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樺太

樺太(からふと)、樺太島(からふととう、)、サハリン、サハリン島は、ユーラシア大陸の東方 、オホーツク海の南西部にあるロシア連邦サハリン州の島。広義の日本列島に含む場合もある。南北約948km、東西の幅最大約160kmで南北に細長い。面積76,400平方kmは世界第22位で21位の北海道(78,073平方km)より若干小さい。人口約50万人。最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約18万人)。樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。現在、サハリンプロジェクトが進められている。1945年までは北緯50度線を境にして、南半分(南樺太、南サハリン)を「樺太(カラフト)」として大日本帝国が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリン()」としてソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。現在はロシア連邦が北樺太の領有に加え、南樺太をも実効支配している。南樺太については、日本はサンフランシスコ講和条約によって放棄させられた(しかし、一部の日本人が領有権を主張している)。一方で、ロシア(ソビエト連邦)は、日本との間に南樺太に関する条約は結んでおらず、サンフランシスコ講和条約にも調印していない。従って、国際法上は日本の土地ともロシアの土地とも認められていない(帰属未定地域)とするのが日本政府の立場であるが、日本の他にロシアの領有権を否定する国はない。この問題は北方領土問題との関係も深い。ただし、日本政府はロシアの実効支配について「異議を唱える立場にはない」としている。南部のユジノサハリンスクには日本国の総領事館が置かれており、島全体(サハリン州)をその管轄とし、所在地も「ロシア・サハリン州・ユジノサハリンスク」としている。第二次世界大戦における日本本土(内地)最後の地上戦が行われた地でもある(樺太の戦い)。「からふと」の名は、一説にはアイヌ語でこの島を「カムイ・カ・プ・ヤ・モシ 」("kamuy kar put ya mosir") と呼んだ事に由来すると言う。これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる。尚、樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味するヤンケモシリと呼ばれ、北海道アイヌ語ではカラプト Karapto と呼ばれる古くは1646年(正保3年)に成立した松前藩の歴史書『新羅之記録』に「唐渡之嶋」として見え、正保日本図にも「からとの嶋」が描かれている。1669年(寛文9年)のシャクシャインの戦いに関する同時代史料では「からふと」(「奉言上覚」『津軽一統志』)「からふとの島」(『蝦夷蜂起注進書』)という表記が確認できる。1700年(元禄13年)の『松前島郷帳』には「からと嶋」とある。1704年(宝永元年)に蝦夷地へ渡った正光空念の史料では「からふと」「からふと嶋」という表記が多いものの、「唐ふとう嶋」「からふとふしま」「からとのしま」といった表記も見られる。1783年(天明3年)の『加模西葛杜加国風説考』では「カラフトの北にサカリインといふ大嶋有」とし、同書の付図では「カラフト」を大陸と地続きの半島として描き、別に「サカリイン」を島として描いている。1785年(同5年)の『三国通覧図説』においても「カラフト嶋」は大陸の半島としてを描かれ、別に「北海中ノ一大国」として「サガリイン」を描いている。1809年(文化6年)以降は東西の蝦夷地に対して北蝦夷地とも呼ばれた(それ以前は西蝦夷地に含まれた)。その後、明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり「樺太」という漢字表記が定められる。「サハリン」(古くは「サガレン」と表記)という名称は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じた清国版図測量の際に、黒竜江(満州語名: 転写:sahaliyan ula、サハリヤン・ウラ)河口の対岸に島があると聞き、そこを満州語でサハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ( 転写:sahaliyan ula angga hada 、「黒竜江の対岸の島」)と呼んだことに由来する。ポーツマス条約調印以降の日本では、単に「樺太」と言えば南樺太を指したため、北樺太を指してサガレン(薩哈嗹)と呼ぶ場合もあった。「サガレン州派遣軍」などは、その一例である。現代中国語では「庫頁島」(クーイエダオ)と呼ばれる。樺太は、ユーラシア大陸の東方、北海道の北方に位置しており、北緯45度54分から54度20分、東経141度38分から144度45分にかけて広がる島である。島は南北に細長く、東西の幅が最大で約160km(最狭部は約26km)であるのに対し、南北は約948kmにも及ぶ。島の面積は北海道よりやや小さく76,400km²である(北海道本島の面積は77,981.87km²)。その面積のうちの約70%は山岳地帯によって占められており、平地は北部に集中している。樺太は、南の北海道とは宗谷海峡により、また、西のユーラシア大陸とは間宮海峡により隔てられている。島の北岸および東岸はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前には海水面が低下しており、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は互いに地続きだったと考えられている。樺太の最北端は、シュミット半島の先端に位置しているガオト岬(エリザベート岬)である。シュミット半島から西方の樺太北岸から、対岸の大陸側であるアムール川河口地域の北岸までの海岸線を一続きとみると南に湾曲した湾状の海岸線となっている。この湾はサハリン湾と呼ばれている。南の宗谷海峡に対しては、西側から能登呂半島が、また東側から中知床半島が突き出ており、これら2つの半島の間には南に開く亜庭湾(アニワ湾)がある。能登呂半島の先端は樺太の最南端となる西能登呂岬である。中知床半島の先端は中知床岬である。樺太の西方はユーラシア大陸との間に間宮海峡が横たわっている。間宮海峡の最狭部はネヴェリスコイ海峡と呼ばれ、その幅は約7.3kmである。東方のオホーツク海に対しては、島の中南部から北知床半島が突き出ている。先端の北知床岬から西方は北へ向かって海岸線が湾曲し、その湾は多来加湾(タライカ湾)と呼ばれている。樺太の気候は亜寒帯モンスーン気候に属する。夏季は湿度が高く、霧が多く発生する。また、夏と冬の寒暖の差が大きい。南西部は対馬海流(暖流)の影響を受け比較的温暖であり冬季も海は結氷しないが、北東に行くにしたがい東樺太海流(寒流)の影響を受け気温が低く冬季は海が結氷する。植物の分布境界線として北樺太西海岸のヅエと南樺太東岸の内路を結ぶシュミット線が有名であり、日本固有種の分布はこの線より南側で、北側は針葉樹林などシベリア系の様相となっている。動物の分布境界線は八田線(宗谷線)があり、宗谷海峡を挟み樺太と北海道で両生類や爬虫類などの分布が異なっている。樺太は石油や天然ガスなどの豊富な地下資源にも恵まれている。地理的な日本列島(国家としての意味ではない)の中では、本州、北海道に次ぎ、3番目に大きい島である。樺太の先住民には、アイヌ、ウィルタ、ニヴフといった北方少数民族がいる。このうちアイヌに関しては、南樺太に居住し日本国籍を与えられていたために、ソ連による樺太占領後は残留意思を持った者を除き北海道に送還されている(現在の樺太住民の中にはアイヌを名乗る者が若干名存在するものの、統計が取られていないために詳細は不明)。南樺太は、日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置されて、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年(昭和17年)に、外地から内地へと編入された。人口は1945年(昭和20年)当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業などであった。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市(ユジノサハリンスク)であった。現在は、アインス宗谷(船)で、稚内から、宗谷海峡を経て、樺太へ行ける。船で行く場合は、ビザなしで行ける。ただし、3日間のみ。その他に、航空機でも行ける。1905年、明治政府は、樺太南部から中部までの地層を細かく調査、本州へも移出。塔路町周辺では良質の無煙炭が多く採れた。その富を求めて、人口が増加、塔路小学校では三千名の児童を抱え、六十名の教員が在職、「日本最大の小学校」と言われた。樺太の留多加は、比較的に温暖であり、農耕にも適しているが、亜庭湾において人々はホッキガイなどを採取し、採取後には、暖を取るため、たき火などもしていた。1905年の祖国復帰後、明治政府は、蝦夷松・椴松がパルプの原料となることを調査・研究によって突き止め、1914年、第一次世界大戦の特需景気の恩恵を受け、急成長を遂げ、王子製紙、富士製紙、樺太工業による三社寡占状態であったが、1933年に王子製紙が競合二社を吸収合併、王子製品は本州へも移出された。南樺太では、日刊紙だけでも十紙以上が発行されていた(後、読売新聞社が経営、日刊各紙は読売に統合後、読売系樺太新聞となる)。代表的な日刊紙は、樺太日日新聞、樺太時事新聞、樺太毎日新聞、真岡毎日新聞、恵須取毎日新聞である。1936年、豊原での試験放送が人気を得て、1941年、日本放送協会は豊原放送局を開設。稚内桟橋駅から大泊港駅まで、稚泊連絡船で約8時間。熊笹峠には、樺太の戦いにおけるソ連軍の南進を阻止し、同軍に北海道進攻を断念させた日本の将兵の遺骨が今も眠っている。1925年、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が、樺太を訪問(行啓)。豊原市、真岡町、大泊町などで構成される樺太庁が出迎えた。樺太犬は、日本固有種であり、きわめて飼い主に忠実である。南極物語に登場するタロとジロがそうである。カラフトマスは、鮭の缶詰の原料として利用されている。樺太の富内村には、湖沼が多数存在し、マリモが多く生息し、北海道のものとは種類が異なるため、樺太天然記念物として指定されている。フレップ(コケモモ)と呼ばれる直径約1cm程度の木の実があり、ジャムなどにもなる。フレップとは、アイヌ語で、「赤い物」という意味である。日本の植民地時代の南樺太では6月から9月の間、競馬が盛んにおこなわれていた。1931年(昭和6年)には非公認のものを含めて大小20か所の競馬場があり、その中で8か所が1932年に公認競馬場に認可された。北樺太は、樺太・千島交換条約以来のロシア領であり、ロシア帝国時代は沿海州、ソビエト連邦時代は当初は日本のシベリア出兵によって日本国の実効支配下にあったが、1925年に日ソ国交樹立で日本軍が撤退するとハバロフスク地方として置かれ、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。主な都市はオハやアレクサンドロフスク・サハリンスキー(日本名:オッチシ・落石)である。オハ油田、サハリンプロジェクト(サハリン1、サハリン2)が代表的な石油産業である。氷河期には大陸と陸続きだった。日本(間宮林蔵など)やロシア帝国の到達以前は南部にアイヌ民族、中部にウィルタ民族(アイヌ民族は「オロッコ」と呼んだ)、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも)などの北方少数民族がいた。それ以前にはオホーツク文化人(日本書紀に記される粛慎)などが存在していた。中国、朝鮮の古書(山海経、海東諸国記)には、いずれも「日本の北(又は領域)は黒龍江口に起こる。」と記載。また、飛鳥時代の斉明天皇のころ行われた蝦夷征討・粛慎討伐の際、阿倍比羅夫が交戦した場所は樺太との説もある。幕末以来、日本とロシアの間で領有者がたびたび変遷した。日本政府は、サンフランシスコ講和条約にソ連が調印しておらず、その後も南樺太の領有に関する条約や協定等が両国間において締結されていないため、「国際法上南樺太の帰属は未確定である」との立場を取っている。これに対するロシア側の立場は、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しなかったが日本は国際条約で領有権を放棄している、ロシアの南樺太領有は戦争の結果であり、また既にソ連国内法により編入されているというものである。一方、日本国には南樺太の領有権問題を主張する人も存在し、上記の通り日本が領有権を放棄したことについては日本とロシアの主張に差異が存在しないため、一般的に議論の対象になることは少ないが、領土が未帰属であることから北方領土問題とともに取り上げられることも少なくない。架空戦記の話題にもなった。なお冷戦下の1952年3月20日にアメリカ合衆国上院は、サンフランシスコ平和条約の解釈から南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、色丹島、歯舞群島及びその他の領土、権利、権益をソビエト連邦の利益のために、これらの権利、権原及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない、とする決議を行った。1945年8月9日、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦、8月11日より南樺太に侵攻し、8月14日のポツダム宣言受諾後も、8月22日に知取町で日ソ停戦協定が成立するまで侵攻を続けた。このことから、ソビエト連邦による南樺太の占領は侵略による領土占拠であり、従って当該地域は日本に返還されるべきであるとする意見も存在する。しかしこのような議論は一般的なものではなく、日本政府も積極的な領土返還要求を行ってはいない。この点が、いわゆる北方領土とは異なっている。1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約締結により、南樺太の領有権を日本政府は放棄した。しかし、南樺太は1942年以降は内地である事から外地すなわち戦争によって獲得した地域には相当せず、従って放棄する地域に含まれた事は不当であるとする人々もいる。また、ソビエト連邦はサンフランシスコ講和条約締結国でないことも同時に問題とされる。また、日露戦争の結果締結されたポーツマス条約による当該地域の譲与は「返還」であるとし、戦争によって獲得した地域には当たらないとする主張も見られる。これらの主張はカイロ宣言を念頭に置いているものと考えられる。ソビエト連邦崩壊後、それを継承したロシア連邦がいまなお南樺太全体を実効支配している。しかし、サンフランシスコ講和条約では、南樺太及び千島列島の最終的な帰属は将来の国際的解決手段に委ねられることとなっている。従って、南樺太及び千島列島の帰属は依然として未確定であると日本政府は主張している。しかしながら、日本政府が樺太(サハリン州)での邦人保護を目的とした在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置している事をもって、ロシア連邦による樺太の実効支配を事実上「追認」しているとの意見もある。これに対し、満洲国にソ連領事館が設置されていた例をあげ、領事館の設置を一概に追認とは言えないとする意見も存在する。現在、日本政府は南樺太について「国際法上は所属未定地」としながらも領有権を放棄しており、積極的な領土的主張を行っていない。このような日本政府の立場により、日本国内で発行されている世界地図における南樺太は「白色(どこの国の領土でもない、またはどこの国の領土か未定)」で表示されている。なお、他に「白色」で表示されている地域には南極や千島列島等がある。この問題について、日本政府は豊原(ユジノサハリンスク)での日本総領事館設置や航空協定等の締結によって、南樺太のロシア連邦への所属を事実上認めているという説がある。しかしながらこの説に対しては、領有を主張しているものの実効的支配を奪われている場所について国民保護のための措置として領事館を置く、ということは成り立つのであるから、総領事館があるということをもって直ちに領有権を追認しているとはいえない。これに類する例としては満州国へのソ連領事館設置があげられる。なお、日本政府自身は領事館の設置と領土の問題とは無関係であり、仮に将来において何らかの国際的解決手段により南樺太の帰属が決定される場合にはその内容に応じて必要な措置を取るとの見解を示している。しかし、日本国内の一部には南樺太の返還を要求している人々も存在する(八幡和郎など)。以下は南樺太の領有権に関する様々な主張である。なお、以下に記述する内容はあくまで一例であり、すべての主張を網羅した物ではないし、またその正当性を保証する物でもない。

出典:wikipedia

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