信濃川(しなのがわ)は、新潟県および長野県を流れる一級河川。信濃川水系の本流である。新潟市で日本海に注ぐ。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域のみで、長野県にさかのぼると千曲川(ちくまがわ)と呼称が変わる。この項目では千曲川と呼称される上流部を合わせ記述する。全長367キロメートルのうち、信濃川と呼ばれている部分が153キロメートルなのに対し、千曲川と呼ばれている部分は214キロメートルと千曲川の方が長い。ただし、河川法上では千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は日本で一番長い川となっている。流域面積11,900km²は日本第3位。新潟、長野両県内でほとんどを占めるが、一次支川中津川の源流部が群馬県の野反湖付近にあり、水系流域としては群馬を含む3県に及ぶ。千曲川(信濃川)は古くは万葉の頃から多くの詩歌に歌われ、近代になっても流域の佐久市・小諸市周辺を島崎藤村(千曲川旅情のうた、小諸なる古城のほとり)が、長野市周辺から新潟県境付近の豊田村(現:中野市)周辺を高野辰之(朧月夜、故郷)が歌にしている。千曲川は埼玉県・山梨県・長野県の県境に位置する甲武信ヶ岳の長野県側斜面(南佐久郡川上村)を源流とし、八ヶ岳、関東山地などを源流とする諸河川と合流しつつ佐久盆地(佐久平)、上田盆地(上田平)を北流する。長野盆地(善光寺平)の川中島の北端に該当する場所で、飛騨山脈を源流とし松本盆地(松本平)から北流してきた犀川と合流する。なお合流地点には落合橋(おちあいばし)が架橋されている。この橋はT字型の特殊な形態の橋である。川はその後北東に流れ、新潟県に入って信濃川と名前を変える。信濃川は、十日町盆地を通って越後平野(新潟平野)に出て群馬・新潟県境の谷川岳から流れてきた魚野川と合流、新潟市で日本海に注ぐ。河口は阿賀野川の河口に近く、時代によっては新潟の地で合流して河口を共有していたこともあった。源流域の川上村〜佐久市〜上田市にかけては、千曲川構造線に沿うようにして北西に流下し千曲市付近で北東方向に約90°方向を変え長野市からは、信濃川断層帯を北東に延長した断層帯域の地質的に弱い所を浸食し流下し、日本海へと向かう。河床勾配の変化を見ると、上流部の佐久地域で 7.3%、上田地域で、5.5%である。しかし、長野市周辺では、0.93%となるが、西大滝ダム付近を変化点としては再び河床勾配は急になり、長野新潟県境付近から下流の十日町付近までは、3.5%の勾配となる。こうした勾配の変化をもたらしている原因は第四紀後期完新世の隆起活動と隆起に伴い形成された断層による物で、隆起としては中野市から飯山市付近の高丘丘陵などが影響を与えて、断層としては立ヶ花付近には長野盆地西縁断層のひとつ長丘断層が河を横切っている、また西大滝ダム付近には重地原断層、北竜湖断層があり、長野新潟県境付近には津南断層がある。千曲川流域の洪水で最も古いものは、文献(日本紀略)などに仁和4年(888年)が記録されている。歴史上、最大の洪水は1742年(寛保2年)の洪水で「戌の満水」と呼ばれている。そして徳川幕府治世の時代を通じて64回の水害が記録されていたとされる。後述の河川改修・治水工事により、同じ規模の増水では堤防の決壊などは起こらなくなっていることが読み取れる。立ヶ花観測点(1951年観測開始)は旧豊野町(現長野市)と中野市の境にある国土交通省による水位観測点で、千曲川河床の勾配が緩くなると共に1000mを超える川幅が210mにまで狭窄する部分。これより下流は、第四紀後半から始まる地盤の隆起のため川の流れは蛇行し流速が落ちる。立ヶ花水位観測点の計画高水位は10.75m、氾濫危険水位は8.6m、普段の水位は2 - 3 m程度。縄文時代、新潟市を中心とした越後平野は日本海であった。その後、徐々に信濃川や阿賀野川が運搬してきた土砂と、対馬海流が運んできた土砂が越後砂丘を形成し堆積、現在の越後平野を形成したが低湿地で方々に潟が存在し、水捌けの悪い地域であった。又、洪水によって幾度も流路を変えた。1597年(慶長2年)、越後春日山城主上杉景勝の執政で名将と謳われた直江兼続は燕・三条付近の洪水調節を図る為中ノ口川を開削。これが近世信濃川治水史の端緒となる。上杉氏転封後の江戸時代、新発田藩主となった溝口氏は中ノ口付近も領していた為に代々の藩主は河川改修を実施していた。長岡藩第9代藩主の牧野忠精は信濃川の河川改修に特に力を入れた。新川開削の大事業を行い蒲原平野に存在していた3つの潟の悪水を日本海に排水し、蒲原平野の新田開発を成功させた。信濃国・千曲川でも江戸時代を通じて64回の洪水を記録し、犀川との同時洪水ですら11回を記録するという。この間に福島正則や松代藩主・松平忠輝の家老花井氏親子や真田氏歴代が築堤や掘割、河道の付替えなどを度々行った。だが、度重なる治水事業を行っているにも拘らず、信濃川は度々氾濫を繰り返し為政者の頭を悩ませた。こうした中で浮上して来たのが大河津分水路計画である。そもそもの発端は享保年間に寺泊の豪商・本間屋数右衛門らが幕府に言上したのが始まりである。1842年(天保13年)に江戸幕府は大河津分水計画を本格的に検討しだしたが、その後は北越戦争等で越後は混乱を来たし分水計画は宙に浮いた。明治時代に入ると本格的な分水計画に着手。1870年(明治3年)には第1期大河津分水路工事が開始された。然し反対運動も多く、結局外国人技術者の意見を容れ1875年(明治8年)に第1期工事は中止の止む無きに至った。翌1876年(明治9年)、内務省による「信濃川河身改修事業」が着手された。この事業が近代信濃川治水史の原点とも言われている。これは堤防の築堤と河川敷整備を中心としたものであった。だが、河川敷整備は川原に棲息するツツガムシによる古典型恙虫病の蔓延によって多くの工事従事者が病に倒れた。更に1896年(明治29年)7月、信濃川を有史以来の記録的な洪水「横田切れ」が流域に甚大な被害を与え、堤防整備の有効性に疑念が噴出した。こうした中で原田貞介が大河津分水工事改良案を提出。これを元に1909年(明治42年)、原田案をベースに第2期大河津分水路工事が着手された。難工事による100名以上の殉職者を出しながらも1922年(大正11年)、大河津分水路は通水に成功し2年後の1924年(大正13年)に悲願の完成を果たした。実に、発案から完成まで200年近くを費やしている。1918年(大正7年)〜1941年(昭和16年)には、千曲川第1期補修事業が内務省の手によって進められたが、洪水は容赦なく発生し根本的な解決には至らなかった。1948年(昭和23年)からは千曲川第二期補修事業が建設省(現・国土交通省北陸地方整備局)の手によって着手され現在も進行中である。然し、数年に一度は洪水による被害を流域は受けており、根本的な治水対策としてダムによる洪水調節が図られた。信濃川水系においては建設省直轄事業よりも先に新潟県・長野県による県営ダム事業が推進され、裾花ダム(裾花川)、笠堀ダム(笠堀川)等が建設された。建設省は1960年(昭和35年)に関屋分水路の建設を計画したが、1964年(昭和39年)の新潟地震によって新潟市内が広範囲にわたり浸水したことから鳥屋野潟の排水計画に着手した。この後、黒川放水路が1969年(昭和44年)に完成。関屋分水路は1972年(昭和47年)に通水し、蒲原大堰・中の口川水門も建設が開始された。だが1969年8月の集中豪雨は流域に大きな被害をもたらし、対策として建設省は1974年(昭和49年)、「信濃川水系工事実施基本計画」を改定。この中で多目的ダムの建設を計画し、大町ダム(高瀬川)が1986年(昭和61年)に、三国川ダム(三国川)が1993年(平成5年)に完成した。県営でも大谷ダム(五十嵐川)や破間川ダム(破間川)が新潟県に、奈良井ダム(奈良井川)や奥裾花ダム(裾花川)が長野県に完成した。又、人口が急増している長岡市に上水道を供給するため妙見堰(信濃川)が1990年(平成2年)に完成している。治水整備は進められている一方、その後も水害は繰り返し起こり2004年(平成16年)には平成16年7月新潟・福島豪雨(7・13水害)が三条市・見附市等に被害をもたらした。この様に古来より洪水と治水は「いたちごっこ」の状況で、信濃川の治水の難しさを物語っているが現在でも広神ダム(和田川)・晒川ダム(晒川)などの多目的ダムが建設中である。一方、信濃川は水量が豊富で且つ上流部は関東山地・飛騨山脈・木曽山脈である事から急流であり、水力発電には絶好の適地であった。大正時代には高瀬川の高瀬川発電所が建設されていたが、昭和初期に入ると各地で水路式発電所が建設された。特に、旧・鉄道省(現・JR東日本)は信濃川に大規模水力発電所を建設。信濃川本川に宮中ダムを1938年(昭和13年)に建設、新山本・浅河原調整池や千手・小千谷・新小千谷発電所を建設し首都圏の鉄道運転の為の電力を供給した。戦後に入ると大規模な揚水発電所が各所に建設された。特に梓川の安曇・水殿発電所や高瀬川の新高瀬川発電所、南相木川の神流川発電所、清津川の奥清津・奥清津第二発電所は日本有数の規模を誇り、首都圏に電力を供給する上での重要性は大きい。この様に信濃川は治水・利水の為の施設が多く存在する。だが、1990年代以降公共事業見直しの機運が全国的に高まり、利根川・淀川等全国の主要河川においてダムを始めとする河川施設の建設中止が相次いだ。信濃川水系も例外ではなく2002年(平成12年)に信濃川水系では最大規模の総貯水容量を擁する予定であった清津川ダム(清津川。国土交通省北陸地方整備局)が、2003年(平成13年)には戦前から連綿と続き戦後「只見特定地域総合開発計画」でも取り上げられた『只見川水力発電新潟分水案』に基づく「湯之谷揚水発電計画」、その根幹である佐梨川ダム(佐梨川。新潟県)が上池と共に中止となり長年に亘る新潟分水案はここに潰えた。県営ダムでも三用川ダム(三用川。新潟県)が建設中止となっている。又、国土交通省北陸地方整備局(当時は建設省北陸地方建設局)は1981年(昭和56年)の信濃川洪水を機に、1954年(昭和29年)より構想のあった「千曲川上流ダム計画」を南佐久郡南牧村に計画した。これは洪水調節・上水道等を目的とした多目的ダムとして、信濃川本川上流に堤高約80.0m、総貯水容量が約70,000,000tという本格的なダムを建設しようとしたものである。「千曲川上流ダム」が完成すると南牧村を中心に250戸が水没する他、JR小海線が水没する。1984年(昭和59年)に実施計画調査の為の予算が付いたが住民の強硬な反対に遭い、その後地元南牧村を始め南佐久郡5町村が建設推進を撤回して反対に回り、計画が凍結した。その後公共事業見直しの機運の中で計画は再検討され、2002年に「千曲川上流ダム計画」は国土交通省によって白紙撤回となった。こうして日本最長の河川に建設される予定であった唯一の多目的ダムは中止されたが、ダムに代わる治水代替案は確定されていない。2004年(平成14年)に入ると、長野県知事・田中康夫の『脱ダム宣言』によって長野県内に計画中の信濃川水系のダム計画が纏めて中止となった。浅川ダム(浅川)・角間ダム(角間川)・黒沢ダム(黒沢川)・清川ダム(清川)が対象となり、有無を言わさぬ形での中止であった。この宣言には「先進的な思想」・「環境保護を重視した良策」・「公共事業と利権の癒着を抉り出す第一歩」と賞賛する声が多い。その一方で「治水対案が根拠薄弱」・「住民の安全を無視した愚策」との批判もある。代替案である「河道内遊水地」が結局名前を変えたダムであるとの指摘もあり、浅川ダムの様に下流住民の合意を得ずに中止した面もあるため、洪水の多発する信濃川で今後洪水が起こったときに知事がどのような対応を取るのか、注目されていたが、2006年(平成18年)7月の平成18年7月豪雨で天竜川流域が豪雨による被災を受けた。『脱ダム宣言』が直接災害に関係していたわけではないにしろ、治水対策の不備を含め田中県政に対する様々な不満が表面化。県知事選挙に敗北し田中は野に下った。田中に代わり村井仁が知事に就任したが、『脱ダム宣言』については当初は批判的発言を繰り返していたものの就任後は性急なダム建設回帰には慎重な姿勢を示したが、2007年2月河道内遊水池(穴あきダム)を是とする判断が出された。信濃川の利水に関しては、本流と支流で異なった特徴を持つ。信濃川本川には高さ50メートルを超えるダム・多目的ダムは存在しないが、その分放水路が多い。一つの河川に放水路が2か所も建設されているのは信濃川だけである。それだけ治水に苦労していることをうかがい知ることができる。また、利根川や木曽川、淀川ほど水資源確保のための系統的利水施設が多く存在しないのも特徴で、主眼はあくまでも治水と灌漑に置かれている。逆に支流には大小数多くの治水・治山・利水ダムが建設されている。一方、水力発電施設においては全国屈指の発電量・発電施設を誇る。揚水発電所だけでも梓川・相木川・高瀬川・黒又川・清津川の5か所に建設された実績があり、これも全国屈指の数である。また、新潟県内ではJR東日本が首都圏の鉄道網を支える電力供給を信濃川から得ている。(注):黄欄は建設中もしくは計画中のダム(2006年現在)。国土交通省 河川事務所の観測点は、下流側より"河口より記載"千曲川・信濃川は共に江戸時代から明治時代にかけて川舟による通船が全盛を迎え、流域の物流を担った。河口は古代から蒲原津(かんばらのつ)、沼垂津(ぬったりのつ)、新潟津などの港(新潟三ヵ津)が栄え、特に新潟は江戸時代に大きく発展して日米修好通商条約による開港場のひとつとされた。新潟港には現在もロシア、韓国などとの国際便が就航する。
出典:wikipedia
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