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土岐成頼

土岐 成頼(とき しげより)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。美濃守護。土岐氏第11代当主。土岐持益の養子。実父は一色義遠で一色義直は伯父とされているが、土岐氏の支族饗庭氏の饗庭元明(備中守)の子とする説、佐良木光俊(持益の従弟)の子とする説などに分かれている。養子となる際に第8代将軍足利義成(後の義政)から偏諱(「成」の1字)を与えられて成頼と名乗る。法名は宗安(そうあん)。美濃の隣国である尾張知多郡の分郡守護であった一色義遠(よしとお)の子として生まれた。兄弟に丹後守護職の一色義有(宗家である丹後の一色家の継嗣となった)がいる。一色氏は丹後のほか伊勢の守護でもあった足利氏一族の名族で、四職の家の一つとして侍所の長官に任じられる有力な武家であった。美濃守護・土岐持益の嫡男・持兼(もちかね)が早世したため、持益は孫で持兼の子の亀寿丸を後継ぎにしようとしたが、守護代の斎藤利永がこれに反対して一色氏出身の成頼を擁立して抗争となり、康正2年(1456年)に持益は隠居させられ成頼が守護となった。室町時代の中頃から多くみられるようになった守護代が守護の力を凌ぐ事例の一つで、美濃でも実権は守護代の斎藤氏が掌握していた。応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると成頼は西軍に属した。成頼は8,000余騎を率いて京都に在陣して戦い、美濃本国は守護代の斎藤妙椿(近年では甥の斎藤利藤が守護代で妙椿はその後見人であったと考えられている)が守った。有力国人の富島氏・長江氏(かつての守護代で斎藤氏に敗れて追われていた)が東軍に加わって斎藤方を攻撃して美濃は内乱状態になる。妙椿は富島氏・長江氏を破った上、東軍が幕府と朝廷を擁している以上敵の拠点になる恐れがあるとして幕府奉公衆の所領をはじめ、公家や寺社の荘園と国衙領を押領し国内を固めた。妙椿の勢力は尾張、伊勢、近江、飛騨まで広がり、成頼を意のままに動かし、更には西軍を左右するまでの存在になる。文明9年(1477年)、応仁の乱の講和がなると成頼は西軍の名目上の総帥だった足利義視(義政の弟)・義材の父子を庇護して美濃へ帰国した。義視父子は11年間、革手城に滞在している。文明12年(1480年)に妙椿が死去すると2人の甥、守護代・斎藤利藤と異母弟の利国(斎藤妙純)が後継を巡って争った(美濃文明の乱)。利国が勝利して斎藤氏の力はさらに強まった。長享元年(1487年)に長享・延徳の乱が発生して第9代将軍・足利義尚(義政の子)による六角高頼親征が始まると、次の標的は義視父子を擁している自分であると考えた成頼は突如挙兵して美濃山中に立て籠もって幕府軍を迎え撃つ準備を始めた。結果的に義尚の病死によって六角攻撃そのものに失敗し、美濃侵攻は起こらなかった。明応3年(1494年)、成頼は四男の元頼を溺愛し、嫡男の政房を廃嫡して元頼に家督を継がせようと小守護代石丸利光に元頼を擁立させ、政房を推す妙純と戦うが、妙純を説き伏せ、西尾直教を追放する形で一時的に和解させる(船田合戦)。翌明応4年(1495年)6月、成頼は再び妙純と戦うが敗れる。同年7月、斎藤方と戦い敗走し、政房に家督を譲り、隠居して宗安と名乗った。元頼と石丸利光はなおも抵抗したが、明応5年(1496年)に妙純に敗れて自殺した。翌明応6年(1497年)に死去、享年56。実際には斎藤妙椿によって国政を牛耳られていたとはいえ、その在世中は船田合戦を引き起こした晩年期を除けば、美濃の内外における土岐氏の名声が非常に高まった時期でもあった。このため、多くの文化人が戦乱を避けて美濃に逃れてきた。しかし、斎藤妙純・利親父子は船田合戦終結後に石丸利光を支援した六角高頼を討つべく近江に遠征して戦死、土岐氏は国人の傀儡に過ぎなくなり、斎藤氏も衰退、美濃は混乱に見舞われることになるのである。

出典:wikipedia

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