李 信(り しん、生没年不詳)は、中国戦国時代から秦代にかけての秦の武将である。紀元前229年~紀元前228年、王翦が数十万の軍を率いて趙と対峙している時、李信は趙の太原、雲中に出征していた。紀元前226年、王翦と王賁は、前年の燕の太子丹が主導した荊軻による秦王政(後の始皇帝)暗殺未遂事件の報復として、燕都・薊を攻略し、燕王喜と太子丹を遼東に敗走させた(燕の事実上の滅亡)。この際、李信は、約1000の兵を率いて燕軍を追撃し、太子丹を討ち取った。紀元前225年、秦王政は、楚を征服したいと思い、対楚戦にどれだけの部隊が必要かを諮問した。李信は、「20万」が必要だと語った。一方で王翦は、「60万」が必要だと語った。秦王は、王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用して侵攻を命じた。李信は総兵数20万を二つの部隊に分け、李信は平輿で、蒙恬は寝丘で楚軍に大勝した。さらに、李信と蒙恬は、郢周辺を攻め、再び楚軍を破る。しかし、城父で李信と蒙恬が合流した所を、三日三晩追跡して来た項燕率いる楚軍に奇襲され、2カ所の塁壁を破られ7人の将校を失う大敗を喫した。そのため、王翦と交代させられた。なお、翌年、王翦と蒙武が60万の兵を率いて楚を攻め、楚王負芻を捕虜にし、楚を滅亡させた。紀元前222年、王賁と共に燕の遼東を攻め、燕王喜を捕虜とし、これを滅ぼした。さらに、代(趙の滅亡後に趙の王族が代に逃れて樹立した政権)を攻め、代王嘉を捕え、代を滅ぼした。紀元前221年、王賁と蒙恬と共に斉を攻め、これを滅ぼした。新唐書の表第十には李信の子が李超。その子が2人で、弟が李仲翔。その子が李伯考。その子が李尚。その子が李広とある。この家系から五胡十六国時代の西涼を建国した李暠へつながりさらにこの子孫が、唐を建国した李淵ということになっている(この記録がどこから出てきたのかは謎である。家系図は李淵を名門の出身に仕立て上げるために作成されたものだろうという史家もいる)。この記録を信用するならば、李信は秦の大将軍で隴西侯。李超は漢の大将軍で漁陽太守。陳勝・呉広の乱から秦滅亡時、楚漢戦争の時にこの家系が何をしていたかは不明。その時代これ程の家系なのに何故李家は歴史の表舞台に出てこなかったのか謎で記録が無い。まだ李信が生存していたか、子の李超がどのような経緯で漢の大将軍になれたかも不明である。対楚戦の失敗後も粛清されず、また子孫が残っていることからも秦王政より一応の信用は得ていたと考えられる。子孫に前漢時代の将軍・李広がおり、その孫が李陵である。五胡十六国時代に西涼を建国した李暠は李広の子孫を称し、その9代の孫が唐代の詩人・李白であると伝わる。焚書坑儒と、項羽の咸陽への放火でこの時代の史書の多くが紛失した。現在は、司馬遷がまとめた『史記』以外の史料はほぼ散逸して分からない事が多い。李信に関しては、個人の列伝が立てられていないため、王翦列伝などから記録を取り出すか新唐書位しか情報が無く謎の多い人物である。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。