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李成桂

李 成桂(り せいけい、イ・ソンゲ、太祖 康献大王 忠粛王4年10月11日(1335年10月27日) - 太宗8年5月24日(1408年6月18日))は、元(モンゴル)の武官、1357年から高麗の武官、李氏朝鮮の創始者にして初代国王。咸鏡南道の永興(金野郡)の出身。『李朝太祖実録』によれば本貫は全州李氏という。大韓帝国期に太祖高皇帝の称号を送られた。朝鮮王室の根元である全州李氏の始祖は新羅で司空という役職に就いていた李翰と『太宗実録』など朝鮮王朝時代の歴史書には記録されており、また全州李氏の記録である『完山実録』には李翰は中国人だと記されているが、これは朝鮮を初めて統一した新羅や、当時、東アジアの中心であった中国に連ねることで権威付けを図った可能性が推測され、現実の李翰は統一新羅時代から高麗時代にかけて全州地方に勢力をもっていた有力地方豪族だと考えられている。なお、全州李氏には百済時代末期から続く豪族・全州李氏に、鴨緑江流域に居住していた農耕と養豚を正業とする女真出身の李翰が養子として婿入りしたという伝承がある。李翰とその子孫たちは全州の有力者として影響力を持ち、1170年の武臣の反乱を契機に中央政界に進出した。しかし全州李氏一族の発展はすぐに躓くことになる。李成桂の六代前の李璘は兄の李義方と共に武臣の乱鎮圧の勢いに乗じて中央に進出したが、兄が出世競争に敗れると李璘も都から追放され、夫人も流離いの身となった。李璘の子で、李陽茂も苦難の日々を過ごした。そして彼らは都での権力闘争に敗れると、故郷の全州で一揆を起こした疑いまでかけられるようになる。ついに李成桂の四代前、李陽茂の子である李安社は180名に及ぶ一族郎党を率いて故郷を離れた。最初彼らは江原道に定住したが、中央からの追手に見つかったため、当時元が支配していた咸鏡北道に亡命した。朝鮮王室の記録では「李安社が地方の役人と女を巡って激しく対立し、その役人が何かにつけて揚げ足をとり李安社を排除しようとした。それに堪えられなかった李安社は一族郎党を率いて江原道に避難したが、その役人が人事異動で江原道の責任者として来ることになったので、再び一族郎党を率いて咸鏡北道に移住した。そこは元の影響下にあり、国外亡命の様相を呈した」と記している。しかし現在では研究が進んだ結果、これが事実ではないことが明らかとなった。その実態は中央政府の監視や圧力に耐えられなかったか、すすんで中央に反旗を翻した末に敗北して亡命に至ったと考えられている。咸鏡道北部に亡命した李安社は元からダルガチの職責を与えられ周辺の女真族の統治を任された。しかし女真族との間に徐々に対立が生じると、李成桂の曽祖父李行里(翼祖)は一族郎党を率いて南方の江原道安辺郡に移住した。全州李氏一族は磨天嶺以南(以北には女真族の集落が散在)の東北面を管轄する大勢力となり一種の独立政権を築いた。そして1335年、李成桂が双城総管府の和州(咸鏡南道の永興、現在の金野郡)で李子春と永興崔氏の子として生まれた。李成桂の出自は公的には全州李氏とされているが、三田村泰助は「がんらい李成桂は、全羅道全州の名門の出といわれるが、疑わしく、数代まえより、北鮮の咸鏡道にいた。」と述べている。池内宏は、全州李氏という如きは決して信じるべきではないと斥けている。李成桂の曾祖母である貞淑王后崔氏の本貫は中国山東省登州であり、母親の懿恵王后崔氏も同じく中国山東省登州から咸鏡道に移住した漢人である。一方、李成桂を女真族とする説やモンゴル軍閥とする説もある。倉山満は、李成桂を「謎の人物」であり「どこの誰だかよくわからない」と評して、「韓国は当然ながら朝鮮人だと言いますし、中国人のなかには漢民族だとか、モンゴル軍閥の一人だと言う人もいます。最も信憑性が高いのは、女真人(満州人)でしょう。」と述べる。池内宏や岡田英弘や宮脇淳子や宮家邦彦や豊田隆雄らは李成桂が女真族或いは女真族の血を引いている可能性を指摘している。(山内弘一は李氏一族は全羅道の全州出身という『龍飛御天歌』の説を紹介したのちに、李の父親の部下に女真人の活躍者がいたから、「女真人の血を引くとする説もある。」としている。また、室谷克実は崔南善が著書『物語朝鮮の歴史』において李氏朝鮮の創建過程を簡素に書いたのは李成桂が女真族であることを認識していたからではないか、と述べている。宮嶋博史は、「全州李氏の一族とされるが、女真族の出身とする説もある。父の李子春は、元の直轄領となっていた咸鏡道地域の双城総管府に使える武人であった。この地域は女真族が多く住んでいた。李成桂が武臣として台頭するにあたっても、その配下の女真人の力が大きく作用した。」と記している。李成桂女真族説の根拠としては次のことが挙げられる。岡田英弘と宮脇淳子は、「双城で高麗軍に降伏した者のなかに、ウルスブハ(李子春)というジュシェン(女直)人があったが、その息子が李成桂(朝鮮の太祖王)で、当時22歳であった」とし、『李朝実録』の冒頭『太祖実録』の内容を用いて次のことを挙げている。神道碑、定陵碑、龍飛御天歌、李朝実録、高麗史などの李氏一族の伝承の史料解釈上、李成桂の父祖として伝えられる四祖(穆祖、翼祖、度祖、桓祖)のうち、信じうるのは父と祖父のみで、それ以前は系譜を長くするため作為された架空の人物であり、父と祖父は事跡については創作と考えられている。桓祖は、ただわずかに信をおき得べきは、彼が双城付近の千戸としてその地の土民の間に多少の勢力を有していたことにして、その他の伝説は双城攻破の際における桓祖の功業、元への上表を裏面に包める入朝親喩、これより以前に起れる桓祖并に父祖の入朝など一として信頼に値すべきものなく、これらの伝説はことごとく抹殺せざるを得ない。神道碑における桓祖の記事は、病没に関する一句と「朔方道萬戸」以外はほとんど信頼に値しない。また、神道碑は恭愍王五年における双城修復の後三十一年、同年九月四日における桓祖の死没の後二十七年、太祖李成桂即位に先立つ五年で、龍飛御天歌は碑に後れること六十年にして成り、高麗史はさらに四年をへて撰進せられし書ならば、神道碑とこれ等の両書の関係は明瞭で、相互の諸条の符節が合するごとくは、後者が前者を踏襲したためである。伝説・系図の制作は、李公神道碑建立の際においてせられ、鄭惣が定陵碑を撰する際に系図の延長、李成桂の王氏に代わるとともに穆祖の伝説の南京より孔州に移転、野人古慶源の地を侵奪して翼祖の伝説の変化、龍飛御天歌の編纂において穆・翼二祖の伝説の周の祖先の伝説に擬するなど特殊の機会と必要とに応じて、その形態の変化が見られる。のちに15世紀になって編纂され、王朝創建の偉業を称えた頌詠歌集龍飛御天歌及び高麗史は世宗の時、同一なる編者の手により成った書で、しかし高麗史は李成桂即位の四年、判三司事鄭道傳・政堂文学鄭惣等、はじめて高麗太祖より恭讓君にいたるまで三十七巻を撰進せし後、大宗しばしば史臣に命じて改修竄定せしめ、太祖李成桂のごときは、史官の極諫を用いずして、鄭道傳・鄭惣等の既修に関わる恭愍王以来の高麗史及び王申以来の史草を親覧したることなれば、これらの史書及び文宗元年上進せられし今の高麗史に見えたる李朝の祖先に関する記事に曲筆ないし潤色の跡ありと考えられる。「高麗時代に女真族と認識した跡形がない」「名門家と結婚している」のは、女真族であることを偽り高麗人を装い、祖父以前は架空の人物で李朝の祖先に関する事跡は創作であるためであると考えられている。李成桂の祖父の後妻趙氏が双城総管の女、度祖が元の宣命を受けて亡父の職を襲げり、その配朴氏が斡東の百戸の女、塔思不花没後の継承の争議に関して元の裁断を仰いだというのは、四祖の伝説が双城と元とに結合させられることより派生したもので何等措信の価値あるものにあらずと考えられている。東洋史学者尹銀淑(ユンウンスク)博士とモンゴル系中国人学者・エルデニ・バタル博士(内モンゴル大学教授)は博士の学位論文を通じて、李成桂はモンゴル軍閥出身で、李成桂の家門は旧高麗領に置かれた元の直轄統治機構である双城総管府でほぼ100年間にわたりモンゴルの官職を務め、勢力を伸ばしたために、李朝を建国することができたという新しい学説を提唱している。尹博士は学位論文『蒙元帝国期オッチギン家の東北満州支配』において13~14世紀に東北、満洲地域を元のオッチギン家が支配したという事実に注目したと述べている。チンギス・ハンが1211年に征服した土地を近親者に分け与え、オッチギンには東北、満州地域を統治させた。オッチギンは遊牧と農耕を基盤にこの地で独立的な勢力を形成していた。李成桂の高祖父李安社は全州から豆満江流域の斡東地域に移り、 後の1255年に千戸長、ダルガチの地位を元皇帝から賜ったが、千戸長はモンゴル族以外の人が任命されることが非常に珍しい高位の職であることから、 実質的にはオッチギンから認められた軍閥勢力が就任していたと述べている。1290年にオッチギン家で内紛が起きたため、李安社の息子、李行里は斡東の基盤を失って咸興平野に移住したが、千戸長、ダルガチの職位は李行里の曽孫子である李成桂の時まで五代に渡って世襲された。エルデニ博士は学位論文『元・高麗支配勢力関係の性格研究』において李成桂一門はオッチギン家を通じ、当時最先端にあったモンゴル帝国の軍事技術を直接吸収し、その後、オッチギン家直属の斡東と双城総管府の多くの条件を活用して自らの勢力を育てた。李成桂は1362年に元の将軍ナガチュとの戦闘で、この先端技術を用いて勝利していると述べている。尹博士は1388年の威化島回軍も、モンゴルの内部事情に精通している李成桂が、元の軍事力が崩壊したことを把握した上で起こした「旧モンゴル将軍の裏切り」と見るべきだと述べている。従って、李氏朝鮮の建国は朝鮮半島の自生的産物としてだけでは見る事は出来ず、モンゴル帝国の中心地である北東アジアで、13世紀から14世紀に起きた激変の歴史の総体的果実として生まれた王朝が李氏朝鮮であり、李氏朝鮮は表面では親明事大を標榜していたにもかかわらず、パクス・モンゴリカ体制の中心である北方遊牧帝国の伝統を事実上維持し続けていたと述べている。1356年、高麗の恭愍王は反元政策を掲げ、元に奪われていた領土の収復を推進した。領土奪還のためには全州李氏一族の協力が必要であった。李成桂の父で、当時元の千戸の地位にあった李子春は恭愍王の政策に進んで協力した。恭愍王は双城総管府攻撃の直前に、李子春を開京に呼んで小府尹という高位の官職を与えた。東北面兵馬使柳仁雨率いる高麗軍が双城を攻撃すると、李子春は内部から呼応して高麗軍と共に戦い、双城を容易に陥落させた。この功により李子春は従二品の位を授かり、東北面兵馬使に任じられ、全州李氏一族は母国に復帰した。双城陥落から四年後の1360年に李子春は朔方道万戸兼兵馬使に任命されたが、その直後に46歳で亡くなった。既に彼の息子である李成桂は武将となっており、翌年には朴儀の反乱を鎮圧して功を立てている。また、この年に李成桂は二つの大きな戦いを経験している。一つ目は紅巾軍の侵入である。1361年、10万の紅巾軍が南侵して首都開京を占領した。首都奪還戦において2000名を率いて開京一番乗りを果たした。この戦いはその後の李成桂の台頭の始まりとなった。二つ目は元軍との戦いである。双城を奪還のために侵攻してきた元の大軍を咸興平野で殲滅し、ここでも勇名を高めた。当時の中国遼東地方では、元の権威が弱まったことに乗じて、元人の納哈出(ナガチュ)が行政丞相を自称して強大な勢力をもっていた。納哈出は遼東を支配下に置くと、自ら軍勢を率いて高麗に侵入し、瞬く間に西北部を攻略して三撤(咸鏡南道北青)、忽面(咸鏡南道洪原)にまで迫った。1362年2月、李成桂は東北面兵馬使として納哈出征討を行い、これを撃破して咸関嶺(洪原の西15km)まで追撃したが納哈出を逃してしまった。同年7月、遼東で兵を補った納哈出は再び高麗に侵入したが、再度これを撃破し、納哈出に高麗侵入を断念させた。1363年、元は高麗の態度を不遜だとし、反元の王を廃し、王の叔父である徳興君を王位に就かせようとしたが、高麗は断固としてこの要求を拒んだ。1364年、元は高麗の反逆者崔儒に元兵1万を授けて高麗に侵攻させたが、李成桂は崔瑩らと共に国境近くでこれを殲滅した。この敗北により元は恭愍王の復位を容認して崔儒を高麗に送還し、高麗は元の干渉からほぼ完全に脱却した。そして同年2月、満州から大軍で侵入して和寧(咸鏡南道永興、現在の金野郡)以北を占領していた女真族を李成桂は討伐して領土を奪還した。この女真討伐戦の時に文官として従軍したのが、親友でありながら後に李成桂と対立した鄭夢周である。李成桂は1370年には東北面元帥として東寧府を攻め、さらには大陸の遼陽城までも制圧した。南方の対倭寇戦では、1377年に智異山で倭寇を殲滅したことによって名声を確固たるものにし、同年8月にも西海道(黄海道)一帯の倭寇を大破していた。そして1380年倭寇が500隻から成る軍勢で侵入し、その中で最も強力な倭寇の集団が雲峰(全羅北道南原郡)の引月駅を占領したため、高麗側は9人の元帥に攻撃させたが敗北して二人の元帥が死んだ。この事態を受けて李成桂は総指揮官に任命され、首領阿只抜都率いる倭寇を引月駅に進撃してこれを破った(荒山戦闘)。一連の戦いで名声を得た李成桂のもとには、新興官僚や地方豪族が集まっていくことになる。1388年、明が高麗領である鉄嶺以北の割譲を一方的に通告してきたため、高麗第三十二代国王と崔瑩は遼東地域を支配下に置くことで明の圧力を退けようと計画した。李成桂は右軍都総使に任じられ、前線指揮を担った。李成桂は四つの不可論を理由に出兵を反対していたが、は崔瑩の意見に従い反対論を無視し遠征を開始した。実はこの出兵には遼東支配以外にも新興官僚勢力や李成桂ら武人の勢力を削るという目的があった。は遠征軍の勝利に興味がないと公言し、出征の日に激励の言葉を一つもかけなかった。また、反乱に備えて遠征する武将らの家族は王宮に来させて人質(回軍の時には全員脱出した)とした。1388年5月、遠征軍は鴨緑江河口の威化島に到達したが、大雨による増水で河を渡ることが出来ず、日が経つにつれて逃亡する兵士が後を絶たず、食糧の補給も難しくなっていた。このような状況を理由に李成桂は撤退を要求したが、これも認められなかったため、李成桂は独自に撤退を開始した(威化島回軍)。回軍を聞いて遠方から2000名以上が李成桂を助けるべく馳せ参じた。また民衆も回軍を歓迎し、李成桂に希望を持つ歌が流行った。一方の高麗朝廷は既に民から見放されており、回軍の報せを受けた崔瑩が抵抗軍を組織しようとしたが集まる者は殆どいなかった。6月1日に開京に着いた李成桂は、に遠征の責任を問い、崔瑩の処罰を要求した。しかし、は李成桂らを反逆者として、彼らを殺したものに褒賞を与えるという触書を出したため、李成桂は交渉を諦めて王宮を攻め崔瑩を捕虜とした。崔瑩は処刑されずに遠方に流され(二か月後に処刑されている)、は王の地位を失わなかったが、権力を失い名ばかりのものとなった。は王権を取り戻すべく、内侍80名に李成桂らの私邸を襲わせたが失敗して追放され、子の王昌が曹敏修らに擁立されて王位に就いた。しかし、李成桂らに擁立された恭譲王に1389年、王位を奪われ、王昌とは処刑された。恭譲王も朝鮮王朝樹立の2年後の1394年には李成桂の命令で処刑された(李成桂自身は王氏一族を内地に復帰させて自由に暮らすのを認めようとしていたが、臣下達の強い要請によって処刑せざるを得なかったとされる)。このとき李成桂により王氏(高麗王家)一族の皆殺しも行なわれた。即位の後3年間王氏一族を巨済島などの島々に集めて監視し、1394年4月に一斉に海に投げたり斬殺したりして王氏を虐殺した。元々王氏一族ではなかったが高麗王家から姓を賜った者たちは死は免れたものの、本姓に戻るよう命じられた。王氏一族の一部は姓を変えて隠れることができたが、文宗により王氏掃討の令が解かれた後にも王氏一族の多くは復姓しなかったとされる。文宗の時になって隣人の密告で捕まった王氏が許され一族を継いだが、韓国統計庁が2000年に行なった本貫調査によると開城王氏の人口は2.0万人と極端に少なかった。高麗王家では日本の武家同様、後継者に危害の及ばぬように後継者以外の王子は出家させたり母側の姓にすることが一般的であり王氏の数は元々少なかった上、このときの皆殺しで王氏の数が激減したことも原因とされる。政治の実権を握った李成桂、鄭道伝、趙浚らは親元的な特権階級、権力と結びつき腐敗した仏教勢力が私有地を拡大したために国庫が尽きている現状を痛烈に批判し、1390年から田制改革を強行した。1392年7月、国家の方針を決定する都評議使司は新興官僚層が推戴した李成桂に即位を要請し、恭譲王を追放した。「禅譲」の形式による新国家樹立であった。李成桂は、八男の李芳碩(神徳王后康氏の子)に後を継がせようとし、神懿王后韓氏を後宮(側室)にした。建国に奔走した神懿王后韓氏の生んだ王子たち、特に五男の李芳遠はその仕打ちに激しく反発し、1398年に反乱を起こした(第一次王子の乱)。これにより、芳碩と功臣鄭道伝が五男の李芳遠に殺されてしまうと、李成桂は芳遠の奨める次男の李芳果(定宗)に譲位し、退位してしまう。その後も李成桂の王子達の反目は続き、1400年、今度は四男の李芳幹が反乱を起こす(第二次王子の乱)。この乱は李芳遠によって鎮圧され、乱後に李芳遠は定宗から王位を譲位され即位した(太宗)。長男から六男までが神懿王后韓氏の子で、七男と八男が、神徳王后康氏の子である李成桂は自分の息子達の争いに嫌気がさし咸興に引きこもって仏門に帰依した。1402年、神徳王后康氏の親戚であった安邊府使の趙思義がむごい仕打ちを受けた神徳王后康氏の仇を討つべしと咸鏡道の豪族たちを率いて決起した。(趙思義の乱) 太宗に恨みがあった李成桂もこれを後ろで支持したとされる。乱が鎮圧された後、李成桂は太宗と和解してソウルに帰って来て、国璽を太宗に授け正式に朝鮮王として認めた。太宗は父から後継者として認められようと咸興に使者(差使)を送ったが李成桂はソウルから差使が来る度に遠くから矢で射て殺してしまったとされ、そこから任務を遂行しようと行ったが帰って来ない人またはそんな事を示して「咸興差使」という言葉が生じた。しかしこれはあくまで伝説であり、最後の咸興差使としてもっとも有名な朴淳は実は趙思義の乱に加わった都巡問使の朴蔓を説得するべく戦地に向かい殺されている。その後李成桂は政治には関心を持たず念仏三昧の生活をしていたと言う。1408年、74歳で薨去した。御陵は健元陵(京畿道九里市、東九陵の一つ)である。また李成桂は自分を神徳王后康氏と一緒に葬るべしとの遺言を残したが、神徳王后を恨んだ太宗はこれを守らなかったため神徳王后は健元陵に葬られることはなく、御陵は都の外へ移された後破壊されその墓石は橋の修理に使われ民がこれを踏みにじると言う酷い侮辱を受けた。李成桂の生誕については神秘的な伝説に彩られている。あるとき父李子春の夢枕に老翁が現われた。老翁が語るには「我は白頭山の神仙である。もしお前たち夫妻が100日間祈願参篭をするならば、生まれた子供は後に天下を頂くことになるであろう」。夢から覚めた李子春は霊夢にしたがって妻・崔氏とともに白頭山に100日間の祈願参篭を行った。そして100日満願の翌日李子春はまた霊夢を見た。今度は天界で五色雲に乗って天女が下降った。その天女は李子春に拝礼すると「この品物を受け取ってください。やがて後日東国を測量する時必要になるでしょう」と言って、袖の中から尺を取り出した。李子春がその尺を受け取ったところで、夢から覚めた。翌日、妻・崔氏が身篭ったことがわかった。崔氏は13ヶ月後男児を生んだが、その赤んぼうが李成桂である。今の北朝鮮江原道安邊郡の釋王寺にも李成桂にまつわる有名な伝説がある。若い頃李成桂は安邊郡で昼寝をしたが、自分が垂木を三つ背負い、花が落ち、鏡が割れる夢を見た。近所の洞窟にいた修行僧にこの夢の意味を問いかけたところ、僧は「人が垂木を三つ背負うと王の字になり、花が落ちれば果実が実り、鏡が割れると音がする。これはあなたが王になるという瑞夢である」と言った。この高僧こそが生涯李成桂の師となった無学法師であると伝えられている。李成桂は彼と巡り会ったことを深く感謝し、王になった後寺を建て「王になる夢を解釈した寺」という意味で釋王寺と名づけた。李成桂は在世に「伝御刀」という刀を使ったが、この刀は父李子春が先祖の墓にあったものを李成桂に与えたと伝えられている。李成桂はその刀で先祖の墓を侵犯した妖物を倒した。また竜王の子孫であると闘った時も伝御刀を用いたが、を倒すやいなや伝御刀は泣きながら刃がこわれたと言う。その後伝御刀は誰も直すことができず、その行方は伝わっていない。そして李成桂のもう一つの武器の「御角弓」という弓とスモモで作った矢は現在北朝鮮で保管している。李成桂が戦時に騎乗した駿馬の名が8頭伝わっている。その名前を順番どおり列挙すれば「横雲鶻」、「遊麟青」、「追風烏」、「発雷赭」、「竜騰紫」、「凝霜白」、「獅子黄」、「玄豹」である。後に世宗は画家安堅には八駿馬の姿を描くように、「集賢殿」の楽士らには賛を作曲するように勅した。高麗一の弓の達人として名高い。朝鮮王朝実録では朝鮮王朝の太祖に対する崇拝や誇張を考慮に入れるとしても彼の武勇に疑いの余地はなく、指揮官としての実力もあるが彼の個人的武勇、特に弓の腕を称える史料が多い。情け深い人物としても知られる。当時の武将は気性の激しい人が多く、崔瑩・邊安烈などの武将は幕僚や兵を酷く叱ったり打ち殺したりするほどであったが、李成桂は決して配下の者に声を荒げることが無く威厳はあっても兵や幕僚に優しかったため人々に親しまれた。また権勢を振るう李仁任やその部下の林堅味・廉興邦などの奸臣を粛清した時彼らの一族郎党を皆殺しにしていた崔瑩に罪の軽い者の助命を頼んだが断られた。母違いの兄弟たちも分け隔てなく厚遇し、彼らの母の卑しい身分を証明する書類を焼いて捨てた。後継者の太宗・李芳遠との仲は李成桂の息子たちや婿を殺された恨みもあって極めて険悪であったが、後に形式上の和睦をしている。燃藜室記述によると太宗は咸興から帰った李成桂を迎えるため自ら野外で宴を用意したが、太宗の幕僚であった河崙が「上王(李成桂)の怒りいまだ解けず、どんなことにも備えなければなりませぬ。天幕を立てる柱は図太いものになされよ」と助言した。宴が始まり太宗が現れた途端李成桂は突如弓を取り太宗を射たが、太宗は予め立てた太い柱の後ろに隠れて何とか無傷で済んだ。宴の最中、李成桂は王の玉璽を取り出し「お主の欲しがっている物はこれであろう、取りにまいれ」と言った。これを聞いた太宗が李成桂に酒をつぎに行こうとしたら河崙はまたこれを止め、「酒をつぐことは御自らなさらず、宦官の者にお任せあれ」と言った。李成桂は太宗が近づけば隠し持った鉄槌でたたき殺すつもりでいたが、太宗は近寄らず自分の代わりに宦官に酒をつがせた。それを見た李成桂は袖の下から鉄槌を取り出して投げ捨てながら「これは天のなせる業にあらずや」と言い、太宗を殺すことをついに諦めたとされる。郷妻の神懿王后韓氏と京妻の神徳王后康氏など二人の妻を持った。当時の武将や貴族は故郷で娶りそこに済む普通の妻である郷妻(ヒャンチョ)と、出世した後貴族の家から政略結婚で娶り都に住む京妻(ギョンチョ)の二種類の妻を持ち二人を同じく正室として待遇することが一般的であったが、李成桂は京妻の神徳王后康氏を愛し、死んだ郷妻の神懿王后韓氏を後宮(側室)に降格したり、神懿王后が生んだ息子たちが建国に大いに貢献したにも関わらず彼らを冷遇したため、後継者争いの原因になった。仏教を深く信仰した。自分は出家しなかったものの、第一次王子の乱の時夫を殺された娘の慶順公主を自ら出家させ、義兄弟の李之蘭も戦場での殺生を悔やみ出家している。また自らは王子の乱で無残に殺された息子たちを思いいつも彼らの供養をしていた。実録によると、李成桂は咸興から戻ってもソウルに来ることなく逍遥山に泊まり念仏をしていた。都へ戻るよう説得しに来た使者の成石璘が「念仏読経にあたり、なぜ逍遥山にそこまでお拘りになりますか」と聞いたところ、李成桂は「そなたらの意は知れておる。わしが仏を好むは他に非ず、ただ二人の息子と一人の婿のためなり。」と言って、空に向かって「我らはすでに西方浄土へ向かっている」と悲痛に叫んだという。王位に就いた壬申年7月17日(旧暦)、つまり1392年8月3日(陽暦)から癸酉年2月14日、つまり西暦1393年3月26日まで李成桂は形式上では高麗の王だった。 1393年3月27日から正式に朝鮮王だった。 実際には高麗王朝を崩しながらも、形式的には高麗王朝を受け継ぎ、朝鮮を立てる形を取ったのだ。一言で、合法的な強度の形式をとったのである。高麗時代は一夫多妻制であり、故郷に住む第一夫人が神懿王后韓氏、神徳王后康氏は、都の開京に住む第二夫人であった。

出典:wikipedia

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