則天文字(そくてんもじ)は、中国・武周の女帝武則天が制定した漢字。則天新字、武后新字とも言われる。六書の文字分類では象形文字あるいは会意文字である。※Unicodeでの番号は参考資料、注釈を参照のこと"(以下このページにおいて同じ)"。武則天が権力を誇示するため、あるいは個人的な好みや考えのため制定されたとされる。武則天が失脚するとほどなく忘れ去られた。日本で最も有名なのは「圀」の字で、徳川光圀の名前に使用されている。この字は「國」の「或」の部分が「惑」に通じるので不吉だと理由で「囗」(くにがまえ)に「八方」という字が入れられた。また、「『地』は『土』の上に『山水』がある」という理由から、代わりに「土」の上に「山水」を乗せる字「」が考案、使用された。「臣」は「忠」を第一にせねばならないという考えから「忠」の上に「一」を乗せた字「」が「臣」の代わりに使用された。武則天自身の名前「照」は「 」となった。「空」の上に「日」「月」であり、この字は武則天のためだけの文字である。武則天は中国史上ただ一人の女帝であり、今までの慣わしを何でも改めるのが好きな人物であった。彼女が変更しなかったのは服装ぐらいのもので、まず国号を唐から周に変えた。改元は頻繁であり、官職名も変えた。中でも有名なのは、新たに字を作ったことである。彼女は自らの思想と政治力によって、あたかも服を着替えるかのように簡単に文字を変更した。この文字は後世「則天文字」と呼ばれるようになった。例えば「天」の文字はに改められた。これは「天」の字の篆書体である。もっとも、このように形を変えただけの文字は例外であり、ほとんどの文字は新たに作られたものである。則天文字が何文字あるかはよく分かっておらず、12,16,17,18,19,21個の各説があり、すべての説の文字をあわせると30字前後になる。もっとも、印刷や手書きの都合で異体字となっているものもあり、現在のところは17個説が有力である。則天文字が使われたのはわずか15年間であったが、従来の文字にも影響を与えた。文化財などに書かれた文字を見ていくと、武則天の前後の影響がよくわかる。武則天が退位した705年3月3日、復位した中宗は国号を唐に戻した。則天文字は公式には廃止され、私文書においてもだんだんと廃れていった。現在中国では全く使われていない。もっとも当時の武則天の威光は絶大だったようで、中国国外にまで伝わっている。また、昔からよく文字研究の対象になっている。※本項の月日は、中国暦によるものである。『新唐書』あるいは『資治通鑑』などの史書によると、則天文字は武則天が考えたものではなく、甥の宗秦客に命じて作らせたもののようである。当初公表されたのは12文字であり、「照」「天」「地」「日」「月」「星」「君」「臣」「載」「初」「年」「正」がそれぞれ「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」に改められた。このうち「」と「」の2文字が組み合わされて年号「載初」として使われた。制定当時、武則天は「改元載初赦文」で以下のように述べている。これ以後、武則天は武と改名し、「」の字は避諱とし、他人が使用するのを禁じ、以前の「照」の文字も使用が禁止された。当時退位させられていた中宗の長男(武則天の孫)である李重照は、名を李重潤と改めさせられた。載初元年正月8日(西暦689年12月25日)、則天文字は正式に公布された。なお『旧唐書』経籍志には「『字海』一百巻 大聖天后撰」、『新唐書』芸文志には「武后『字海』一百巻」の記述がある。載初元年(690年)7月、聖母神皇(即位前に武則天が自身をこう呼ばせた)の武則天は、仏典『大雲経』の中に「弥勒降生」「女子為王」といったことが書かれていたことを利用して、洛陽白馬寺住持の薛懐義に命じて注釈書『大雲経疏』を書かせ、その中で「武則天が皇位に就く事は仏典に定められていることだ」と宣伝させた。この本は全国各地に頒布され、この本と共に、則天文字も全国に広まった。なお、懐義は武則天の愛人であるとされている。同年9月9日の重陽の日に、武則天は正式に皇位に付き、年号天授に改めた。天授年間、授の字がに変えられた(天の字はすでにに変えられている)。695年、元号を證聖に改めると、證(証)の字はに、聖の字はに改められた。同年6月下旬、國(国)の字が(=圀に同じ)に改められた。聖暦年間(698年)、人の字に代わってが登場した。則天文字は、以上の17字と考えられている。時に21字と言われることもあるが、これは昔の学者が唱えた説が未だに信じられているためである。則天文字は、武則天が皇位に就いていた15年間(690年 - 705年)には広く使用されており、石碑や仏典などに盛んに記された。現存する武周期(武則天の治世)の碑銘、墓誌銘によく現されている。武則天は705年に中宗に皇位を譲ると、まもなく他界した。中宗は全ての制度を昔の高宗永淳時代に戻すように命じ、併せて則天文字も廃止された。これに対して武則天の親戚の武三思らは、韋皇后や女官のと結託して、張柬之ら重臣5名を追放し、権勢を揮った。これを機会に、時任左補闕の権若訥は中宗に奏上し「則天文字を復活させることが他界した母親への孝行である」と提案した。中宗はおおむね権若の指示に従っていたが、則天文字の復活だけは認めなかった。文宗の治世となっていた開成2年(837年)10月、則天文字を元の文字に直すことを命じる詔書が改めて頒布された。これは逆にいえば、この時まで則天文字が使われていたことを意味し、150年間通用していたことになる。太字が則天文字に改められた箇所。唐王朝は則天文字をすぐに撤廃したが、中国国外には広く伝わった。特に河西回廊(現甘肅省)と西域(現新疆、中央アジア)である。中国では15年間しか使われなかったのに対し、これらの地域では200年にわたって使われた。敦煌では中国で失われていた『大雲経』『大雲経疏』といった書物が見つかり、貴重な研究資料になっている。部分的にではあるが日本や韓国にも伝わった。例えば江戸時代の大名「德川光國」は正しくは「德川光圀」と書かれる。これは「或」の字が「惑」に通じて不吉だったからとされている。また、本国寺は光圀から一字をもらって本圀寺となっている。そのため「圀」の字は、日本で最も有名な則天文字である。武則天の碑刻は後世に数多く伝わっており、とりわけ彼女の自筆『昇仙太子碑』が有名であり、「千古美文」と呼ばれている。右上の写真はその拓本の断片で、自身の尊号「大周天冊金輪聖神皇帝」の天の字が「」に、聖の字が「」になっている。河南省新安県鉄門鎮にある『千唐志斎碑刻』には、則天文字が数多く書かれている。後世の南漢建国主君である劉巌は武則天を真似て、自分の名を表す文字「」(音:Yǎn, 注音符号:ㄧㄢˇ)を創作した。この字は「天を飛ぶ龍」を表している。現代中国では簡体字「 ()」として書かれる。近年では、漢字を使用する各国いずれとも則天文字が日常使用されることはまれである。『昇仙太子碑』(しょうせんたいしひ)の建碑は聖暦2年(699年)。武則天は国を周と号したことから古代の周の太子の廟を修復し、これを記念して自ら撰文し、自ら書し、建碑した。碑石は426cm×160cmと非常に大きな立派な碑で、河南省偃師市の仙君廟(せんくんびょう)に現存し、保存もよい。碑額は飛白体で、「昇仙太子之碑」の6字を2行で入れ、碑文の33行は行草体で書かれている。ただし、首行の「大周天冊金輪聖神皇帝御製御書」と末行の「聖暦二年歳次己亥六月甲申朔十九日壬寅建」だけが楷書体で、この楷書部分だけは薛稷によって書かれていることが碑陰の書刻によって知られている。この碑は、碑文に草書を用いた碑として、また女性の書碑として最初のものである。碑文に行書を用いた最初の碑は太宗の『晋祠銘』であり、この『晋祠銘』の碑額も飛白体で書かれていることから、これを意識してのことと考えられる。武則天の書は、太宗の影響を受けて堂々たるものであり、同じく太宗を学んだ高宗の書よりも遒勁である。比田井南谷は武則天の書について、「よく古典を習って、筆力もあり、実力はかなり評価すべきであるが、結体・用筆ともに変化に乏しく、技巧的な表現に留まっている。また俗な性格を表現しているので格調が下がり、通俗的なおもしろさの範囲を出るものではない。(趣意)」と述べている。
出典:wikipedia
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