佐世保鉄道(させぼてつどう)は、大正時代から昭和時代初期にかけて現在の松浦鉄道西九州線の一部を建設・運営した鉄道会社である。佐世保鉄道(設立当時は佐世保軽便鉄道)は当時北松炭田と呼ばれた炭鉱地帯(現在の佐世保市北部から北松浦半島にかけて)から採掘された石炭を北松浦半島沿岸の港まで運び出すために世知原出身の政治家である中倉万次郎を中心とした地元資本により設立されたものである。762mm軌間を採用した軽便鉄道であるため輸送力は決して大きくはなかったが、鉄道開通で北松炭田からの石炭輸送は格段に便利になった。当初の目的の関係で、現在の佐世保市柚木地区等の相浦川沿いにある炭鉱から採掘された石炭を相浦港(佐世保港相浦港区)に運び出す路線と、同市世知原地区(旧世知原町)等の佐々川沿いの炭鉱からの石炭を佐々を経て臼ノ浦港まで運び出す路線を軸として、両者を連絡する路線と広域的な中心である佐世保市の中心市街地への客貨輸送のための上佐世保駅(国有化後廃止。現在の北佐世保駅の西方、桜の聖母幼稚園のあたりにあった)への支線を設ける形となった。またバス路線(佐世保駅前-俵町間、左右駅-栗木峠間)を保有していた。満州事変以降東アジアでの緊張が高まる中で、運炭路線としての重要性と国鉄伊万里線と結んで北松浦半島を循環する国鉄線の一部とする必要上から国有化された。路線の消長の詳細については「松浦鉄道西九州線」の項目を参照されたい。なお、国有化後に改軌と路線改良が行われたため、現在の西九州線のうち佐世保鉄道時代の路線をほぼそのまま使用しているのは吉井駅構内と神田駅 - 佐々駅南方、相浦駅構内、本山駅付近 - 左石駅となっている。国有化直前実盛谷駅は上相浦駅 - 肥前中里(現中里駅)間、四ツ指駅(のち四ツ井樋)は佐々駅 - 小浦駅間にあった。いずれも路線改良によるルート変更にともない廃止されている。ホハ12-19は耶馬渓鉄道より、フハ20-24は中国鉄道より譲渡されたもの。買収後私鉄に譲渡されたものはケコハ480,488→遠州鉄道サハ1103,1104、481,487,500→日本鉱業佐賀関鉄道、485→静岡鉄道駿遠線、495か496のいずれか九十九里鉄道ケハ111、491-493,497→大分交通豊州線があった。栗林宗人「大分交通豊州線廃止直前の客車について」「RAILFAN」No.575 2000年10月号 鉄道友の会より買収後の形式で記す。
出典:wikipedia
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