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マチカネタンホイザ

マチカネタンホイザ(1989年5月7日 - 2013年12月7日)は日本の競走馬。中央競馬で2歳時から強烈な個性で独特の人気を得た名脇役として長きにわたり活躍し、高松宮杯など重賞4勝をあげた。GIこそ勝てなかったもののノーザンテースト産駒の中では最高賞金を獲得した競走馬である。馬名の由来は、冠名+ワーグナーの歌劇タンホイザー。※以降の馬齢は当時の表記(数え年)とする。マチカネタンホイザは「2度成長する」と言われたノーザンテースト産駒であることに加え、日本を代表する名牝系・スターロツチ系に属し、近親にハードバージがいる良血馬としてデビュー前から人々の期待を集めていた。タンホイザは1991年の9月、中京の3歳新馬戦でデビューした。鞍上に武豊を迎えたこともあり2番人気に支持され、2着のトキオレジェンドに6馬身の差をつけて圧勝した。その後、府中3歳ステークスに勝ったタンホイザは岡部幸雄とのコンビで朝日杯3歳ステークスに出走したが、ミホノブルボンの4着に敗れた。1992年、4歳になったタンホイザは共同通信杯4歳ステークスから始動したが4着に終わった。その後、タンホイザは皐月賞トライアル・スプリングステークス5着を経て皐月賞に出走したが7着、ダービートライアル・NHK杯2着を挟んで日本ダービーにも出走したが4着に敗れた。夏場を休養に当てたタンホイザは秋はオープン特別のカシオペアステークスから始動。2着に敗れたものの菊花賞に向けて上々の滑り出しとなった。そして、中1週で挑んだ菊花賞でタンホイザは3番人気と上位に支持されたものの、これまで無敗で二冠を達成しシンボリルドルフ以来の無敗での三冠達成の期待がかかっていたミホノブルボン一色のムードであった。レースはダービー2着で2番人気に支持されたライスシャワーがミホノブルボンの三冠を阻止し、タンホイザ自身は2着のミホノブルボンをアタマ差まで追い詰める3着と見せ場を作った。なお、4歳時は全レースで岡部幸雄がタンホイザに騎乗している。1993年、古馬になったタンホイザは柴田政人とのコンビで金杯(東)で始動するも8着と大敗した。が、鞍上を岡部に戻したダイヤモンドステークスでは当時の芝3200mのJRAレコードで重賞初勝利を挙げた。次走の目黒記念では1kgの斤量差があったとはいえ、菊花賞馬ライスシャワーを退け勝利した。重賞2連勝で本格化したタンホイザは春の天皇賞に出走し、3番人気に支持された。だが、レースでは先行して粘りこみ4着に入ったものの、3着のメジロパーマーにも6馬身の差をつけられるという着順以上の大敗であった。その後、タンホイザはメイステークス、富士ステークスとオープン特別では2勝をあげるも、GIではジャパンカップは15着、有馬記念は4着という成績でこの年を終えている。なお、この年の有馬記念から柴田善臣が騎乗している。1994年、タンホイザは初戦のアメリカジョッキークラブカップで重賞3勝目を挙げたが、日経賞3着を経て出走した天皇賞(春)では5着、京阪杯5着を経て出走した宝塚記念では9着、毎日王冠5着を経て出走した天皇賞(秋)では4着とGIでは今一つのレースが続いた。天皇賞後、タンホイザはジャパンカップと有馬記念に出走する予定だったが、ジャパンカップでは鼻出血を発症して競走除外、有馬記念では蕁麻疹(蕁麻疹は飼い葉に紛れ込んだ蜘蛛を誤って食べてしまったのが原因という話もある。)を発症して出走取消と2レース連続でGI出走を取り消すという珍記録を作り、不運が重なった1年であった。1995年、タンホイザは前年同様、アメリカジョッキークラブカップに向けて調整が進められていたが、フレグモーネ(外傷から化膿する症状)を発症したため出走を回避し、夏まで休養することになった。春を全休したタンホイザはその後、高松宮杯に出走。前年の有馬記念2着馬のヒシアマゾンを破って優勝したが、これがタンホイザにとって最後の重賞勝ちとなった。高松宮杯後、函館記念で1番人気に推されながら8着に敗れたタンホイザは天皇賞(秋)6着、ジャパンカップ12着と敗れ、ステイヤーズステークス7着を最後に引退、種牡馬になった。タンホイザは8勝しているが、そのうちの7勝が左回りというサウスポーだった。引退後、タンホイザはブリーダーズ・スタリオン・ステーションで種牡馬となった。が、交流重賞での入着馬を出すのが精一杯であったため、種付け頭数には恵まれず、2004年以降は種付けを行っていなかった。2006年にタンホイザはオーナーが所有する待兼牧場に移動。2010年の種付けシーズン途中で種牡馬を引退した。同年、山梨県北杜市清里高原の小須田牧場にて、マチカネフクキタルとともに功労馬として繋養されていた。2013年12月7日、疝痛により死亡した。

出典:wikipedia

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