松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。1787年から1793年まで寛政の改革を行った。宝暦8年12月27日(単純な換算で宝暦8年は1758年になるが、グレゴリオ歴では既に新年を迎えており、1759年である。)、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として生まれる。実際の生まれは12月26日の亥の半刻(午後10時ころ)であったが、田安徳川家の系譜では27日とされ、また「田藩事実」では12月28日とされている。宝暦9年(1759年)1月9日に幼名・賢丸(まさまる)と命名された。生母は香詮院殿(山村氏・とや)で、生母の実家は尾張藩の家臣として木曾を支配しつつ、幕府から木曾にある福島関所を預かってきた。とやの祖父は山村家の分家で京都の公家である近衛家に仕える山村三安で、子の山村三演は采女と称して本家の厄介となった。とやは三演の娘で、本家の山村良啓の養女となる。宗武の正室は近衛家の出身であるため、とやも田安徳川家に仕えて宗武の寵愛を受けた。定信は側室の子(庶子)であったが、宗武の男子は長男から四男までが早世し、正室の五男である徳川治察が嫡子になっていたため、同母兄の六男・松平定国と1歳年下の定信は後に正室である御簾中近衛氏(宝蓮院殿)が養母となった。宝暦12年(1762年)2月12日、田安屋敷が焼失したため、江戸城本丸に一時居住する事を許された。宝暦13年(1763年)、6歳のときに病にかかり危篤状態となったが、治療により一命を取り留めた。しかし定信は幼少期は多病だった。幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄の治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継と目されていたとされる。しかし、田沼意次による政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれており、意次の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済によって、安永3年(1774年)に久松松平家の庶流で陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子とされた。白河藩の養子になった後もしばらくは田安屋敷で居住しており、同年9月8日(実際は8月28日)の治察の死去により田安家の後継が不在となったおりに養子の解消を願い出たが許されず、田安家は十数年にわたり当主不在となった。一時期は将軍世子とまで言われた定信は、このことにより意次を激しく憎み、後に暗殺を謀ったとまで言われる一方で、自らも幕閣入りを狙って、意次に賄賂を贈っていたことは、有名な逸話である。ただし、定信が白河藩の養子となった当時は、家治の世子の家基が健在で、この時点では定信が将軍後継になる可能性は絶無であり、かつ御三卿は庶子だけでなく世子や当主ですら他大名家への養子へ送り出されることが多かったため、定信の将軍世子候補の件は後世の付託の可能性がある。同じ久松松平家の伊予松山藩主・松平定静が、田安家から定信の実兄・定国を養子に迎えて溜詰に昇格していたため、定邦も溜詰という家格の上昇を目論んで定信を養子に迎えた。家督相続後、定信は幕閣に家格上昇を積極的に働きかける。ただし、実現したのは老中を解任された後であった。天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となり、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして天明の打ちこわしを期に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。老中職には譜代大名が就任するのが江戸幕府の不文律である。確かに白河藩主・久松松平家は譜代大名であり、定信はそこに養子に入ったのでこの原則には反しない。家康の直系子孫で大名に取り立てられた者以外は親藩には列せられず、家康の直系子孫以外の男系親族である大名は、原則として譜代大名とされる。しかし、定信は吉宗の孫だったため、譜代大名でありながら親藩(御家門)に準じる扱いという玉虫色の待遇だったので、混乱を招きやすい。前任者である田沼意次の重商主義政策と役人と商家による縁故中心の利権賄賂政治から、飢饉対策や、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への学問吟味政策などで一応の成果をあげたものの、老中就任当初から大田南畝により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄された。また幕府のみならず様々な方面から批判が続出し、下記の尊号一件事件も絡み僅か6年で老中を失脚することとなった。一方で、『海国兵談』を著して国防の危機を説いた林子平らを処士横断の禁で処罰したり、田沼時代の蝦夷地開拓政策を放棄したり、寛政異学の禁、幕府の学問所である昌平坂学問所で正学以外を排除、蘭学を排除するなど、結果として幕府の海外に対する備えを怠らせたという見方もある。しかし実際には、寛政の三博士の1人たる古賀精里の子・侗庵及びその子・茶渓ともに昌平黌に奉職しながら洋学・国際情勢にも通じ、特に茶渓は、蕃書調所設立を建白し実現させた人物であり、その見方は一面的といわざるを得ない。ヨーロッパでは、1792年4月20日にフランスがオーストリアに宣戦布告してフランス革命戦争が勃発すると、フランスの隣に位置するオーストリア領ネーデルラントも戦場となった。このことは、極東の千島でオランダ東インド会社が1643年に領土宣言をして以来、長崎との南北二極で日本列島を挟み他の欧米諸国を寄せ付けなかったオランダの海軍力が手薄になったことを意味した。するとロシアが南下を開始し、1792年9月3日、日本人漂流民である大黒屋光太夫らの返還と交換に日本との通商を求めるのアダム・ラクスマンが根室に来航した。翌1793年、オランダの戦況はフランス軍による制圧の様相がますます強まり、フランス革命戦争はヨーロッパ全域に波及する勢いで広がっていた。寛政5年(1793年)6月20日、定信は、光太夫とラクスマン一行を松前に招き、幕府として交渉に応ずるよう指示した。さらに、ロシアの貿易の要求を拒否しない形で、長崎のオランダ商館と交渉するようにという回答を用意し、また、光太夫を引き取るよう指示した。同年6月30日、ラクスマンは長崎へは行かずに帰路に就いた。対外政策は緊迫した状況にあり、もしオランダがフランスに占領された場合、ロシアが江戸に乗り込んで来る可能性があり、あるいは千島領やオランダ商館の権利がフランスに移る可能性、またイギリスが乗り込んで来て三つ巴の戦場となる可能性があった。定信は江戸湾などの海防強化を提案し、また朝鮮通信使の接待の縮小などにも努めた。7月23日、定信は、海防のために出張中、辞職を命じられて老中首座並びに将軍補佐の職を辞した。定信辞任の2ヵ月後の9月、鎖国の禁を破った罪人であるはずの大黒屋光太夫は処刑を免れて江戸城で将軍家斉に謁見し、蘭学者たちは翌年11月11日(1795年1月1日)からオランダ正月を開始し、光太夫も出席した。定信の辞任はキリスト教国からの帰国を許し、蘭学者勢力の隆盛をもたらした。一方で国外では、オランダ正月を祝った月に、オランダ共和国が滅亡し、代わってフランスの衛星国「バタヴィア共和国」が建国を宣言した。そして1797年、オランダ東インド会社はアメリカ船と傭船契約を結び、滅亡したオランダの国旗を掲げさせて長崎での貿易を継続することになった。しかし、1799年にオランダ東インド会社も解散した。雇い主を失ったオランダ商館は、なおもオランダ国旗を掲げさせたアメリカ船と貿易を続けた。しかし、定信の辞任は尊号一件が原因と言われることが多い。大政委任論では朝廷の権威を幕政に利用するが、光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとすると朱子学を奉じていた定信は反対し、この尊号一件を契機に、父である治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていた将軍・家斉とも対立していた。定信引退後の幕府は、三河吉田藩主・松平信明、越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中はそのまま留任し、その政策を引き継いだので、彼らは寛政の遺老と呼ばれた。定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。老中失脚後の定信は、白河藩の藩政に専念する。白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。また、民政にも尽力し、白河藩では名君として慕われたという。定信の政策の主眼は農村人口の維持とその生産性の向上であり、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し、殖産に励んだ。ところが、寛政の改革の折に定信が提唱した江戸湾警備が文化7年(1810年)に実施に移されることになり、最初の駐屯は主唱者とされた定信の白河藩に命じられることとなった。これが白河藩の財政を圧迫した。文化9年(1812年)、家督を長男の定永に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は掌握していた。定永時代に行なわれた久松松平家の旧領である伊勢桑名藩への領地替えは、定信の要望により行われたものとされている。桑名には良港があったため、これが目当てだったと云われている。ただし異説として、前述の江戸湾警備による財政悪化に耐え切れなくなった定永が、江戸湾岸の下総佐倉藩への転封によってこれを軽減しようと図ったために、佐倉藩主・堀田正愛やその一族である若年寄・堀田正敦との対立を起こし、懲罰的転封を受けたとする説もある。文政12年(1829年)の1月下旬から風邪をひき、2月3日には高熱を発した。3月21日には神田佐久間町河岸から出火し、火が日本橋から芝まで広がり、多数の建物が焼失し2800余人の焼死者が出たが、松平家の八丁堀の上屋敷や築地の下屋敷である浴恩園、さらに中屋敷も類焼したため、定信は避難する事となるが、避難する際に定信は屋根と簾が付いた大きな駕籠に乗せられ、寝たまま搬送されたため、道が塞がって民衆が迷惑したという。さらにこの時、松平家の家人が邪魔な町人を斬り殺したという噂が世上に流布した。この時の大火に関する落首や落書があり、「越中(定信)が、抜身で逃る、其跡へ、かはをかぶつて、逃る越前(福井藩のことで、福井藩にも町人を斬り殺した噂が流布していた)」「ふんどしと、かはかぶりが、大かぶり」と無届の一枚刷りによって多数刊行された。これは寛政の改革の際に出版統制を行なった定信に対する業界の復讐であったとされる。屋敷の焼失により、定信は同族の伊予松山藩の上屋敷に避難したが、手狭のため4月18日に松山藩の三田の中屋敷に移った。この仮屋敷の中で病床にあった定信は家臣らと歌会を開き、嫡子の定永と藩政に関して語り合った。一時は回復の兆しも見せたが、5月13日の八つ時(午後2時)頃から呻き声をあげ始め、七つ時頃(申の刻、午後4時)に医師が診察する中で、急に脈拍が変わり、死去した。享年72。辞世は「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」墓地は東京都江東区白河の霊巌寺にある。※明治時代を除き日付は旧暦。
出典:wikipedia
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