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八雲 (装甲巡洋艦)

八雲(やくも)は大日本帝国海軍が日露戦争前にドイツから購入した最初の装甲巡洋艦。六六艦隊の装甲巡洋艦の第一期拡張計画で整備された艦で、日露戦争から太平洋戦争の戦後まで活動した。シュテッティン・ヴルカン造船所で建造された。1900年6月20日に領収し、同年6月22日に日本へ回航。同年8月30日、横須賀に到着した。本艦など六六艦隊の装甲巡洋艦は日露戦争での戦闘だけでなく、大正から昭和にかけて練習艦隊を編成し、少尉候補生の遠洋航海に従事したが、本艦は1939年(昭和14年)まで使用された。1942年7月1日、海防艦から一等巡洋艦に類別変更。戦争末期には主砲を高角砲に換装し対空戦に従事した。また終戦時には可動状態だったため1945年12月1日に呉地方復員局所管の特別輸送艦に指定され、北支や台湾など近距離の輸送に使用された。米軍は八雲の姿に非常に興味を持ったとされる。1946年6月26日、特別輸送艦の指定を解かれ、7月20日から翌年4月にかけて日立造船の舞鶴造船所で解体された。船体形状は典型的な平甲板型船体であり、凌波性を良くするために乾舷を高く取られており、艦首水面下には未だ衝角(ラム)が付いている。主砲は新設計の「20.3cm(45口径)砲」を楕円筒形の連装砲塔に纏め、1番主砲塔、司令塔を組み込んだ操舵艦橋、単脚の前檣、等間隔に並んだ三本煙突の後ろに艦載艇置き場、ダビット(ボート・クレーン)の基部を兼ねる単脚の後檣、2番主砲塔の順である。15cm(40口径)単装砲は12基も載せられ、甲板砲廓部4基に舷側に2基の片舷6基が配置された。他には水雷艇対策に艦首・艦尾と上甲板に8cm(40口径)単装速射砲が12基、47mm砲単装12基が前檣・後檣・上甲板に分散配置された。大日本帝国海軍は列強に先駆けて戦艦・巡洋艦の搭載砲の口径統一に取り組んだ。そのため、本艦を含む6隻の一万トン級装甲巡洋艦の搭載砲は全て一貫していた。この事は兵の教育と弾薬の補給に非常に有利であった。これは、明治初期の艦艇の備砲の口径や使用方法が艦ごとにバラバラで、砲弾の互換性や兵の応用が利かなかった戦訓によるものであった。本級の主砲は新設計の「20.3cm(45口径)砲」である。これを楕円筒型の連装砲塔に収めた。この砲塔は左右150度に旋回でき、仰角30度・俯角5度であった。重量113kgの砲弾を毎分2発の間隔で発射できた。射程は仰角30度で18,000mである。副砲は「1895年型 15.2 cm(40口径)砲」を採用し、この砲は毎分5発を発射できたが、熟練した兵ならば7発が可能であった。45.4kgの砲弾を俯仰角度は仰角20度・俯角5度で、仰角20度で9,140 mの射程を持っていた。他に、ヴィッカーズ社の「1894年型 8cm(40口径)砲」を単装砲架で12基、47mm単装砲を12基、45.7cm魚雷発射管を単装で、艦首部水上に1基、舷側部水中に4基を装備した。ボイラーは当時の最新型高性能機関であるフランス製のベルヴィール式石炭専焼缶を24個。これに直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸推進とし、出力15,500hp、速力20.5ノットを発揮した。航続距離は石炭1,300トンで速力10ノットで7,000海里と、当時にして大航続距離を誇った。

出典:wikipedia

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