革により登別地方営業部として権限が拡大されたが後の再機構改革で登別営業所に戻されている。1967年(昭和42年)7月13日に登別バスターミナルが完成しバス発着施設を併設する形となり、1993年(平成5年)に若山営業所の管轄下となり、後にバスターミナル施設を残し営業所機能は廃止された。1951年(昭和26年)頃より連絡事務所が置かれており、1955年(昭和30年)6月に出張所となった。1961年(昭和36年)6月にニュー札幌ビルへ移転し札幌営業所となり、一時期は機構改革により札幌営業部として権限が拡大されたが後の再機構改革で札幌営業所に戻されている。1988年(昭和63年)12月に現在地へ移転した。札幌発着路線、観光貸切などを担当する。1978年(昭和53年)9月乗り入れ開始。のりば10付近に窓口を設置する。1943年(昭和18年)4月1日の仮営業開始時に、洞爺湖自動車、北富士自動車、喜京自動車、後志温泉自動車の業務を継承し設置。一時期、機構改革により洞爺地方営業部として権限が拡大されたが後の再機構改革で洞爺営業所に戻されている。1977年(昭和52年)の有珠山噴火時は伊達市で約1年間仮営業を行っていた。洞爺湖温泉 - 室蘭・札幌など洞爺発着路線全般を担当する。洞爺地方営業部倶知安出張所として設置され、後志地方の運行に関わる営業を行った。1969年(昭和44年)に倶知安営業所となり機能が強化され、胆振線廃止代替引き受けによる機能強化を経て、1987年(昭和62年)6月より倶知安駅近傍の現在地に移転。1993年(平成5年)5月より洞爺営業所の管轄下となった。胆振線廃止代替や倶知安 - ニセコなど倶知安町発着路線を担当する。洞爺営業所伊達案内所として設置。1985年(昭和60年)10月1日に伊達営業所となり胆振線廃止代替引き受け準備にあたった。1993年(平成5年)5月より洞爺営業所の管轄下となった。胆振線廃止代替、洞爺 - 伊達 - 室蘭など伊達市発着路線を担当する。1951年(昭和26年)11月に車庫を設置、苫小牧案内所と称していた。1966年(昭和41年)10月に苫小牧バスターミナルが完成、翌1967年(昭和42年)12月より苫小牧営業所となった。1992年(平成4年)4月に柳町4丁目2-17に移転。2012年(平成24年)4月1日の苫小牧市営バス事業譲受により、旧苫小牧市交通部庁舎が苫小牧営業所となった。2001年(平成13年)12月23日に苫小牧市営バス錦西営業所の管理の受委託を締結、2002年(平成14年)4月1日に設置された。元は被統合事業者である日進自動車の本拠地で、日高営業所として統合を迎えた。機構改革により日高地方営業部として権限が拡大され、日高地方のほか上川地方の占冠村や南富良野町への路線も有していた。1971年(昭和46年)の機構改革で地方営業部が廃止され日高営業所となり規模を縮小。1979年(昭和54年)5月16日に現在地へ移転し平取営業所に改称。1993年(平成5年)10月より苫小牧営業所の管轄下となっている。富内線廃止代替や平取 - 苫小牧など平取発着路線を担当する。日高(平取)営業所の出張所として設置。富内線廃止代替引き受けによる機能強化で1986年(昭和61年)9月に穂別営業所となった。1993年(平成5年)5月より平取営業所の管轄下となっている。富内線廃止代替、穂別 - 新千歳空港を担当。1987年(昭和62年)7月開設。表町6丁目2-1のegao内に発券窓口と待合室が併設されており、定期券や回数券・バスカードの発券、北海道中央バスとあつまバスの乗車券類を取り扱う。専用レーンを持たず、周辺のバス停で乗車を取り扱う。2012年(平成24年)4月1日の苫小牧市営バス事業譲受により、窓口・乗り場とも表町5丁目10-11の駅前(旧市営)バスターミナル内に移転。その後2015年(平成27年)4月1日より現在地に移転した。1986年(昭和61年)12月1日に苫小牧営業所が千歳空港内に案内所を設置。1991年(平成3年)に苫小牧営業所から分離されている。ANA到着口前に窓口を設置する。日高(平取)営業所静内出張所として設置され、1967年(昭和42年)4月より静内営業所となった。旧静内町域内路線、浦河・静内 - 苫小牧・札幌などを担当する。1992年(平成4年)4月21日に函館営業所開設。同年6月5日に函館運輸支局管内での貸切事業が認可され、貸切バスが配置されていた。元は本社併設の営業所で、所在地は本社移転と共にしていた。1965年(昭和40年)に室蘭東営業所が開設されたことにより室蘭西営業所となり、本社ビル解体・東町ターミナル内移転により海岸町1丁目に移転した。2005年(平成17年)10月20日に廃止されている。元は被統合事業者である三国自動車の本拠地で、日高(平取)営業所日高出張所として統合を迎えた。富内線廃止代替引き受けによる機能強化で1986年(昭和61年)10月13日に日高営業所となり、1993年(平成5年)5月より平取営業所の管轄下となっている。富内線廃止代替、日高 - 苫小牧・札幌を担当していた。2012年(平成24年)3月20日に廃止されている。路線バス車両は2011年(平成23年)3月31日現在で289台登録されており、北海道内では北海道中央バス、ジェイ・アール北海道バスに次ぐ規模となる。かつては登別室蘭IC経由の直行便も運行していたが、北海道中央バス「高速むろらん号(室蘭産業会館系統)」との共通乗車券化と同時に登別東IC経由に統一された。2006年12月20日新設。札幌と室蘭市北部を登別室蘭IC経由で結ぶ。愛称は、始終着地である室蘭大谷高校のサッカー部全国大会出場を記念してつけられた。北海道中央バス「高速むろらん号(大谷高校系統)」との共通乗車券を取り扱う。札幌と登別温泉を結ぶ。旧くは国道36号を経由する特急バス路線として運行された。道央自動車道の延伸とともに新千歳空港や苫小牧市街を経由する便や直行便を設定した。かつては苫小牧経由便や新千歳空港経由便、白老緑泉郷行の便も存在したが現在は高速道路経由の直行便1往復のみの運行となっている。千歳空港・新千歳空港と登別温泉を結ぶ路線は歴史が古く、高速おんせん号が旧千歳空港ターミナルに乗り入れた他、定期観光バスとして同区間を経路に組み込んだ系統も運行された。駒澤大学前発着便は1往復のみ。2012年12月1日から運行開始し、苫小牧駅前 - 駒澤大学前間の区間利用はできない。北海道中央バスの「高速むろらん号」・道南バスの「高速白鳥号」の運行開始とともに、当時の国鉄は往復割引乗車券として「Sきっぷ」を設定した。この結果、国鉄を利用した場合の札幌と室蘭の往復運賃が4000円(当時)となり、札幌と苫小牧を特急で往復した場合の合計運賃が4180円(当時)より安くなるという逆転現象が発生した。このことに気づいた沿線住民は、1984年に中央バスと道南バスに対して札幌と苫小牧を結ぶ高速バスの運行を陳情し、これを受けて1985年に運行を開始した。本路線が開設された後、国鉄は札幌と苫小牧の間にも「Sきっぷ」を設定した。北海道中央バス「高速とまこまい号」との共通乗車券を取り扱う。1989年7月1日運行開始。2007年4月1日に富川大町の乗降制限を解除し、上下線とも乗降扱いを開始した。(優駿の里・)浦河ターミナル・支庁前・堺町西1丁目・三石役場前・静内駅前・末広町・新冠・富川大町・門別競馬場前・鵡川四季の館 - 大谷地バスターミナル・札幌駅前優駿の里乗り入れは1往復のみ。札幌行は予約優先で、原則金曜日の最終便後に設定される臨時便は完全予約制。浦河ターミナル - 支庁前 - 堺町西1丁目 - 三石役場前 - 静内駅前 - 末広町 - 新冠 - 富川大町 - 門別競馬場前 - 鵡川農協前 - 苫小牧駅前 - 新千歳空港日高管内と苫小牧駅や新千歳空港を結ぶ。浦河ターミナル - 苫小牧駅前間を速達運転、苫小牧駅前 - 新千歳空港間は普通便として運行する。かつては浦河ターミナル - 新千歳空港間の直行便も運行されていたが、2008年4月1日のダイヤ改正で廃止された。直行便は苫小牧市内に乗り入れず、途中区間で乗降制限が設けられていた。北海道中央バスと「オーシャンドリーム」を共同運行していたが、北都交通が同区間を運行する「オーロラ号」と統合し、3社共同運行の「高速はこだて号」となった。豊浦しおさい・洞爺駅前乗り入れは1往復のみ。真駒内駅は洞爺湖温泉系統の一部のみ停車する。1日1往復のみ、栄(喜茂別町) - 洞爺湖温泉の全停留所に停車する便が設定されている。かつてはじょうてつも相互乗り入れの形で札幌駅 - 洞爺湖温泉間を運行していたが、2004年12月1日のダイヤ改正をもって廃止された。※2009年冬期より不定期運行※北海道新幹線二次交通等整備事業に伴う試験運行登別市幌別地区以西も室蘭市内線域に含まれる。系統毎の経路や発着地などの詳細は公式サイトを参照。カルルス温泉以遠は冬期のみ乗り入れる。鉄道の駅名は「伊達紋別駅」だが、停留所名は「伊達駅前」で統一されている。樺山小学校以遠は冬期のみ乗り入れる。苫小牧 - 新千歳空港と萩野線の一部は新千歳空港 - 苫小牧駅前 - 白老緑泉郷間を直通運行する。また苫小牧 - 新千歳空港間は特急うらかわ号も同経路で運行する。日高沿岸線を除くむかわ町の路線は、2007年10月1日よりむかわ町営バスに合わせて最大運賃が200円となっており、予約取扱などをむかわ町が取り扱う。国鉄富内線バス代行路線。春日、旭岡、栄は一部通過。2009年10月1日より予約制に変更。むかわ町内のみおよびむかわ町外のみ利用の予約はできない。苫小牧市営バス運営時は、赤字の穴埋めに苫小牧市の一般会計から毎年5億円以上を持ち出す状況であった。市営バス最終年度である2011年(平成23年)度の黒字路線は1路線のみであったが、道南バスに移譲された2012年(平成24年)度は9路線、2013年(平成25年)度は8路線となり、学生専用便なども含んだ苫小牧市内路線全般でも両年度黒字化を達成した。移譲に際して、3年間は路線・便数・運賃を維持する契約を結んでいる。この契約が満了となる2015年(平成27年)度より、市中心部を運行する3路線を再編した循環バスを運行する予定であることなど、市の意向は尊重しつつ赤字路線は再編対象である旨を表明している。2012年4月1日改正貸切バス車両は2010年9月現在で32台登録されており、事業は室蘭・札幌・函館の各運輸支局管内および勇払郡占冠村での発着が認められている。一般路線、高速路線、貸切とも大型4メーカーが揃う、高速路線と貸切に使用される車輌の大半を三菱ふそうと日産ディーゼル(現:UDトラックス)が占めている。1986年には、高速路線用に生産台数の少ない日野の2階建てグランビューを導入していた。2007年4月には、現行型日野・セレガを2台、同年12月には、三菱ふそう・エアロエースを1台、2009年11月には、日野・セレガハイブリッドバスを1台導入し、いずれも都市間高速バスに運用している。1980年代前半には、貸切用としてドイツ製のネオプラン車を投入しUFOサルーンとして話題を呼び、その後1990年代初頭までに高速路線用や貸切用として約20台導入されたが、近年は国産車によって置き換えられ北海道外の他業者へ転籍した。また近年は他の地方事業者同様、首都圏で年々厳しくなるディーゼル車の排ガス規制を理由に首都圏から移入された中古車も増えている。沿線各地は冷涼な気候のため、一般乗合車は近年導入された車輌を除いて非冷房車が全体の半数近く占める(たとえ冷房が付いても使用不能な場合もあり)。また、後部方向幕は旧苫小牧市営バス移譲車や最近の車両を除いて、ほとんど装備されていない。かつては室蘭市内線がグレーに青の帯、その他が塗色変更前の北海道中央バスにも通じる、京阪バスと全く同様の赤と白の塗色であったが、1970年代前半頃から室蘭市内線も赤白塗色となった(グレイハウンドを参照)。1984年頃から貸切、高速車は現行の緑色を基調とした塗色となっている。一般乗合車は1986年頃から白に青とピンクの帯となったが、1996年からは貸切車と同様の緑基調に改められている。また、ネオプラン車は白を基調としたカラーリングであり(貸切には一時期緑塗装もあった)、中型貸切車は1980年代前半まではベージュに赤帯であった(現在は大型と同様の緑基調である)。また、苫小牧市営バスからの譲渡車は貸切車を除き基本的にそのまま市営バスの塗色で(社名表示を変えて)使用され、車両更新の際に順次自社カラーを導入する。
出典:wikipedia
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