東大寺山古墳(とうだいじやまこふん)は、奈良県天理市に所在する古墳時代前期中葉にあたる4世紀後半頃に築造された前方後円墳である。副葬品の中に、24文字を金象嵌で表し、「中平」の紀年銘を持つ鉄刀があった。天理市和邇(わに)から櫟本(いちのもと)にかけては、和邇氏族の拠点であり、関連一族が築造したと推定される古墳が平野部との比高差約70メートルの丘陵上に点在している。その一つが本古墳である。この丘陵には奈良県では最大規模の弥生後期の高地性遺跡がある。東西約400メートル、南北300メートルの範囲内に竪穴式住居があって、二重の空堀が巡り、空堀の構造は大阪府和泉市の観音寺山遺跡に共通している。本古墳は、この高地性遺跡と重複するようにして存在し、その遺跡の役割が終わって150~200年ほど後に築造されている。位置 規模・形状は推定140メートルの前方後円墳で墳丘には円筒埴輪を巡らす。築造時期は4世紀後半ごろ。後円部の埋葬施設の主体部は、墳丘主軸に平行する木棺を覆った粘土槨があり、長さ推定9.4メートルの及ぶ大規模なもので、主要部分は盗掘を受けていた。粘土槨の東西に墓壙が掘られ、豊富な武器や武具が副葬されていた。その東側の墓壙(粘土槨)から「中平」の年号を持つ刀が出土した。鉄刀20本、鉄剣9本などの武器類のほか、玉類、腕輪形石製品、滑石製のつぼなどが出土している。「中平」銘鉄刀を含む5本の装飾環頭付きの鉄刀(大刀)の環頭は、様々な意匠を表している。基本的には楽浪の石巌里(せきがんり)の古墳で出土しているような環の中に三葉形を入れた三葉環である。三葉環の鉄刀は、福岡市の若八幡宮古墳(4世紀)から出土している。鉄刀の中には、家形の環頭(かんとう)をつけた刀もあり、奈良県河合町の佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡の鏡背に表された家屋と形体が類似している。刀身の棟の部分に24文字を金象嵌で表した長さ110センチメートルの鉄刀1口が出土した。鉄刀の刀身の銘文は「吉祥句」を用い、「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」と記されていた。内容は「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」という意味である。中平とは後漢の霊帝の年号で、184~189年を指し、「倭国乱」(『魏志』倭人伝)「倭国大乱」(宋書)が終結した時期、2世紀の末である。中平銘紀年刀は「倭国乱」終結後、後漢王朝から下賜されたものであると考えられている。この鉄刀がいつどこで入手され、本古墳に副葬されたのかは分からない。しかし、この地の人たちが中国の後漢と通交があったのではなかろうかと考えることができる。鉄刀に着けられていた環頭は鳥文飾りであり、刀身は内反りしていて、日本の前期古墳に特有の直刀とは違い、中平の年号が示すように中国(後漢)製である。中国製の刀身に日本で改造し、日本式の環頭を付したものと推定されている。棺外東側の被覆粘土中から出土した刀・槍郡の一振で、環頭飾り部分と鉄刀本体部分は別々に造られたものである。環頭部分は青銅の鋳造品で、環頭の外側に様々な装飾を施し、そのデザインは直弧文を刻んだ環の中に三葉文を置き、上端に花形飾りを付ける。その横に角形の突起を一対、鳥形の飾りを一対付ける。このような飾りの環頭大刀が三点出土しており、そのうちの1点が「中平」鉄刀である。(特別展チラシ(PDF))
出典:wikipedia
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