大垣祭(おおがきまつり)は、岐阜県大垣市市街地で毎年5月15日までの15日に近い土・日曜日に行われる大垣八幡神社の例祭である。一般的には「大垣まつり」と表記される。1648年(正保5年)大垣藩主戸田氏鉄が城下の八幡神社を再建した折、城下十八郷が神輿三社を寄進することで喜びを表し、また大垣十ヶ町(本町、中町、新町、魚屋町、竹島町、俵町、船町、伝馬町、岐阜町、宮町)が10両の軕(山車)を造って曳き出したことがその起源という。1679年(延宝7年)、大垣藩主戸田氏西が、神楽軕、大黒軕、恵比須軕の三輌を下賜。この3輌を「三輌軕」とよぶ。慶安元年(1648年)八幡神社の歴史を示した古文書によると、造られたばかりの山車に対し「十町之車渡リ物尽善尽美(十町の車渡り物、善を尽くし美を尽くし)」と、称えられている。また今は姿を消したが、「朝鮮人行列」という、朝鮮通信使を模した竹島町の異国情緒あふれる行列もあった。以降、濃尾震災、戦災等を経て軕(やま)を多数失うが、現在は復元等により13輌が完全に復活した。災害を免れた軕9輌と朝鮮山車付属品は、岐阜県の重要有形民俗文化財に指定され、2015年(平成27年)3月2日には「大垣祭の軕行事」として、国の重要無形民俗文化財に指定された。また、2016年(平成28年)11月頃にはユネスコ無形文化遺産に登録される見込みとなっている。例年5月14・15日に行われていたが、1995年(平成7年)より毎年5月の15日までの15日に近い土・日曜日に行われるようになった。軕十三輌が八幡神社を中心に旧大垣市内を練り歩く。土曜日を「試楽」(しがく)と呼び、十三輌の軕が朝9時に八幡神社前に集結。八幡神社の鳥居前で奉芸を行った後市役所玄関前に移動。そこで掛芸披露を行う。この行事は、かつて大垣藩主が大垣城内に軕を曳き入れて上覧したことにちなむもので、現在は、藩主に代わって市長がその役を務めている。以後、各軕は自由行動をとる。日曜日は「本楽」(ほんがく)と呼ばれ、各軕は八幡神社前に集結し奉芸。後、神楽軕を先頭に城下(東廻り(西暦奇数年)・西廻り(西暦偶数年)が存在)を練り歩く。試楽、本楽両日とも、18時半までに各軕は八幡神社前水門川沿いに集合。19時より提灯を点灯。八幡神社前を2周し、曳き分かれる。また本楽の夜には神輿の渡御も行われる。これを「夜宮」(よみや)という。現存。別名・御払軕または市軕ともいう。練り歩く際には常に先頭を行く。現存。軕の上部に米俵2俵を置き、その上に右手に小槌を持ち、左肩に稲袋を担った大黒天の人形を載せる。現存。恵比須大神の人形は左甚五郎の作と伝えられる。現存。別名:高砂軕。1945年に戦災で焼失したが、1996年に再建し、2012年に漆塗りをした。謡曲「高砂」を題材にしたからくりを芸に持つ。現在13輌ある中で一番大きな軕。1945年に戦災により焼失したが、2012年に再建。現存。別名・天神軕。現存。1648年建造。別名・道外坊軕。現存。本来は朝鮮通信使を模した仮装行列であったが、明治維新の際、神仏分離令によって廃止。代わってこの軕が登場した。1945年、戦災により焼失したが、2012年に再建。屋形に浦島太郎を祭り、奉芸の際は五番立ての「女」を担当している。現存。本来は赤坂にある金生山で採取した石灰岩を運ぶ車を改造した石曳軕であり、江戸中期にからくり軕に改造された。現存。謡曲「竹生島」を題材にとる。軕上に弁財天を配置することから、別名・弁天軕(弁財天軕)とも。現存。別名・八幡軕。1945年に戦災により焼失したが、2001年再建。その後、漆塗り・金具・彫刻が施された。謡曲「猩々」を題材にとったからくりを芸に持つ。
出典:wikipedia
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