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木村荘平

木村 荘平(きむら しょうへい、1841年7月 - 1906年4月27日)は、山城国(現在の京都府)出身の実業家、政治家である。いろは合名会社社長、東京家畜市場会社(屠場)理事、東京諸畜売肉商(肉卸問屋)組合頭取、東京博善株式会社社長、東京本芝浦鉱泉株式会社(温泉つき割烹旅館)社長、日本麦酒醸造会社(ヱビスビール)社長、東京商業会議所議員、日本商家同志会顧問、芝区議会議員、東京市会議員、東京府議会議員。当時日本最大の牛鍋チェーン店「いろは」を経営し、「いろは大王」と謳われた。1841年(天保12年)7月、山城国伏見(現在の京都市伏見区)に生まれる。幼名鹿蔵。生家は代々の茶師で、徳川家康以来、公方様御用と禁裡御用を務めた。父が宇治田原(現在の京都府綴喜郡宇治田原町)の木村家に夫婦養子に入った後、理由あって上林家に戻ったが、そのとき鹿蔵のみ木村家に残されたという。幼時より悪戯と喧嘩を好み、7歳で寺子屋に預けられたが学業は不振で、3年間の勉学の後も自らの姓名しか書けなかったと伝えられる。1855年に力士を志して家出し、大坂の小野川秀五郎に入門。程なく生家に連れ戻されたが、放蕩が祟って1868年に勘当を受ける。家を出されてからは伏見で青物屋を開いて成功。1861年、青物問屋23軒の組合を作り、取締役となる。1868年の鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩御用をつとめたが、売掛金を踏み倒されて倒産。1870年、神戸市栄町に資本金30万円で製茶貿易商店を設立するも、事業不振により倒産。その後も何度か事業の失敗を繰り返した。1878年(明治11年)、鳥羽・伏見の戦い以来の縁により、内務卿・大久保利通の懐刀と呼ばれた薩摩藩出身の東京警視庁大警視(のちの警視総監)の川路利良の招きを受けて上京し、明治政府から官営屠場の払い下げを受けて成功。同年から牛鍋チェーン店「いろは」を経営。芝区三田四国町(現在の港区芝3丁目)の一号店(第一いろは)をはじめとして、東京市内22箇所にのぼる支店にそれぞれ妾を配置して各店の経営にあたらせた。傍ら、東京府下15区6郡の肉問屋を糾合して東京諸畜売肉商組合を結成すると共に、1887年(明治20年)には東京家畜市場会社の理事に就任。同年、日暮里村の火葬場運営を請け負う東京博善会社を設立。理事を経て社長となる。さらに同年、日本麦酒醸造会社を設立し、社長に就任。また、ほかにも東京本芝浦鉱泉株式会社を経営、同社の温泉付旅館「芝浜館」と料亭「芝浦館」は、芝浦埋め立て以前のリゾート施設として成功した。政治的には星亨の派閥に属し、1896年(明治29年)、東京市会議員に当選。東京府会議員から衆議院進出を計画していた矢先、1906年(明治39年)4月27日に顎癌で死去。享年67。牛鍋店の支店における妾の間に産まれた子供は計30人(男11人、女16人、早世3人)に上り、長女栄子が木村曙の筆名で作家として知られた他、次男木村荘太も作家、三男木村荘五は経済学者、四男荘六は奇術師木村マリニー(木村紅葉の名で活動弁士をしていたが、に会って奇術師に転向)、五男木村荘七・四女清子は俳優、六男木村荘八は画家、七男木村荘九は編集者、八男木村荘十は直木賞作家、十男木村荘十二は映画監督となった。「いろは」チェーンは養子の荘蔵が引き継いだが、数年で没落した。

出典:wikipedia

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