野呂 邦暢(のろ くにのぶ、1937年(昭和12年)9月20日 - 1980年(昭和55年)5月7日)は、日本の小説家。長崎県長崎市出身。本名は納所邦暢。自らの自衛隊体験や、戦後住んだ諫早市を舞台にした小説・随筆を数多く残した長崎市岩川町に土建業を営む両親のもとに、6人兄弟の次男として生まれる。1945年銭座国民学校2年の時に父が応召したため、母の実家で祖母と叔父の住む諫早市に疎開。長崎の原爆投下で爆発を目撃、この被害により長崎市に残した家財一切を失い、戦後も諫早に住む。1950年北諫早中学校に入学。1953年諫早高校に入学し、美術部に入部、文学や芸術一般に興味を持つ。1956年京都大学文学部を受験するが失敗し、予備校に通うために京都市に下宿するが、父が事業に失敗し入院したため帰郷。その秋に東京に出て、上野近くのガソリンスタンドの店員となり、その後喫茶店やラーメン屋など職を転々とする。体を壊して帰郷し、1957年に佐世保陸上自衛隊入隊。7月に諫早大水害が起きたために3日の休暇をもらって自宅に帰ると、氾濫した本明川沿いにあった自宅は全壊していた。訓練の後に北海道千歳に配属され、1958年に除隊し諫早に帰郷、家庭教師などで生計を立て、この頃諫早生まれの詩人伊東静雄に影響を受け、詩作を試みる。1962年に『日本読書新聞』20周年記念論文に応募し、ルポタージュ「兵士の報酬-第八教育隊」が入選し、新聞に掲載される。その後小説を書き始め、1964年『自由』誌に短編「双頭の鷲のもとに」を応募するが入選せず。1965年に『日本読書新聞』に岡村昭彦『南ベトナム従軍記』の書評が掲載、「ある男の故郷」にて第21回文學界新人賞佳作となり小説家デビュー。1966年に「双頭の鷲のもとに」を原型とした「壁の絵」を発表し、芥川賞候補となる。1967年に「白桃」で芥川賞候補。1968年発表の「十一月」が、『毎日新聞』文芸時評で平野謙によりその年のベスト3に挙げられた。1969年諫早市の成人大学で文学講座を担当。1970年鎮西短期大学で文学講座を担当。1971年結婚、この頃NHK福岡放送局のラジオドラマの原作を書いていた。1972年芥川賞候補。1973年に最初の作品集『十一月 水晶』刊行、「鳥たちの河口」で芥川賞候補、伊東静雄を偲ぶ菜の花忌で講演、長崎大学付属病院で胆嚢の手術を受ける。また「諫早の自然を守る会」の代表となり、諫早湾干拓事業に反対の立場を示す。1973年に自らの自衛隊員としての体験を基にした作品『草のつるぎ』が文芸誌『文學界』12月号に掲載され、この作品で翌1974年(昭和49年)第70回芥川賞受賞。歴史にも関心を持ち、『諫早菖蒲日記』(1977年)などの歴史小説、また集英社コバルトシリーズで少女小説『文彦のたたかい』(1978年)などを執筆。1979年に離婚。1980年、心筋梗塞により42歳で急死した。諫早市金谷町公有墓地の納所家の墓に埋葬される。毎年5月最終日曜日には、野呂を偲び、諌早市上山公園の文学碑の前で「菖蒲忌」が行われる。1952年15歳の頃から太平洋戦争の戦記を蒐集し始め、1975年から自衛隊員向け会誌『修親』に『失われた兵士たち-戦争文学試論』を連載、唯一の評論となっている。6000冊の蔵書や自筆原稿は母親から諫早市に寄贈された。1986年に諫早上山公園に野呂邦暢文学碑が建立される。2001年には新諫早図書館に「野呂邦暢ー人と文学」常設展示コーナーが設置された。なお、芥川受賞作『草のつるぎ』の直筆原稿は没後に古書店を転々としていたが、2014年に長崎県立長崎図書館が購入し所蔵している。
出典:wikipedia
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