アマビエは、日本に伝わる半人半魚の妖怪。海中から現れ、豊作や疫病などの予言をすると伝えられている。同種の妖怪と考えられるものにアマビコ(尼彦、あま彦、天彦、天日子、海彦)、尼彦入道(天彦入道)、アリエなどがある。江戸時代に肥後国(熊本県)に現れたと伝えられている。弘化3年(1846年)の4月の中旬頃。毎晩のように海中に光る物体が出現していたため、ある夜に町の役人が海へ赴いたところ、このアマビエが現れていた。その姿は人魚に似ているが、口はくちばし状で、首から下は鱗に覆われ、三本足であった。役人に対して自らを「海中に住むアマビエである」と名乗り、「この先6年間は豊作が続くが、もし疫病が流行することがあれば、私の姿を描いた絵を人々に早々に見せよ」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行った。この話は当時の瓦版で人々に伝わり、アマビエの姿も瓦版に描かれて人々に伝えられた。「アマビエ」という名称については、目撃記録が一つしかなく、また名の意味が不明であることから、「アマビコ」という同種の妖怪の誤記という説が提唱されている。アマビコを記述した史料例は(アマビエを含め)9件ほど挙げられるが(長野栄俊の論文)、いずれも海中からの出現、豊作や疫病の予言、その姿を描いた絵による除災、3本以上の足による直立という外見などが共通しており、同種と考えられている。このうち肥後国に出現した史料例は4件、隣国の日向国(宮崎県)の「尼彦入道」が1件ある。九州にかぎらず、越後国出現の史料も2件ある。このうち年代が特定できる最古の例は、天保15年(1844年) に越後に出現した「海彦(アマビコ)」を記述した瓦版で、その挿絵に描かれたアマビコは、頭からいきなり3本の足が生えた(胴体のない)形状で、人間のような耳をし、目はまるく、口が突出している。その年中に日本人口の7割の死滅を予言し、その像の絵札による救済を忠告している。また猿によく似た「尼彦(アマビコ)」の絵が、肥後国に現れた例として、一点の肉筆画(湯本豪一所蔵)に残されている。添え文によれば、夜ごとに猿の声がするのを、柴田彦左衛門という人物がつきとめて「尼彦」に遭遇したという。湯本はいわばアマビコ考察の第一人者であるが、ここに描かれたアマビコは四足動物であると主張している。ただ、これと酷似した文章のアマビコ(「あま彦」)の版画も刷られていて、そちらの絵は「猿に似たる三本足の怪獣」であったと1892年(明治15年)7月10日付の郵便報知新聞には報道されている。この肉筆画と版画は、アマビコの出現場所が肥後国熊本県「眞字郡」だったとしているが、そのような郡は実在していない。また「熊本県」とあることから廃藩置県の明治4年(1871年)以降の文章と推定できる。この他に、海中ではないが新潟県湯沢町の田の中に「天日子尊(あまひこのみこと)」と名乗る妖怪が現れたという記事が、東京日日新聞の1875年(明治8年)8月14日付の記事に見つかる。挿絵は、だるまのような、無毛にもみえる四本足のものである。この例は、アマヒコが、天つ神に仕える存在だとしていることや、「尊(ミコト)」の尊号がつけられているのが特異点だと指摘される。肥後国青鳥郡の海にもアリエという予言獣が出現したと1876年(明治9年)6月17日付の山梨日日新聞に報道されている。ただし、これに関しては、青鳥郡という郡が実在しないことから当時としても疑わしいニュースとされており、同年6月30日付の長野新聞でも「妄説」とされている。また天草の山中に、形態はアマビエと似た「山童」という妖怪が現れたという伝承がある。出現場所が海(水域)でないとの相違はあるものの、これらは三本足の外見や、予言などの特徴が共通しており、湯本は、関連性がある幻獣とみなしている。また、外見などは大きく異なるが、予言と除災という観点から言えば、件、白澤、神社姫、ほうねん亀、亀女など同じような性質の妖怪も多い。西洋の一説では海の生物にはすべて予知能力があるとされ、海から半人半魚のものが現れて予言を告げる伝承も珍しくないことから、アマビエを人魚の一種とする見方もある。ただし、人魚の予言を不運の前兆と解釈する説がある一方、アマビエは予言のみならず疫病を防ぐ能力を持ち合わせていたことが、一般の人魚の予言と大きく異なり、妖怪というよりは神に近い存在とも言われている。
出典:wikipedia
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