定岡 智秋(さだおか ちあき、1953年6月17日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身の元プロ野球選手(内野手)。定岡3兄弟の長男で、弟に定岡正二(元巨人、投手)、定岡徹久(元広島・日本ハム、外野手)がいる。二男は定岡卓摩。鹿児島実業時代の1971年、夏の甲子園県予選決勝に進出するが、鹿児島玉龍に惜敗、甲子園には出場できなかった。同年のドラフト3位で南海ホークスに入団。1975年には、シーズン途中で移籍した佐野嘉幸に代わりレギュラー遊撃手となる。1980年に初めて規定打席に到達(34位、打率.241)。打率は決して高くなかったが長打力もあり、強肩の遊撃手として、同じ兄弟選手であった河埜敬幸(兄:河埜和正(巨人))とともに二遊間を形成、1970年代後半〜1980年代のチームを支えた。1983年にはフル出場を果たすも、翌年アキレス腱を断裂するとその後は出場数が激減し、1987年限りで現役引退。その後は南海、ダイエーの守備・走塁コーチに就任。1991年からはスカウトに転じる。1993年に二軍コーチとして現場復帰し、1997年には一軍コーチに昇格、三塁コーチを務めた。2001年、二軍監督に就任。2003年フロント入り。2005年ソフトバンク野球振興部次長に就任も、2006年限りで退団した。2007年より野球解説者となる。その傍ら、NPO法人ホークスジュニアアカデミーにてOBコーチを務める。2008年、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス監督に就任。現役時代に二遊間コンビを組んだ河埜敬幸は同リーグの長崎セインツの監督を務めており、指導者として相まみえることになった。監督となった最初のシーズンである2008年の前期はチームを3期ぶりのAクラスとなる2位に浮上させ、後期は優勝を逃したものの2位を確保した。一方河埜は成績不振を理由に前期終了後に契約を解除され、明暗が分かれた格好になった。2009年後期には就任2年目で初の半期優勝(後期)を達成。前期優勝の長崎セインツとのリーグチャンピオンシップにも勝利してチームを4年ぶりの年間総合優勝に導いた。さらに、群馬ダイヤモンドペガサスとのグランドチャンピオンシップに勝利し、独立リーグ日本一に輝いた。2011年以降はチームの成績はふるわず、2012年からは2年連続で最下位であった。2013年のシーズン終了後、退任が発表された。2014年8月1日に九州総合スポーツカレッジのヘッドコーチに就任した。2015年8月1日に柳ヶ浦高等学校野球部監督に就任した。現役時代は非常に強肩であることで知られ、オールスターの遠投大会では120m超を記録し、優勝したこともある。 制球力もよく、『筋肉番付』のストラックアウトでは、9枚中7枚という成績を収めている。『ホークス ヒーロー列伝』(B・Bムック、2015年6月刊行)で受けたインタビューによると、1980年のオフに智秋・門田博光と巨人の河埜和正・新浦壽丈との交換トレードが決まりかけたが、巨人の監督が長嶋茂雄から藤田元司に替わり「新浦は出せない」という方針となったために頓挫したという。もし実現していれば、巨人で定岡兄弟、南海で河埜兄弟がチームメイトとなっていたことになる。
出典:wikipedia
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