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高麗茶碗

高麗茶碗(こうらいちゃわん)は、16世紀半ば頃から、日本の茶道で用いられた茶碗の分類の一つであり、朝鮮半島で焼かれた日常雑器を日本の茶人が賞玩し茶器に見立てたものである。高麗茶碗の「高麗」とは「朝鮮渡来」の意であり、「高麗茶碗」と称されるもののほとんどは高麗時代ではなく、朝鮮王朝時代の製品である。日本の茶道は室町時代の「書院の茶」からわび・さびを重んじる「草庵の茶」へと変化していった。その過程で茶器も唐物(中国製)中心から高麗物(朝鮮半島製)、和物(日本製)がよしとされるように価値観が変わっていった。もともと日用雑器として作られた「高麗茶碗」は、こうして茶器として取り上げられるようになった。16世紀以来日本茶道で用いられた唐物茶器の多くは、天目、珠光青磁、唐物茶入、呂宋(るそん)茶壺や呂宋茶碗など、主に中国南部の民窯で焼かれた非主流的なもので、中国本土で流行していた白磁や青磁、青花(染付)などではなかった。むろん後者のような磁器類も日本へ大量に輸入され、中・近世の遺跡から多くの陶片が出土している。渡来陶磁器の大部分は中国や東南アジアのもので、わずかに朝鮮の青磁や粉青沙器もみうけられるが、特に重んじられた形跡はない。唐物茶器はこんにちでも窯跡が明らかでないような、したがって当時としても陶磁界の主流でない珍奇なものが日本人独自の視点で捜し求められたといっていい。そして、日本国内でもその「写し」がつくられるなどした。「高麗茶碗」の文献上の初見は『松屋会記』で、天文6年(1537年)、十四屋宗伍の茶会で「高ライ茶碗」が使用されたと見える。1580年には千利休が珍品を求め、京都の瓦師・樂長次郎らにつくらせた「ハタ(縁の部分)ノ反リタル茶碗」「ゆがミ茶碗」を、1584年には「ひづミたるかうらい(高麗)」を茶会に用いた。このことから利休の高麗茶碗趣味はもとは樂焼趣味から生じたともいわれる。なお、この趣味はのちに瀬戸や志野、古唐津趣味へと継承されている。天正16年(1588年)の『山上宗二記』には、「唐茶碗はすたれ、当世は高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼茶碗がよい」という意味の記述がある。ここで言う「瀬戸茶碗」は今日の美濃焼、今焼茶碗は楽茶碗に相当すると考えられている。ここには、中国の官窯の磁器のように器形、文様ともに整ったものよりも、作為のないもの、ゆがんだものをよしとする美意識の転換がみられる。なお、朝鮮半島では、朝鮮陶磁は中国陶磁と同様に高い技術をもって精緻に作られたものがその主流である、日本でいう高麗茶碗の趣味は主流ではないといわれる。高麗茶碗を日本の茶道では以下のように分類している。「井戸」のように15 - 16世紀の朝鮮王朝時代の日常雑器だったものと、「御所丸」のように日本からの注文で作られたものとがある。古来高麗茶碗の最高峰とされるもので、「竹の節高台」と称される高い高台をもつ。いわゆる上手物(じょうてもの)とは程遠い、日常雑器の茶碗に過ぎないが、いかにも侘び茶にふさわしい素朴で力強い味わいがある。釉は枇杷色と称される。高台付近は強度の貫入でひどく爛れ縮れている。これをカイラギ(梅花皮)といい独特の見所とされている。文献上は『宗及茶湯日記』に天正6年(1578年)、藪内宗和の茶会で用いられたとあるのが初見である。「井戸」の名の由来は諸説あるが、単純に「井戸のように深い茶碗」の意とする説が有力である。落語「井戸の茶碗」にあらわれる。白磁風の茶碗で、陶質の胎土に白土を掛けた上に透明釉などを施したもの。朝鮮には日本のような茶道の風習はなく、茶碗と言ってもそれは日本での呼称に過ぎない。19世紀に訪れた外国人は朝鮮に喫茶の風習がほとんどなく、有力者が中国産の茶を僅かに飲む程度であったと口をそろえて書き残している。いくつかはこんにち「韓定食」でみられるような小ぶりの食器であったり、酢注ぎのような調味料入れの小鉢だったとみられるものが多くある。

出典:wikipedia

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