トロット()は、韓国における大衆楽曲のジャンルのひとつである。日本の演歌と酷似した性格を持つため、しばしば韓国演歌と呼ばれることがある。韓国の旧来型大衆楽曲のうち、「ズンチャッチャ、ズンチャッチャ…」の3拍子ないし「ズンチャチャチャッチャ、ズンチャチャチャッチャ…」の4拍子を基本とするものを「トロット()」、「ンチャ、ンチャ…」の早い2拍子を基本とするものを「ポンチャック()」と呼ぶ。「トロット」は曲調のテンポを表す英語である「フォックストロット(Foxtrot)」の一部をとったものであり、「ポンチャック」は曲の伴奏のリズムを表す朝鮮語の擬音語を語源とするやや下世話な音楽とする蔑称である。トロットの曲構成においては、朝鮮民謡を由来とする3拍子5音階を用いることが多く、その音階法は、西洋音楽が7音階を基本とするのに対して5音階を取っているために第4音と第7音は存在せず、4と7を抜いているとするいわゆるヨナ抜き音階(ペンタトニック・スケール)と呼ばれる。トロットの歌詞テーマにおいては、別離や薄幸などに対する「ハン(、恨)」、「男女間や家族間の情愛」、「大自然や日常風景の人生観への投影」などが好んで取り上げられる。「ハン()」とは、漢字で表記すれば「恨」であるものの仏教用語でいう「煩悩」や日本語で言う「怨恨」・「恨み」とは異なる概念であり、自分の理想・なりたい境遇・やり遂げたい事・成就させたい恋愛などに関して、自分なりの努力にもかかわらずなかなか叶えられないことに対する不満・嘆き・嫉妬などと、それでもあきらめ切れない夢と羨望の念が入り混じった、韓国人特有とされる情念のことを指す。その唱法においても、小節(こぶし)廻しを用いた独特の歌唱法が多用される。男女ともトロット歌手は洋装での出演が多いものの、かつての女性トロット歌手は洋装とともに韓国のイメージを出すためにチマチョゴリで出演することが多かった。日本の演歌シーンにおいて女性演歌歌手が日本のイメージを大切にする目的で歌唱時に和装を多用することに似ている。また、歌詞の言いまわしひとつにしても、例えば男女間の情念をテーマとする曲で相手を二人称で呼称する場面において、「カヨ(、歌謡、日本で言ういわゆるK-POP)」ではクデ( 〜日本語でいう「君」・「あなた」に相当)を多用するのに対し、トロットではタンシン(、当身(當身)、〜日本語において、婚歴の長い夫婦や付き合いの長い恋人同士で、あるいは親友同士で、また喧嘩相手に対して用いられる「おまえ」・「あんた」に相当する。朝鮮語でも全く同様の用法をとる)を好んで用いるところなど、日本のJ-POPと演歌の歌詞の言い回しの違いにそっくりである。その他、前述の音階法を始めとするコード進行やメロディー構成やアレンジ、歌詞に好んで取り上げられるテーマ素材や歌詞表現の言い回し、プロ歌手の歌唱法やふるまい、ファン層が中高年層中心であること、近年はポップス楽曲に押されて相対的に売り上げが低迷しているが細く長くヒットする曲が多いこと、根強くテレビ放送に独自枠を持つことなど、完全に日本の演歌と酷似した性格をもつ。朝鮮で初めて発表されたトロットのレコードは1908年の李東伯(イ・ドンベク / )の『赤壁歌』(ビクターレコード)である。1926年には尹心悳(ユン・シムドク / )の『死 贊美』(死の賛美)(ニットーレコード)がヒットした。尹心悳は大阪での同レコードの吹き込み後に、劇作家の金祐鎮(キム・ウジン / )と共に関釜航路に就航していた徳寿丸から投身自殺をし、朝鮮全土に一大センセーションを巻き起こしたことでも知られており、皮肉なことにその話題先行によりレコード発売前から大ヒットは約束されていたようなものであった。日本のレコード会社は大正時代より、日本蓄音器商会(現在のコロムビア)・大阪の日東蓄音器などが朝鮮市場向けに小規模に朝鮮盤(朝鮮語版レコード)を発売していたが、昭和になってから本格的に進出を開始し、1928年にビクター、1929年にコロムビア、1931年にポリドール・タイヘイレコードの順で進出した。また1931年には現地資本のシエロンレコードが設立され、1933年にはテイチクが現地資本との合弁でオーケーレコードを設立した。当時の日本のメジャーレーベルの中では唯一、キングレコード(講談社)のみが朝鮮盤の生産を行わなかった。1932年、10世紀から14世紀の朝鮮半島の王朝国家で、コリアの語源にもなった高麗の首都・開城を舞台に歌い上げた李愛利秀(イ・エリス / )の『荒城跡』(荒城の跡)が、朝鮮語版レコードによる初の全国的ヒットとなった。また、同年に蔡奎燁(チェ・ギュヨプ / )が日本のヒット曲を朝鮮語に訳して歌った『酒は涙か溜息か』などで人気を博した。また、日本の人気歌手であったディック・ミネが三又悦(サムヨル=サミュエル)名義で朝鮮語を用いてジャズナンバーを発表するなど、相互通行的な動きも見られた。さらに、本来は韓国の伝統芸術的な歌曲であった『鳳仙花』をソプラノ歌手金天愛(キム・チョネ / )が歌い大ヒットとなった。1934年には『 江邊』(ノドル河辺)に代表されるいわゆる新民謡(創作民謡)がヒットする傾向を見せ、鮮于一扇(ソヌ・イルソン / )などの妓生歌手が数多く誕生した。さらに、同年には高福寿(コ・ボクス / )の『他鄕살이』(他郷ぐらし)、1935年には李蘭影(イ・ナニョン / )の『木浦 』(木浦の涙)、1937年には張世貞(チャン・セジョン / )の『連絡船 』(連絡船の歌)が、日本による統治への反発を抱く大衆の思いを代弁する形となり大ヒットした。1938年には歌謡皇帝こと南仁樹(ナム・インス / )の『哀愁 小夜曲』(哀愁のセレナーデ)がヒットし、南仁樹は作曲家の朴是春(パク・シチュン / )と組んで後の韓国歌謡界に不動の地位を築くこととなった。この頃、民謡の女王として李花子(イ・ファジャ / )も人気を博している。金貞九(キム・ジョング / )の『 豆滿江』(涙の豆満江)が世に出たのも同時期だが、この歌はむしろこの時よりも、朝鮮動乱後にリバイバルヒットした事で知られている。1940年には白年雪(ペン・ニョンソル / )の『』(旅人の悲しみ)が、また秦芳男(チン・バンナム / )の『不孝者 』(不孝者は泣きます)が大ヒットとなった。その後の第二次世界大戦の戦局悪化にともない、朝鮮においても内地と同じように軍部が士気高揚のために利用した戦時歌謡が量産されるようになった。朝鮮人志願兵第一号として軍当局の言ういわゆる名誉の戦死をした李仁錫(イ・インソク)一等兵の最期を美談に作り上げて大々的に喧伝し、「内鮮一体」のスローガンの気運を盛り上げようと謀る当局の介入に、朝鮮における歌謡界の自由性も次第に萎縮していった。1945年の日本の敗戦により朝鮮は解放され、1948年8月15日に大韓民国樹立によって在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による占領統治が解除されても、依然として在韓米軍は数多く駐留したままであった。米国への留学経験を持つことから反日親米主義者である韓国初代大統領李承晩が1948年から1960年まで韓国で軍事独裁政権を掌握し、トロット界においても『酒は涙か溜息か』などの日本をルーツにした楽曲は事実上の発禁処分とされる事になった。1947年には玄仁(ヒョン・イン / )の『新羅 』(新羅の月夜)が大ヒットしている。米軍キャンプをまわるジャズ歌手なども多く登場している。1950年6月25日の北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の南侵によって勃発した朝鮮戦争により、国土は壊滅的な打撃を受けた。朝鮮戦争中は軍歌が流行したが、1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定署名後には北朝鮮へ渡った作曲家・作詞家などに対して「越北作家」のレッテルが貼られ、彼らの作による『断髪令』・『有情千里』など多くの歌が発禁処分となった。これは1988年まで続き、著名曲でありながら公の場では歌えない歌謡曲が多く存在することとなった。1954年には、李海燕(イ・ヘヨン / )による『斷腸 彌阿里』(断腸のミアリ峠)が大ヒットした。1957年にはエレジーの女王・李美子(イ・ミジャ / )がデビューし、後に彼女は韓国歌謡界の女王として君臨することとなる。1959年ごろから、韓国においてもSPレコードからLPレコードの時代となり、従来は比較的身分の低い低学歴の職業と目されてきた歌手界にも、大学卒の歌手が出現するようになり話題となった。1961年には、韓明淑(ハン・ミョンスク / )の『』(黄色いシャツの男)が大ヒットして、フランスのシャンソン歌手イベット・ジローが同曲をソウルで吹き込んだり、日本においても一部朝鮮語の歌詞を残したまま日本語訳詞が付けられてヒットするなど、社会現象を引き起こした。またこの頃、反共ラジオドラマによって『涙の豆満江』がリバイバルヒットしている。1962年に就任した朴正煕大統領は文化界に強い圧力を加えだし, 1975年にはビートルズなどの曲が共産主義色彩をたたえるという理由で総222曲が発行禁止処分が酔われたりした. また李美子の歌が倭色と言って多数禁止曲に指定されたりした.1967年、南珍(ナム・ジン / )による『』(カスマプゲ)が大ヒットした。同年には、後に国民的歌手となる羅勲児(ナ・フナ / )もデビューを果たしている。1971年にはフォークデュオのラナエロスポ()による『』(サランヘ)が、1973年にはパティ・キム()による『離別』が大ヒットし、両曲の作曲家を手がけた吉屋潤(キロギュン / )の名を高めた。特に『離別』は、北朝鮮の金正日総書記の十八番としても知られている。1976年には趙容弼(チョー・ヨンピル / )による『』(釜山港へ帰れ)が大ヒットする。また、1977年には李成愛(イ・ソンエ / )が日本語に訳したトロットを日本でヒットさせた。従来にも菅原都々子による『連絡船の歌』のヒットや、平壌出身の歌手である小畑実の人気などスポット的に韓国歌謡の日本でのヒットはあったものの、本格的なトロットの日本への紹介は李成愛が初めてであった。李成愛の成功は、趙容弼や羅勲児らの歌うトロットの日本進出をもたらし、近年の韓流ブームほどは爆発的でないにせよ、第一次韓国ブームともいえる現象を引き起こし、韓国歌手の名前が日本にも浸透するようになり、後に金蓮子(キム・ヨンジャ / )や桂銀淑(ケー・ウンスク / )などの韓国人歌手が日本に進出・定着する礎となった。また、『黄色いシャツ』・『離別』・『カスマプゲ』・『釜山港へ帰れ』などの数々のトロットを日本人演歌歌手が競ってカバーするようになり、日本でも大ヒットすることとなった。その後、一旦トロットの人気は下火となり、1980年代に入って一時復活の兆しが高まったものの、その人気は長期的に見て凋落傾向にある。ことに1990年代以降は、ソテジワアイドゥル( 〜「ソテジと子供たち」の意)などに端を発する、従来のトロットの流れを全く汲まないグループやアーティストによる洗練されたダンス曲・ポップロック・バラードなど、いわゆるK-POPが若年層を中心に絶大に支持され、トロットはすっかり中高年世代限定の歌というイメージになってしまっている。しかし、ヒョンチョル、テ・ジナ、ソン・デグァン、ソル・ウンドのトロット四天王が登場し一定の存在感を示す。また、日本において電気グルーヴによって李博士(イ・パクサ / )が紹介されると一気にテクノファンに浸透し、ポンチャック・ブームを巻き起こした。2004年には張允貞(チャン・ユンジョン / )が『オモナ』をヒットさせ、純トロット曲の久々のヒットとなった。韓国ではドライバーが好んで聞くジャンルの音楽である。高速道路のサービスエリアの売店でCD、カセット集が販売されていたり、交通情報専門ラジオである「交通放送」や2「MBC標準」などのラジオ局では昼間の時間帯を中心に多くのトロット曲がオンエアされている。しかしラジオ番組からトロットは減少する傾向にあり、いくつかの番組やトロット枠(KBS2/happyfmの午前11時台)などが消えている。WBS円音放送は仏教系の宗教局でありながら積極的にトロット番組をオンエアしている。
出典:wikipedia
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