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松坂大輔

松坂 大輔(まつざか だいすけ、1980年9月13日 - )は、東京都出身(出生地は青森県青森市)のプロ野球選手(投手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。青森県青森市生まれ、東京都江東区育ち。父は北海道稚内市出身で、母は青森県東津軽郡蟹田町(現在の外ヶ浜町)出身。弟・松坂恭平は愛媛マンダリンパイレーツに所属していた元プロ野球選手。妻は元日本テレビアナウンサーの柴田倫世。夫婦の間には2005年12月に誕生した長女と、2008年3月に誕生した長男、2010年3月に誕生した次女がいる。「大輔」という名前は、1980年に大旋風を巻き起こした甲子園のアイドル、早稲田実業の荒木大輔の名前からとられている。愛称は「マツポン」「マツ」「ダイスケ」、MLBメディアでは「Dice-K」「D-Mat」という愛称が使われている。ボストンでは「Dice-K」が好まれる。本人は「D-Mat」をサインに使うこともある。渡米後の代理人はスコット・ボラス。「目標が、その日その日を支配する」を座右の銘にしているが、これは横浜高校創立者黒土四郎が愛した詩の一節である。5歳から小学3年生までは、地元東京都江東区の福住剣友会で剣道に打ち込む。2006年に行われた少年野球教室で、「球を速くするにはどうすればいいですか?」という質問には「剣道をすると背筋と手首が鍛えられて良いよ」と答えている。小学3年生で江東区の東陽フェニックスに入部し野球を始める。中学時代は江戸川区の江戸川南リーグ(リトルリーグ)に所属する(小谷野栄一がチームメートだった)。リトルリーグ時代にNHK教育テレビジョンの『天才てれびくん』に出演したことがある。横浜高校時代は、「サボリのマツ」と言われるほどの練習嫌いであったが、2年生時の夏の神奈川大会準決勝の対横浜商業高校戦において自身の暴投によるサヨナラ負けを喫して以降奮起して猛練習、3年生時に150km/h超の球速を出し、切れ味鋭いスライダーを武器に超高校級の投手として「平成の怪物」として注目を浴びた。またバッテリーを組んでいた捕手は、入学時が上地雄輔、上地の引退後は小山良男だった(本当は帝京高校への進学が内定していたが、シニア日本代表で知り合った小山の誘いで横浜へ方向転換)。当時から西宮佑騎と親友。1998年の第70回選抜高等学校野球大会では完成度の高い投球と小山、後藤武敏、小池正晃らチームメイトの活躍で他校を寄せ付けず優勝。最後の夏となった第80回全国高等学校野球選手権大会では、準々決勝で上重聡(後に日本テレビアナウンサー)や大西宏明や平石洋介や2年生田中一徳を擁する(春の準決勝で破った)PL学園高校に延長17回という長丁場の試合に250球を投げ完投勝利。翌日の準決勝、寺本四郎擁する明徳義塾戦でも1イニングに登板し、逆転劇を呼び込む。決勝の京都成章戦では嶋清一以来59年ぶり史上2人目となる決勝戦のノーヒットノーランという快挙。圧倒的な活躍で春・夏連覇を達成した。この決勝戦は後に所属するボストン・レッドソックスのスカウトが観戦していた。また、新チーム結成後、1997年秋季県大会ブロック予選(数ヶ月後の第28回明治神宮野球大会含め)から翌年かながわ・ゆめ国体決勝まで、公式戦44連勝を記録した。第3回AAAアジア野球選手権大会でも自身の18歳の誕生日に決勝で張誌家擁する野球中華民国代表を破り優勝投手になった。1998年度新人選手選択会議では、指名順位1位で日本ハムファイターズ及び横浜ベイスターズ含む3球団が競合の末、西武ライオンズが交渉権を獲得(ハズレ1位指名は、横浜は古木克明、日本ハムは實松一成、いずれも同じ高校3年生)。ドラフト直後の会見では「自分の意中の球団は横浜ベイスターズでした」と語っていたが、西武へ入団した。2006年11月15日にボストン・レッドソックスが5111万1111ドル11セント(当時のレートで約60億1000万円)で独占交渉権を獲得したことが発表される。その後、代理人のスコット・ボラスとレッドソックス側の契約交渉が難航したが、ボラスは交渉期限直前で松坂本人の意思を尊重し、12月14日に総額5200万ドルの6年契約を結ぶ。レッドソックスファンであるアメリカ国務次官補のクリストファー・ヒルは、六カ国協議が行われる北京への出発前に記者会見で「今日のマツザカの交渉はどうなった?」などと交渉の行方を気にかけていた。フィニッシュにおいても腕の抱え込み動作を続けることができる安定した下半身を持つ。投球フォームはワインドアップ中に間を取るモーションから繰り出すスリークォーターで、クイックは1.0秒台と非常に速い。2010年までは平均球速91.8mph(約147.7km/h)、最速97mph(約156km/h)の速球(フォーシーム、ツーシーム、ワンシーム)に加え、球速の違う数種類のスライダー(スラーブ)、カットボール、数種類のチェンジアップ(サークルチェンジ、スプリットチェンジなど)を投げ分け、稀にスプリッター、カーブも混ぜ、縦に変化するスライダーで三振を奪うケースが多かった。プロ初登板の試合で155km/hの高めの速球で片岡篤史から三振を奪ったシーンは松坂のプロ入り後の有名なエピソードのひとつとして語られており、このプロ1年目から平均球速約146km/hを記録した速球については「理想のボールは初速と終速の差が5km/hしかない160km/h。そんな球を投げられたら他の変化球は一つもいらないと思うんですけどね」と語っており、4年目からはフォーシームの速球の握りを指の間隔が狭いものにし、下半身の使い方や腕の振りも変えて綺麗な縦回転と強いスピンを意識してキレを増す。レッドソックス移籍後も2010年までは平均球速91.8mph(約147.7km/h)を記録し、2010年には速球主体のピッチングでチームメイトからは「メジャー4年間で最高の球威だ」との評価を得ていた。しかし、トミー・ジョン手術から復帰した2012年以降は平均球速90.1mph(約145km/h)、最速95mph(約153km/h)と球速が下がり、カーブの投球割合を増やし緩急をつける投球スタイルとなった。右肩関節唇の手術から復帰した2016年以降はさらに球威が落ち、球速は最速でも147km/hに留まっている。被ウェルヒット率(アウト、ヒットにかかわらず打者にいい当たりを打たれた率)とストライクの空振り率では優秀な数値を残し、ボールの質はメジャーでも高いレベルにあると評価されていたが、速球のコマンド(狙ったスポットに投げる能力)に難があり、与四球率が高い。2006年から2010年にかけてはストライドがやや狭まったこと以外に投球動作に大きな変化はないが、リリースポイントで頭が動く事、下半身が安定せず上下動が激しい事がコントロールの極端さを生んでいると指摘されていた。レッドソックス移籍前後、メジャーリーグスカウトの「マツザカはジャイロボールを投げる」という噂が話題となる。本人は当初ジャイロボールに関して「何を指してジャイロと言われているのかわからない」と語り、実際は持ち味の一つであるカットボールの抜け球のことであったが、レッドソックス移籍当初は「あると思わせていればいいんじゃないですか」と答えていた。フィールディングに優れ、NPB在籍8年間のうち、資格を得ていた7年すべてでゴールデングラブ賞を獲得した(2002年のみ投球回・試合数の不足のため同賞の有資格者ではなかった)。MLB時代は2014年までの通算DRS-9を記録している。打撃が好きなことを公言しており、西武時代は気分転換もかねて打撃練習もトレーニングに取り入れていたが、レッドソックス移籍後はインターリーグ時でしか打撃練習を許されなかった高校時代は4番を務めていた時期もあり、高校通算14本塁打を記録。2000年8月7日のオリックス戦では、9回2死満塁の場面で代打として登場。栗山聡からファールで粘った後の7球目を中堅前安打し、2打点を挙げた。2002年の日本シリーズでは、当時の監督の伊原春樹は投手を8番に置き、9番打者をシーズン同様に高木浩之とすることを示唆していたが、松坂には7番を打たせた。2006年6月9日のセ・パ交流戦・阪神戦(甲子園)では、8回表2死3塁の場面でダーウィン・クビアンの150km/hの高めのボール球を叩いて2点本塁打。DH制施行後、パ・リーグの投手としては4人目の記録となった。レッドソックス移籍後の2007年6月10日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦でランディ・ジョンソンから2打席2三振を喫し、6月22日のサンディエゴ・パドレス戦でも、グレッグ・マダックスを相手に2打席とも内野ゴロに倒れ、1年目のレギュラーシーズンは無安打に終わった。しかし、ワールドシリーズ第3戦のロッキーズ戦で、3回表2死満塁の場面でジョシュ・フォッグの初球を叩き、メジャー移籍後初安打を記録し2打点を挙げた。ワールドシリーズでレッドソックスの投手が2打点を挙げたのはサイ・ヤング、ベーブ・ルースに続いて史上3人目だった。松坂大輔と同学年の選手には、投手を中心にプロで活躍する逸材が揃っており、総称して「松坂世代」と呼ばれている。

出典:wikipedia

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