南部 信真(なんぶ のぶまさ、安永9年2月1日(1780年3月6日) - 弘化3年12月29日(1847年2月14日))は、陸奥八戸藩の第8代藩主。第6代藩主・南部信依の三男として江戸にて生まれる。幼名は安吉のちに主水、左衛門尉。母は鈴木幸右衛門の娘、織瀬。正室は小田原藩主・大久保忠顕の娘。側室に貴子がいる。生年は安永7年(1778年)とも。寛政8年(1796年)、兄・信房の隠居により藩主に就任。野村軍記を登用し、藩の財政改革に取り組む。長男・信経、次男・信一が相次いで夭折したため、信順を養子に迎え、天保13年(1842年)に隠居した。このほか、四男・忠文、五男・真勝、娘(市橋長富正室)、娘(植村家貴正室)、鶴姫(南部信順正室)がいる。弘化3年(1846年)死去。信真は野村軍記を「御主法替主任」に任じ、歴代藩主の中でも徹底した藩政改革を行った。最初は八戸藩の産物であった大豆を藩で強制的に買い上げる一方で、年貢を厳しく取り立てる方策を取った。さらに領内産物の藩の独占を狙い、領内産物の取引額では随一であった七崎屋に対して、使用人が藩の封印を破ったことを口実に取り潰すなどの強硬策に出た。藩財政は好転を見せるが、こうした強権的ともとれる政策は領民の反発を招く結果となる。天保の大飢饉をきっかけに天保5年(1834年)に発生した久慈・軽米通 稗三合一揆によって、野村軍記が責任を負う形で失脚した。
出典:wikipedia
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