南部 利敬(なんぶ としたか)は、陸奥盛岡藩の第10代藩主。第9代藩主・南部利正の次男。天明2年9月29日(1782年11月4日)出生。天明4年(1784年)、2歳で父の死により家督を相続したが、幼年過ぎて末期養子の禁に抵触しての改易や減俸を恐れたためか、幕府には安永8年(1779年)生まれとして届出をしている。藩政初期は大いに荒れており、先々代の飢饉の影響と、この時期に起きた天明の大飢饉によって領内で多数の死者が出ていた。文化5年(1808年)に蝦夷警護の功績により盛岡藩は10万石から20万石(実高はそれ以上である)に昇格し、従四位侍従に叙任された。なお、同年に司法機関にあたる評定所を設置し、法典の『文化律』を制定する。文化14年(1817年)には南部藩を盛岡藩に改称する。文政元年(1818年)に重臣の八戸弥六郎、中野筑後、北九兵衛、南彦八郎、東勘解由に南部姓を称するのを許可し、同2年(1819年)には一族で旗本寄合席の南部信鄰に内分高を与えて(内分分知)大名にし、七戸藩として立藩させる。利敬は親政後は、重臣よりも大小役人を多く登用したため、門閥重臣層が不満を持つようになる。文政3年(1820年)に死去した。嗣子がなかったため、文化10年(1813年)に養嗣子にしていた利用が後を継ぐと、門閥重臣層の巻き返しが行われた。文化14年の江戸武鑑で見られる主要家臣は以下のとおり。八戸弥六郎、中野筑後、北監物東勘解由、新渡戸丹波、毛馬内蔵人、八戸淡路、藤枝宮内、楢山大和、南彦八郎、桜庭兵庫、下田将監、奥瀬内記、毛馬内近江、野田豊後切田辺、勝木藤蔵、黒川司、佐藤靱負、白石環、玉山直人、安宅登、長山蔵太加島舎(定府)、加島七五郎(定府)梅内忠次郎
出典:wikipedia
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