徳久 利明(とくひさ としあき、1942年12月8日 - 1998年3月13日)は、高知県土佐清水市出身のプロ野球選手(投手)。高知商では、2年生の時に山崎武昭の控え投手として春夏連続で甲子園大会に出場したが、登板の機会は無かった。翌夏は南四国大会の準決勝に進出するが、池田高に延長11回の熱戦の末に敗退し、甲子園には届かなかった。に近鉄バファローに入団。担当スカウトは根本陸夫。1升マスで一気飲みが出来、当時の監督の千葉茂からは「入団したとき、すでにいっぱしの大酒のみやったなぁ」と言われ、千葉に「節制すれば200勝投手になれた」とも言われ、恵まれた体格から別所二世とも言われた事もある。千葉から「絶対に新人王を取らせたる」として来る日も来る日も徳久を使い続け、1年目から58試合に登板する。初勝利するまでの6連敗は高卒新人の1年目としてはNPBタイ記録。この年、チームはNPB史上最多のシーズン103敗(36勝1分)で最下位に低迷し、その中で徳久はチーム最多の15勝を挙げるが、同時に24敗でチーム及び、リーグ最多敗となっている。この年、球団初の新人王に選出されている、8試合サヨナラ負けを記録したが、そのうち5試合の本塁打によるサヨナラ負けはNPB記録となる。4月23日の対阪急ブレーブス戦ダブルヘッダーでは2試合続けてサヨナラ負けで徳久に敗戦投手が記録されており。リリーフでの12敗はそれまでのNPB記録を更新するものとなった(1966年に近鉄の山本重政が13敗で更新)。翌年は右ひざや目の故障で不振に終わる。は自己最多の20勝を挙げた。6月16日の対阪急戦では9回2死まで無安打に抑えていたが岡本健一郎に二塁打を打たれノーヒットノーランを逃した。1963年からにかけてはチームの勝ち頭となるが、体調不良や首脳陣との確執もあり、に西鉄ライオンズに移籍し、限りで引退。その後は大阪で少年野球チームを指導していた。1998年3月13日に肺がんのため鹿児島県内の病院で死去した。
出典:wikipedia
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