『赤蝦夷風説考』(あかえぞふうせつこう)は、江戸時代中期の医師・経世家(経済学者)である工藤平助が著したロシア研究書。「赤蝦夷」はロシア人を意味する当時の用語。天明初年(1781年)ごろの刊行(上巻序文には「天明三年癸卯正月日」とある)。上下2巻。写本の中には『加摸西葛杜加(カムチャトカ)国風説考』の書名を持つものがあり(むしろこちらの方が多い)、また「魯西亜略説」などの異名もある。またのちに最上徳内が『別本赤蝦夷風説考』という書を著しているが、内容は全くの別物である。ロシア帝国の東方拡大は17世紀中頃から加速し、かなり早い段階でシベリア・満洲近辺まで到達していたが、清との間に結ばれたネルチンスク条約により、いったん勢いが止められた。ロシアは矛先を変えて北方に進出し、東シベリアをさらに進んで、17世紀中にはカムチャツカ半島の領有を宣言。現地に居住するアイヌ民族などとの間で交易やトラブルを起こしつつあった。ロシアは日本との接触に備え、ピョートル大帝が宝永2年(1705年)、首都サンクトペテルブルクに日本からの漂流民を招いて日本語学校を設立。1739年にはヴィトゥス・ベーリング探検隊の分遣船団が仙台湾や房総半島沖に接近した(元文の黒船)。宝暦3年(1753年)には日本語学校の日本人教授を大幅に増やしてイルクーツクに移転し、来るべき日本との交渉に備えていた。エカテリーナ2世の治世には、ついにロシア船は択捉島・国後島、さらに厚岸にまで到達する。ロシア人たちは、アイヌに対して毛皮などに重税を課した。すでに日本の活発な経済活動に苦慮していたアイヌは、一部がこの新たな負担に耐え切れずに南下し、松前藩などに逃げ込み、ロシア人の活動状況を報告した。一方、日本側ではアイヌとの交易権を独占していた松前藩が、既得権益確保のため、蝦夷地以北へ日本人が渡航することを様々な手段で阻害していたため、蝦夷地に関する調査・研究が遅れていた。このような状況の下、仙台藩の藩医であった工藤平助は、オランダ語通詞吉雄耕牛・蘭学者前野良沢らと親交を持ち、北方海防の重要性を世に問うべく、本書を上梓した。上巻には、を載せる。松前周辺や蘭学者などからの伝聞を元に、蝦夷地周辺の事情を説いている。下巻は以下の諸篇から成る。内容はオランダ語訳されたドイツ人ヨハン・ヒュプナー(Johann Hubner)の著『地理全誌』(ゼオガラヒー、万国地誌とも、1769年刊)第5巻「ロシア誌」などの蘭書を元に作成した、ロシアに関する地理書といえる。日本における本格的なロシア研究本としては嚆矢となる書であり、多くの同憂を啓蒙した。当時、江戸幕府で政治改革の主導権を握っていた老中田沼意次も、蝦夷地経略に関心を寄せており、ロシア人南下の脅威に早急に備える必要性を認識していた。そこで工藤平助は、なんとか自著を田沼の目に留めようと、田沼の用人三浦庄司を介して上申を試みる。その甲斐あって天明4年5月16日(1784年7月3日)、勘定奉行松本秀持が田沼に提出した蝦夷地調査に関する伺書に、本書が添付された。伺書は本書を引用しながら、蝦夷地の肥沃な大地や豊富な産物、地理的重要性を強調し、幕府主導による防備・開発を進言している。それを受けた田沼がさっそく翌5年、幕府主導の下に全蝦夷地沿海への探索隊を派遣するに至って、平助の宿願は結実する。しかし、翌天明6年(1786年)の田沼の失脚により、この探索隊は中途で断絶してしまった。いっぽう、本書に影響されて蝦夷地やロシアに対する関心が高まりを見せ、平助と同じ仙台藩医・林子平が『海国兵談』を著し、平助が序文を寄せている。
出典:wikipedia
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