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春風亭一柳

春風亭 一柳(しゅんぷうてい いちりゅう、1935年10月12日 - 1981年7月9日)は、東京都出身の落語家。本名、長坂 静樹。生前は落語協会所属。出囃子は『筑摩祭』。1978年までは三遊亭 好生(さんゆうてい こうしょう)の芸名を名乗っていた。まだ幼い頃、婿養子だった父が離婚して家を出たため、母と祖母に育てられた。東京都立西高校入学に前後して母と祖母が病没。本人も病弱のため高校を約2年間休学し、一人残された実家を間貸しして生活していた。休学中に寄席通いをはじめ 、6代目三遊亭圓生の熱心なファンとなった。圓生から顔を覚えられ、圓生宅に招かれるほど親しくなり、高校を中退して入門した。芸風や背格好、所作に至るまで師匠の圓生と似ており、「圓生の影法師」と言われた。圓生に心酔し神のように崇めた結果であるが、圓生から見ると下手だと言われた自分の若い頃を思い出させるようで不愉快であったらしく、好生は師匠から嫌われ、徹底的に冷遇されることとなった。8代目春風亭柳枝一門から移籍してきた弟弟子三遊亭圓彌・6代目三遊亭圓窓に真打昇進で先を越され、1973年(昭和48年)9月に落語協会による集団真打昇進(第一弾)の一人として真打に昇進した際には、圓生がそれへの抗議のために真打昇進披露などの公式行事への参加を欠席されるなどの仕打ちを受け、好生は内気な性格から思い悩むようになっていった。1978年(昭和53年)6月の落語協会分裂騒動で圓生が落語協会を脱退して新団体を設立した際、好生は崇拝していた師匠に従わずに落語協会に残留したことで破門を宣告されるが(5月17日)、圓生と犬猿の仲だった8代目林家正蔵(後の林家彦六)の客分格弟子となった。なおこの時、同じく圓生から冷遇されていた兄弟子の三遊亭さん生(後の川柳川柳)も落語協会に残留している。その後圓生から芸名の返却を迫られ(5月28日)、好生は5代目春風亭柳昇から「春風亭」の亭号使用許可を貰い、春風亭一柳へと改名した(改名後、柳昇の師匠で春風亭派の総帥であった最晩年の6代目春風亭柳橋の元にも挨拶に出向いている)。「一柳」の「一」は正蔵が尊敬する三遊一朝の「一」から取った。明治中頃の噺家番付に改名歴や師匠など詳細不明な落語家「春風亭一柳」の名があり、その後色物(曲芸師)の一柳斎柳一門下に「春風(はるかぜ)一柳」という人物が存在したことから、この両名を初代・2代目と見なして好生改め春風亭一柳は3代目を自称した 。同じく芸名返却を求められ先に改名していた川柳川柳から「お前は“川柳一柳”になれ」と誘われたが、「漫才じゃあるまいし」と断ったという 。1979年(昭和54年)9月3日に圓生が急逝した時は、自宅に駆けつけて亡骸の前で号泣した。しかし1980年7月に自叙伝『噺の咄の話のはなし』を晩聲社から出版した際には、本の中で「圓生が死んで嬉しかった」「これで おれは生きていける。死なずにすむんだ」と述懐し、物議を醸した。自叙伝出版直後は明るい表情を見せていたが、次第に精神的に落ち込むようになり、写経をはじめたり、「噺の間の取り方がわからなくなり生きていく望みがなくなった」と妻に語ったりするなど、言動が周囲に心配されるようになった。投薬治療で快方に向かっていたが、1981年7月9日、自宅の団地屋上から飛び降り自殺した。一柳の死について、愛憎入り混じった圓生との師弟関係を原因に挙げるものは多い。兄弟子の川柳川柳は「吹っ切るつもりで自叙伝の中で圓生を罵り、自分をさらに追い詰めてしまった」「圓生に殉じた」と述べ、弟弟子の三遊亭圓丈は「圓生の呪縛から生涯逃れることができなかった」と述べている。好生時代に、1969年4月6日から兄弟子5代目三遊亭圓楽などの笑点メンバーが司会7代目立川談志との対立により番組を降板した時の代役として、『笑点』の大喜利メンバーに抜擢されるが同年11月2日限りで降板している。また青春ドラマ『おれは男だ!』第37話(日本テレビ系列、1972年)に警察官役でゲスト出演している。

出典:wikipedia

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