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宮柱義雄

宮柱 義雄(みやばしら よしお、1936年1月14日- )は、佐賀県佐賀郡本庄村(現・同県佐賀市本庄町)出身で、二所ノ関部屋に所属した大相撲力士である。本名は江口 義雄(えぐち よしお)。身長185cm、体重108kg。得意手は左四つ、寄り。最高位は東前頭11枚目(1961年9月場所)。地元の中学校を卒業後、同郷の元大関・佐賀ノ花が率いる二所ノ関部屋に入門し、1953年(昭和28年)1月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名と同じ「江口」。同期の初土俵には、後の前頭・清ノ森や同・朝ノ海らがいる。三段目時代に故郷の佐賀県佐賀郡に因んだ「佐賀ノ里」と改名し、その後は順調に出世し、1957年(昭和32年)3月場所にて初土俵から17場所で十両に昇進した。しかし同年11月場所前の巡業で左膝と股を痛めてしまい、以降十両に23場所連続で在位したが、漸く1961年(昭和36年)9月場所で新入幕を果たした。この場所、同部屋の後輩である大関・大鵬が3度目の幕内最高優勝を果たして横綱昇進を決めたことから、横綱推挙の明治神宮に於ける最初の横綱土俵入りの際には露払いを務めた。しかし、入幕2場所目の同年11月場所中、成山との一戦で勝ちながらも再び左膝を負傷。この一戦では、左大腿部にも傷を負ってしまった。その後は、2場所幕内を務めたのみで主に十両中位を往復し、十両在位は通算44場所を数えた。幕内での華やかな活躍は少なかったものの、元大関・松登や十両在位時には、後の横綱・柏戸(当時、「富樫」)や同・栃ノ海(同、「花田」)らに勝ったこともあった。左四つからの寄りが得意だったが、腰高で決め技を欠いて大成できなかった。1965年(昭和40年)3月場所限りで引退した後は年寄・濱風を襲名し、二所ノ関部屋付きの親方として後進の指導に当たった(その後は、同じ二所ノ関一門の他の部屋に移籍)。2000年(平成12年)7月場所後、元小結・三杉里の準年寄・三杉里に年寄名跡・濱風を譲り、日本相撲協会を退職した。同協会では、主に名古屋場所担当委員を務め、その期間は実に26年の長きに及んだ。

出典:wikipedia

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