欠端 光則(かけはた みつのり、1963年1月10日 - )は、岩手県出身の元プロ野球選手(投手)。1963年、岩手県二戸郡福岡町(現・二戸市)に生まれる。福岡高校では1979年、2年生の時に夏の甲子園県予選決勝に進むが、久慈高に敗れ甲子園出場を逸する。翌1980年の春季東北大会でも決勝に進出し、東北高の中条善伸と投げ合うが惜敗。しかし同年夏は県予選決勝で水沢高を降し、福岡高を19年ぶりの甲子園に導く。夏の甲子園では1回戦で大分商に敗退。同年のドラフト3位でロッテオリオンズに指名され、入団。ロッテでは主に中継ぎとして登板した。1983年11月、右田一彦・竹之内徹との交換トレードで新谷吉孝と共に横浜大洋ホエールズに移籍。移籍後は主に速球とフォークボールを武器に先発投手として活躍、当時慢性的な投手不足だった大洋のローテーションを支えた。なかでも当時全盛の強さを誇っていた広島東洋カープに強く「カープキラー」の異名をとった。当時、横浜大洋のエースだった遠藤一彦が怪我をした際には、2年続けてチーム最多勝利を記録。1988年4月8日にはナゴヤ球場での中日ドラゴンズ戦で開幕投手を務め完投勝利。先発以外でも中継ぎとして連投やロングリリーフをこなし、1992年にはセ・リーグ最多登板を記録するなどタフネスな働きぶりを見せた。晩年は肘の故障に悩み、1994年限りで現役引退。翌1995年からの2年間、横浜の打撃投手を務めた。1997年に球団広報に転身し、現在は横浜DeNAベイスターズの四国・中国を中心にスカウトを務めながら、毎年秋には地元二戸に帰り、野球教室を開いている。実家は兼業農家で、野菜や米の食材には困らなかった。父親は陸上選手で運動神経は良く、両親ともに身長は高かったという。地元には神社の相撲大会があり、欠端本人も小さい頃ずっと出ており、中学3年生の時には、その相撲大会で団体と個人で優勝している。三人兄弟の長男で、三男も甲子園に出場している。次男は伊勢ノ海部屋の元幕下力士の外ヶ濱(入門当初は本名の「欠端」をしこ名にしていた)。兄弟が共に現役だった当時のスポーツ新聞には、毎場所幕下以下の注目力士がピックアップされており、『大洋欠端投手の弟』として星取表が載っていた。その影響もあってか、欠端の選手名鑑の趣味の欄には「相撲の星取表を見ること」と記載されていた。2008年12月15日、JR東日本根岸線関内駅にてプラットフォームから転落した女性を発見し、自ら線路下に降りてこの女性を救助した。この鉄道人身事故を未然に防いだ人命救助活動により、12月26日にJR東日本横浜支社から感謝状が贈られた。長女の欠端瑛子も女子ゴールボール競技日本代表で、2012年ロンドンパラリンピックにおいて金メダルを獲得した。
出典:wikipedia
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