『ある日どこかで』("Somewhere in Time")は、1980年のアメリカ合衆国の映画で、SF・ラヴストーリー。ユニバーサル・ピクチャーズ製作、カラー(モノラル)、約103分。リチャード・マシスンのSF小説の映画化。「カルト古典」映画としてコアなマニアによって好んで視聴され、2010年の「午前十時の映画祭 何度見てもすごい50本」にも選ばれているように2010年代でも熱烈なファンが多い。1972年ミルフィールド大学で脚本家志望のリチャード・コリアーの処女作上演後のパーティー会場に、成功を喜ぶ彼を会場の隅から見ている上品な老女がいた。彼女はリチャードに歩み寄り、「(私の所へ)帰ってきて(Come back to me)」と言う不思議な言葉と共に懐中時計を手渡し去っていった。周りの皆は誰一人として彼女が何者なのか知っている者はいなかった。彼女はグランドホテルの自室に戻り、リチャードの書いた脚本を胸に抱いて、思い出の曲を聴きながら、その夜静かに息を引き取った。8年後の1980年、脚本家となったリチャードのオフィスには、彼の大好きな曲が流れていた。仕事も私生活も行き詰まっていた彼は、原稿を求めに来る編集者から逃げるように、車で旅に出た。そしてドライブの途中で通りかかったグランド・ホテルに、引き寄せられたかのように宿泊した。レストランのオープン前にふと立ち寄ったグランド・ホテル内の歴史資料室で、リチャードは背中に熱い視線を感じた。振り返ってみると、そこには若く美しい女性の写真が掛かっていた。しかし名札ははずされていた。ホテルの老ボーイに尋ねると、彼女はそのホテル内の劇場で公演をした女優であることを知る。しかも1912年のものだという。そのときからリチャードは彼女のことが頭から離れなくなり夜も寝つけなかった。そして彼女についての調査に没頭し、写真の主は1912年当時、人気のあった女優エリーズ・マッケナであり、1912年以降活動しなくなったことを知る。また1972年の夜に彼女が亡くなったことも知る。彼はさらに調査を進めていくが、彼女の愛読書がリチャードの哲学教師の著書である「時の流れを超えて」であることに驚き、ここで「帰ってきて」の意味を知った。そしてリチャードは「時間」という壁にぶつかってしまった。それからリチャードが取った行動は、運命の人を求めての、信じられない旅立ちだった。原作者のリチャード・マシスンは、バージニア州のある劇場で見かけたポスターに出ていた、20世紀初頭の女優モード・アダムズ()に心惹かれ、彼女について調査を続け、1975年に自分の経験を投影したロマンティック・ファンタジー小説『ある日どこかで"Bid Time Return"』(創元推理文庫)を発表した。これは翌年の世界幻想文学大賞を受賞している。プロデューサーのサイモンはこの原作を気に入り、(スティーヴン・スピルバーグと同期で1967年にユニバーサル映画社に所属し、テレビや映画の監督として活躍していた)監督のヤノット・シュワルツに映画化の話を持ちかけた。シュワルツはスピルバーグとともにユニバーサル映画社の幻想テレビドラマ・シリーズ『四次元への招待"The Night Gallery"』を担当していて、そこでマシスンの原作&脚本のエピソードを監督していた。それがきっかけで、シュワルツに注目していたマシスンが『ある日どこかで』の監督候補に推したといわれている。シュワルツは、シェイクスピアの一節を引用した原題"Bid Time Return"も悪くはないが、古臭い感じがするので、観客が歓迎しそうな"Somewhere in Time"という題名を提案した。上層部は非商業的でヒットしそうにないという見解を出し予算は半減されたものの、「それでも作りたい」というスタッフ&キャストが集まり、映画は完成した。リチャードが振り向いて目にするエリーズの写真は、どこから見ても彼女の視線が自分を見ているように工夫して撮影された。しかも、この写真には幕が掛けられ、リチャード役のクリスも撮影まで隠されていたため、実際の撮影時に振り返ってみた瞬間に本当に初めて見たため情感のこもった演技となった。これは監督が仕組んだ演出だった。原作者マシスンは、1912年のシーンでホテルの宿泊客役でカメオ出演している。時間旅行に関する研究者として「フィニー教授」が登場するが、マシスンが、タイムトラベルものを得意としていた先達のSF作家ジャック・フィニイ(長篇『ふりだしに戻る』短篇「ゲイルズバーグの春を愛す」「愛の手紙」「第二のチャンス」「レベル3」など時間旅行ものが多い)に敬意を表したためであるといわれている。エリーズ・マッケナは、20世紀初頭の女優モード・アダムズに由来しており、映画の中でも"モード"と言う女優が登場する。映画の脚本を書く時にマシスンは若干の修正を加えており、原作とは異なる部分がある。原作ではサンディエゴの「ホテルデルコロナド(お熱いのがお好きのロケ地」だったが、アンテナなどが立っていて近代的過ぎて撮影には向かなかったため、リゾート・アイランドであるミシガン州マキノー島のグランドホテルで行われた。劇中で使用される楽曲は、原作ではグスタフ・マーラー作曲の「交響曲第9番ニ長調」であったが、シュワルツが小品であるこの映画にマーラーは相応しくないと考え、ジョン・バリーの提案により、セルゲイ・ラフマニノフ作曲の「パガニーニのラプソディー」に変更されたという。『ある日どこかで』という邦題に関するデータは不明。また、日本語訳・テロップに関する情報も不明である。映画『ある日どこかで』は、現在の部分をコダック、過去の部分を富士フイルム(フジ)と、フィルムを使い分けて撮影された。これは、フィルムの色彩的質感の違いによる演出効果を意図したものである。当時のフジは淡い色合いであった。撮影に使用されたフジのフィルムは、「 映画用35mmフジカラーネガティブフィルムA(エース)タイプ8517 」と推測される。映画『ある日どこかで』の撮影は、1979年5月から8月の間の10週間に行われ、そのほとんどが、アメリカ合衆国ミシガン州、ヒューロン湖のマキノー島内でのロケである。撮影中のスタッフとキャストは、島内で廃舎となっていた施設に宿泊し、寄宿生活を行った。映画に登場するグランドホテルは、マキノー島に実在する。グランドホテルは、1887年に開業されたリゾートホテルで、木造の建物である。冬季は、閉鎖される。島内は、自動車の通行が原則禁止されていて、交通手段は、馬車、あるいは自転車、または徒歩であり、19世紀の雰囲気が残されている。撮影機材の移動には、馬車を使い、スタッフ、キャストは、自転車を利用した。なお、撮影のため、自動車の使用が、一台、許可された。撮影中も、グランドホテルは通常の営業を続け、宿泊客がエキストラとしてロケに協力した。その期間中のホテルの客室稼働率は85〜90パーセントであった。1980年10月3日の映画公開に先立ち、9月17・18・19日に、グランドホテルで試写会が行われた。グランドホテルでは、毎年、『ある日どこかで』を記念したイベント、「Somewhere in Time Weekend」を開催している。2015年は10月16日〜10月18日が予定されている。アメリカでの試写段階では好評を得ていたが、実際に封切られると評論家の酷評の影響もあってか興行収入は伸び悩んだ。皮肉にも興行終了後、ケーブルテレビやビデオによって次第に支持を集め、少しずつ誠実に応援するファンが増えた。日本においても同様な状態で一部地域では人気を博したが、全国的なヒット作にはならなかった。主役「リチャード・コリアー」を演じたクリストファー・リーヴの落馬事故・後遺症での車椅子生活、そして逝去により、彼のファンもこの映画に関心を持ち始めた。熱烈なファンであったビル・シェパードが呼びかけてINSITE(The International Network of Somewhere In Time Enthusiasts)というファンクラブを設立し、公式ホームページを運用している。そのサイトの中では、"SIT"("Somewhere in Time"の略)のグッズも販売している。また毎年グランド・ホテルで毎年コンベンションが開催され上映会を行っている。日本では、2010年2月6日より開催された「第一回 午前十時の映画祭」(主催:映画演劇文化協会)の上映作品50本の中に、『ある日どこかで』は選ばれている。この50本は、1940年より1994年まで公開された映画の名作である。翌2011年2月5日から開催された「第二回 午前十時の映画祭」でも、「Series1 赤の50本」で、引き続き上映された。日本の宝塚歌劇団が、1995年に舞台化している。バウ・ミュージカル・ファンタジー『ある日どこかで-SOMEWHERE IN TIME-』(2幕)のタイトル、月組で、天海祐希(リチャード)・麻乃佳世(エリーズ)の配役、宝塚バウホール(1995年10月14日-10月29日)、日本青年館大ホール(1995年11月2日-11月9日)、にて公演された。米国、オレゴン州(Oregon)、ポートランド市(Portland)の、ポートランドセンターステージ(Portland Center Stage)にて、『 Somewhere in Time 』の新作ミュージカルが、2013年5月28日より6月30日までの期間、公演された。
出典:wikipedia
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