第二次世界大戦におけるパリの解放(パリのかいほう、仏:Libération de Paris)とは、1944年8月19日から8月25日に行われた戦いである。西部戦線とフランスの歴史における大きな節目であった。1944年6月6日にノルマンディー上陸作戦が行われて以降、占領者であるドイツ軍とその傀儡・ヴィシー政権に対する「フランス国」国内のレジスタンス運動の動きはさらに活発化した。北アフリカのアルジェに位置するフランス共和国臨時政府は、独自の軍隊であるフランス解放軍()とレジスタンスの統合組織全国抵抗評議会(CNR)とその傘下のフランス国内軍(FFI、)を支配下に置いていた。しかしCNRは右派から左派までの寄り合い所帯であり、一枚岩の組織ではなかった。臨時政府の代表であったシャルル・ド・ゴールは、戦後における自らの影響力を確保するためには臨時政府による早期のパリ解放が不可欠であると考えており、CNRに参加している左派勢力主導の解放は望んでいなかった。ド・ゴールは連合国軍ヨーロッパ戦域最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー大将にパリ攻略を急ぐよう何度も要請したが、アイゼンハワーの司令部はドイツ軍の抵抗が強固であると予想されること、占領した際のパリを給養する物資が膨大なものになると予想されること、ヴィシー政府の退陣を待ってフランス国民が臨時政府を受け入れる用意が出来るのが望ましいことなどを理由に、パリを一部部隊で包囲するにとどめる計画であった。8月19日にはアメリカ軍第3軍第15軍団第79師団がセーヌ川のほとりマント=ラ=ジョリーに到着した。ドイツ側では総統アドルフ・ヒトラーは「パリの失陥はフランスの失陥であり、ドイツの敗勢の象徴とみなされる」とし、8月7日にディートリヒ・フォン・コルティッツ歩兵大将をパリ防衛司令官に任命した。8月11日にはパリに架かる橋をすべて爆破した上で、最後の一兵まで戦うよう命令を出したが、コルティッツ大将は市内での防衛が無意味であり、パリ外周での防衛に留めるべきと考えた。当時の上官である西方軍集団ギュンター・フォン・クルーゲ元帥もこれを承認した。一方パリでは8月15日、パリ地下鉄、フランス国家憲兵隊、警察が、翌16日には郵便局員がストライキに入った。8月18日にはゼネストがパリ全域の労働者に広がった。8月19日の午前7時、パリ市内のレジスタンスが蜂起を開始した。蜂起を主導したのはFFIであり、総兵力は2万人であったが、装備は劣悪であった。対するパリ防衛司令官コルティッツ大将率いるドイツ軍も2万人の兵力を持っていたが、兵員の大半はパリ市外に出ており、市内にいるのは5~6千人であった。レジスタンスはパリ警視庁・区役所・郵便局などの施設を占拠して三色旗を掲げたが、午後になると装備に優れたドイツ軍の攻勢が開始され、レジスタンスの拠点は徐々に孤立していった。コルティッツ大将は翌日の日の出30分後に鎮圧しようとしていたが、午後7時に中立国スウェーデンのラウル・ノルドリンク()総領事が死傷者収容のための休戦を提案した。コルティッツ大将はFFIらレジスタンスは「暴徒」であって休戦の対象となる「交戦団体」ではないとしたが、戦闘を停止してFFIを兵士扱いして一部管轄地域を渡すという「諒解」に合意した。休戦期間は当初一時間とされたが、夜には無期限へと変更された。コルティッツ大将はレジスタンスに内部対立があることを知っており、休戦期間を設ければレジスタンスの団結が瓦解すると考えていた。FFIも休戦に合意したが、翌8月20日の午後には一部の兵士がゲリラ的戦闘を再開した。コルティッツ大将はノルドリンク総領事を通じて「攻撃を停止しなければ、パリを空襲し、本職に与えられたパリ破壊命令を最大限に実行する用意がある」と警告した。ヒトラーもパリの被害を考慮せず、市の内外で戦うべきであると西方軍集団司令官ヴァルター・モーデル元帥に命令した。FFIは連合軍の早期到着が必要であると考え、ガロワ少佐とノルドリンクの弟ロルフを中心とする2つの連絡班をアメリカ軍前線に派遣した。連合軍はパリ周辺の攻略を行い、8月21日にはルビーエ、ムラン、モントローに向い、サンを占領した。モーデル元帥はパリ防衛が不可能であると考え、パリの東と北で防衛する計画を具申した。しかしヒトラーはこれを退け、パリの東ではなくパリで防戦するよう命令した。ド・ゴールは8月20日にアルジェを発ってノルマンディーに到着し、アイゼンハワー大将に臨時政府指揮下にあるフランス第2機甲師団をパリに進軍させるよう要請した。アイゼンハワーは要請を受け入れたものの、時期については明言しなかった。8月21日にド・ゴールはアイゼンハワーに書簡を送り、連合軍のパリ派兵がなければ臨時政府の権限で第2機甲師団をパリに向かわせると声明した。さらに第2機甲師団のフィリップ・ルクレール少将は独断でパリ派兵を決断し、アメリカ軍には秘密で準備を開始した。翌8月22日、FFIが派遣したガロワ少佐の連絡隊がオマール・ブラッドレー大将がいる第12軍集団司令部に到着し、次の内容を告げた。しかしこの情報は事実とは異なっており、ド・ゴールの側近の工作による完全な嘘であった。ド・ゴールとの交渉でパリ進軍もやむなしと考えはじめたアイゼンハワー大将と第12軍集団のブラッドレー大将はこの情報を信じ、第12軍集団の指揮下にあるアメリカ軍第1軍第5軍団を向かわせる事にした。第5軍団にはフランス第2機甲師団も所属しており、そのための配置であった。イギリス軍のバーナード・モントゴメリー大将にも部隊派遣要請があったが、指揮権の問題でアイゼンハワーと確執があったモントゴメリーはこれを拒否した。第5軍団司令官少将はパリ進撃部隊を二つに分けた。パリ入城はあくまで第2機甲師団が先に行うことになっていたが、アメリカの貢献も示すために第38騎兵中隊も同行することとなった。両軍は最終目的地で一旦停止し、ドイツ軍の抵抗が軽微である場合のみにパリ市内に入ることと決められた。軍の出発は当初8月22日中に行われる予定であったが、第2機甲師団の集結準備に手間取り、8月23日午前6時30分に進軍が開始された。両軍の進軍はいたってスムーズであり、フランス人による熱狂的な歓迎を受けるのみであった。北方部隊の目的地への到着予定時刻は24日午前5時10分、南方部隊は23日午後8時55分であった。一方パリではFFIと防衛軍による散発的な戦闘が続いていたが、おおむね休戦は維持されていた。しかし午前11時、コルティッツ大将のもとにヒトラーからパリの防衛、暴動鎮圧を命じた上で「パリは、廃墟以外の姿で敵に渡すべきではない」といういわゆる「パリ廃墟命令」が到着した。コルティッツはモーデル元帥に命令遂行が不可能であると上申したが、モーデルは総統命令は一部でも実行しなければならないと命令した。同日正午すぎ、BBCで「パリ解放」の臨時ニュースが流れた。間もなく誤報であると訂正されたが、これは連合軍の進軍を督促するためのFFIロンドン本部による工作であった。しかしその頃、北方部隊の進軍はフランス人や新聞記者の歓迎で遅れ、ヴェルサイユの到着予定の23日午後8時55分にランブイエ到着がやっとであると連絡が入った。北方部隊の到着と同じ頃ド・ゴールもランブイエに入り、ルクレール少将と今後の進軍計画について会談した。ルクレールは独自の偵察からヴェルサイユに向かうよりリムールの東アルバジャンに向かったほうがパリに向かいやすいと命令を無視する意向を伝え、ド・ゴールもその方針を支持した。しかしこのルートは南方部隊の進軍経路を横断する形となっており、8月24日の午前7時頃には南方部隊と交錯して大渋滞を来した。しかもルクレール部隊が向かったアルバジャンとパリの間にはドイツ軍の強固な防衛陣地があり、激しい抵抗を受けた。第2機甲師団がパリ進軍期間に出した損害の大半はこの日のものであった。また激しい歓迎もかわらず、この日の進軍は北方部隊に属する第2機甲師団主力が15マイル、南方部隊に属する第2機甲師団の一部が12マイルとはなはだ短いものであったが、南方部隊側はパリまで3マイルに迫っていた。ジロー少将はルクレールにやる気がないと判断し、第4歩兵師団のパリ入城許可を要請し、了承された。しかしルクレールはその間に戦車三輌、装甲軌道車5輌からなるパリ突入部隊を派遣していた。突入部隊は南部のイタリア門とオルレアン門の間からパリに入城し、午後11時55分にパリ市庁舎前に到着した。ラジオはルクレール師団の入城を伝え、ノートルダム大聖堂の鐘が打ち鳴らされた。しかしパリ市内のドイツ軍は健在であり、外周防備部隊も帰還してきていた。街頭に出ていた市民は再度逼塞することになった。8月25日午前0時、第4歩兵師団司令官レイモンド・バートン()少将は第12連隊にパリ進出命令を出した。ルクレール少将も第2機甲師団の本隊を三つに分けて市内に突入させた。各部隊はドイツ軍の抵抗と、市民の激しい歓迎にあいながらも、午前11時30分には第12連隊がパリ南東部を占拠し、フランス部隊もエトワール広場、ブルボン宮殿に到着した。フランス部隊のうち右翼を進んでいた一隊はドイツ軍の司令部があるオテル・ムーリス()近くに進出し、コルティッツ大将に降伏勧告を行ったが、この時点では受け入れられなかった。正午、エッフェル塔の頂上にシーツで作った三色旗が掲げられた。この旗を掲げたのは1940年6月30日のパリ陥落の日に、ハーケンクロイツ旗を掲げるため、三色旗をおろすことを命じられた消防士であった。同時刻、フランス軍200人がオテル・ムーリスの攻撃を始め、コルティッツ大将も降伏を覚悟し始めた。しかし正規軍である連合軍に降伏することはあっても、FFIに降伏することはできないと考えていた。午後1時、パリの状況にいらだったヒトラーはパリ廃墟命令が実施されているか、最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル大将に質問した上で、「Brennt Paris?(パリは燃えているか?)」と3回にわたって叫び、長距離砲やV1飛行爆弾、空襲などあらゆる手段でパリを灰にするよう命じたが、結局外部からの焦土作戦は実行されなかった。午後1時10分、オテル・ムーリスの玄関にフランス軍のカルシェ(Henri Karcher)中尉ら4人が乗り込んできた。正規軍と遭遇したコルティッツはこれを降伏の機会と考え、参謀を通じてカルシェ中尉に自分の部屋に来るよう伝えた。カルシェ中尉は司令官室に乗り込むと緊張のあまり「ドイツ語を話せるか?」とドイツ語で叫んだ。「貴官よりいくらか上手だと思う」と答えたコルティッツは降伏する旨を伝え、司令部員は武装解除した。コルティッツらはルクレールが司令部を置いたパリ警視庁に運ばれ、降伏文書を提示された。しかしその文書にあったルクレールの肩書きは「フランス共和国臨時政府パリ軍政司令官・第2機甲師団長」であり、「連合国軍」ではなかった。するとその部屋にFFIイル=ド=フランス地域圏隊長のアンリ・ロル=タンギー()大佐(通称ロル大佐)とFFIに属する軍事行動委員会()共産党代表モーリス・クリーゲル=ヴァリモン()が入室し、ロル大佐にも降伏文書調印資格があると主張し、ルクレールと交渉し始めた。ルクレールと二人の交渉はしばらく続いたが、結局ロル大佐の調印参加が認められ、午後3時30分に降伏文書は調印された。コルティッツが降伏命令を各部隊に発出したことで、パリ市内のドイツ軍部隊は午後7時35分までにはほとんど降伏し、ブローニュの森にいる2600人の部隊を残すのみとなった。ドイツ軍降伏を知ったパリ市民は占領期間の有力者やフランス民兵団やヴィシー政府やドイツへの「コラボラシオン(協力者)」狩りに乗りだし、次々に処刑・殺害を行っていった。またドイツ軍兵士の愛人であったりするなど、ドイツに近しいとみられたフランス人女性は髪を刈られ、裸にハーケンクロイツを書かれる等の暴行を受けてさらし者にされた。誤認されて被害に遭う市民も多数おり、争乱はしばらく治まらなかった。ド・ゴールは降伏が成立した後の午後4時半頃に陸軍省に移り、オテル・ド・ヴィル(パリ市庁舎)で臨時政府の帰還と解放を伝える演説を行った後に、翌日の凱旋パレードを計画した。さらに米英軍に対して兵士の参加要請を出した上に、パレード終了後は第2機甲師団を連合軍の編成から外すと通告してきた。第5軍団のジロー少将は激怒し、第12軍集団司令部からパレード参加の禁止と前線への前進命令を受け取ってルクレール少将に下命した。しかしルクレールは「政府の元首」であるド・ゴールの方針に従うと伝え、ド・ゴールもパレード実施を強行した。8月26日にはシャンゼリゼ通りで第2機甲師団を中心とするパレードが行われた。しかし市内になおドイツ軍の狙撃兵が残っており、時折銃弾が飛来して市民が慌てて地面に伏せるような事態も発生した。29日には、米第28歩兵師団によるパレードが行われた。この時には都市は既に安全な状態となっていた。アメリカ軍と自由フランス軍の車両がパリの道路を進むと、喜びに満ちた群集が彼らを歓迎した。以後、毎年8月25日にはパリ解放を記念する式典が開かれる。2004年の60周年記念式典では、オテル・ド・ヴィルの外で音楽に合わせて道で踊る人々の間を、当時のフランス軍とアメリカ軍を表す2種類の装甲車両による軍事パレードが行なわれた。
出典:wikipedia
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