信濃島津氏(しなのしまづし)は薩摩国島津氏の支族のひとつ。信州家(しんしゅうけ)とも呼ばれる。『島津家文書』三〇六「信濃国太田庄相伝系図」には、島津忠久が承久3年(1221年)5月8日、「幕府下知状」によって水内郡太田庄地頭職に補任された後、鎌倉末期までの太田庄(田畑三百四十町余)の荘園経営に関連した一族の系図が示されている。太田庄領家は島津氏に縁の深い摂家近衛家であった。「信濃国太田庄相伝系図」、嘉暦4年(1329年)3月の「北条高時下知状」によれば、幕府は輪番をもって、信濃国の御家人に諏訪社五月会・御射山の祭祀の役を勤めさせており、豊後前司忠久(島津氏高祖)、大隈前司忠時(薩州2代目)、彦三郎左衛門尉忠長(忠時孫)、弥三郎入道称阿頼祐(忠時孫)、五郎右衛門尉忠秀(越前島津氏忠綱曾孫)、左京進光忠(忠久3男忠直曾孫)らが祭祀の役を勤めていることが示されている。承元4年(1210年)それまで善光寺の地頭であった長沼宗政が解任され、窪寺氏や原氏、諏訪部氏、和田氏の四氏が奉行となった記録がある。興国3年/康永元年(1342年)大倉郷の帰属をめぐって称名寺との間に所領を争い、長く続いた。元中4年/嘉慶元年(1387年)5月、室町幕府から任命された守護の斯波義種に抵抗する長沼太郎は村上頼国や高梨頼高、小笠原清順ら国人領主達と善光寺に挙兵した。平芝にあったとされる守護所を攻めて麓の漆田原で合戦となった。同年8月には斯波氏の守護代である二宮氏泰が占拠篭城していた横山城を国人領主達が激戦の末攻め落とした。この後も敗走する市河氏らを追撃して埴科郡の生仁城に転戦している。応永6年(1399年)信濃守護となった小笠原長秀に抵抗した島津国忠が小笠原方の赤沢氏や櫛置氏らと対立し水内郡石和田(長野市石渡)での抗争があったとされる。これが大塔合戦の前哨戦といわれている。忠久以降、島津氏一族は太田庄の各郷の地頭職を補任され、相伝した。このなかに長沼家と赤沼家と称する支流が知られている。長沼家と赤沼家の両家は、戦国時代を生き抜くため、協力し、赤沼家が長沼家をたよって、両家とも米沢藩上杉氏に仕官している。『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』によると、天文5年(1536年)に亡くなった時宗の遊行上人第26代他阿空達は、信濃島津氏の出身である。島津氏高祖・忠久の3男・豊後六郎左衛門尉忠直の曾孫・左京進光忠(=島津光忠(みつただ))は信濃国長沼郷・黒河郷・下浅野福王寺郷の地頭職となり、信濃島津氏長沼家の祖となる。同家は米沢藩の家老家である侍組分領家の一つとなる。米沢藩#分領家(14戸)を参照。越前島津氏元祖・忠綱の3男・忠景の孫・五郎右衛門尉忠秀(常陸介、大夫判官)は、赤沼郷地頭職となり、信濃島津氏赤沼家の祖となる。
出典:wikipedia
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