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藤丸

株式会社藤丸(ふじまる)は、北海道帯広市にある日本の百貨店である。全日本デパートメントストアーズ開発機構の加盟店。地元十勝地区では「藤丸さん」と呼ばれて親しまれている。富山県の養蚕農家出身の初代・藤本長蔵(1873年(明治6年)-1945年(昭和20年))が1897年(明治30年)に呉服太物類(反物)やニシンの行商で下帯広村(現帯広市)を訪れ、船の転覆で全財産を失ったものの、その活況ぶりに注目して移住を決意し、同年11月に下帯広村(現帯広市)大通六の借家に呉服太物類(反物)を扱う店を開いたのが始まりである。翌年1901年(明治34年)には木造平屋建ての自前の店舗を開いたが、1902年(明治35年)に知人に貸した1000円が貸倒れになって仕入れ資金にもことを欠くようになったため、再び故郷の富山で資金を集め、1900年(明治33年)8月に北越呉服を設立し、11月には店員を雇って営業を再開させた。東京や大阪から古着や古毛布などを仕入れて販売し、1915年(大正4年)には故郷の富山から瓦を取り寄せて大通五の店を土蔵造り2階建ての道内有数の規模に改築できるまで成功した。1919年(大正8年)2月に当時の繁華街から外れた裁判所跡地だった現店舗の土地(西2条南8丁目)を高額で購入して周囲を驚かせ、1930年(昭和5年)にはその土地に十勝初のエレベーターを備えた木造一部鉄筋コンクリート四階建て約2,640m²の店舗を建設して百貨店を開業し、人口わずか2.8万人の帯広町で昭和初期の不況のさなかという悪条件にもかかわらず呉服店から百貨店経営に切替えて軌道に乗せることに成功した。この初代店舗は1階雑貨と食料品の売り場に手荷物預かり所とトイレ、2階には呉服類の売り場と休憩所、3階には洋服と和洋小間物類の売り場と大食堂、4階には貴金属・家具類売り場と理髪美容室のほかに大ホールという店舗構成であった。第2次世界大戦の終戦後の食糧難の時代には日用品交換所を開設して衣料品と貴重な砂糖などを交換する人たちでにぎわった。初代・藤本長蔵の死を受けて、二代目・藤本長蔵(1897年(明治30年)-1990年(平成2年))を襲名した孫信は1949年(昭和24年)に社長に就任すると、翌年1950年(昭和25年)に現在の社名である株式会社藤丸に改称し、1961年(昭和36年)に西2条南9丁目に新館を建設して移転させて拡張し、1965年(昭和40年)には売場面積5,126m²で売上高13.8億円を上げて人口の多い小樽の丸井今井や大国屋、旭川の丸勝松村などを上回るほどまでに成長させた。3代目の社長となった藤本善雄(1924年(大正13年)-1987年(昭和62年))は百貨店を創業した跡地を中心とする市街地再開発事業に参画して1982年(昭和57年)に「ふじまるビル」を作って現在の店舗を完成させて規模拡大を図り、4代目社長の藤本長章が引継いだ後の1997年(平成9年)には年商143.83億円を上げるまでに成長させたが、バブル崩壊後の不況や郊外型の大型店などとの競合に伴う中心市街地の空洞化で年々売上は減少し、2000年(平成12年)には年商121.38億円、2009年(平成21年)には年商約79億円、2010年(平成22年)には年商約77億円と落ち込んでピークから半減してしまっているが、3年間の再生計画を実行中の2007年(平成19年)と2008年(平成20年)には連続して黒字を計上するなど経営努力を重ねている。店舗周辺の商店街と連携して夏に歩行者天国を開いたり、十勝ブランド商品の発掘を行うなど従来からの十勝地方での地域密着の営業戦略に加え、オホーツク物産展の開催など道東一円の物産の紹介を目指している。2006年(平成18年)8月に丸井今井釧路店が閉店したため買い物客が増えつつあった釧路市周辺の顧客を取り込もうと専務山田章男の発案で2008年(平成20年)3月1日に初めて釧路から店舗まで送迎する当時全国的にも珍しかった買い物ツアーバスという長距離の送迎バスを運行したところ、100人の予定を大幅に上回るほど申込みが殺到し、急遽バスを10台に増やして350人を送迎したのが始まりである。その成功を受けて、2007年(平成19年)10月にきたみ東急百貨店が閉店した北見市や、網走市、中標津町にも拡大し、丸井今井やきたみ東急百貨店の閉店後、道東(北海道東部)では唯一の百貨店として全域から集客するのに成功している。この買い物ツアーバスの大成功が切っ掛けとなり、大丸札幌店や西武百貨店旭川店も北見市からの同様の買い物ツアーバスを運行したり、逆に大丸が北見市で出張販売を行うなどのような百貨店が撤退した百貨店空白地の需要を狙う営業戦略に道内各地の百貨店が取り組むようになっている。初代店舗の大ホールでは絵画展・写真展・生け花展・書道展・菊花展・盆栽展などの各種の文化催事が行われており、帯広地区の文化に大きな影響を与えたとされている。1982年(昭和57年)3月の三代目店舗の開業と共に7階に設置された展示空間で、1985年(昭和60年)に開催されて北海道立帯広美術館の誘致活動の一端にもなった「ミレーとバルビゾンの森の画家たち」展等の美術展のほか、「植村直己冒険の軌跡展」や「帯広小学校90周年回顧展」等の博物館的なものを含めて多数の展覧会が開催された。美術館・博物館代わりの展覧会のほかにも、クリスマスイベントや人気キャラクターのコレクションを集めたフェスティバル等の手作りイベント、地元の趣味のサークルによる発表の場等として利用された。こうした活動が評価され、1999年(平成11年)度の北海道地域文化選奨特別賞企業市民文化賞を2000年(平成12年)1月に受賞している。2006年(平成18年)10月1日に8階に帯広市市民活動交流センターが開設されたことに伴い、8階にあった催事場が閉鎖され、カルチャーホールが物販関連の催事場と併用されることになったため、利用制限を受けた地元の文化団体が代替施設となる「市民ギャラリー」の設置を求めた。1945年(昭和20年) 12月15日、帯広で発行された文芸誌「凍原」の創刊前にウインドーに「原稿募集・創刊近し」とポスターを掲げるなど当初から支援を行い、その後店舗2階に発行元の「凍原社」に事務所を構えさせた。この「凍原社」は「凍原」のほかタブロイド判の文芸新聞「とうげん」、「凍原文庫」の開設など文芸関連のみならず、音楽会や美術展などの開催から演劇研究会など幅広い文化活動を展開した。「凍原」を改題する形で1947年(昭和22年)6月と10月の2号を発行した北海文学社の「北海文学」では、後に当社の社長となった藤本善雄が発行人を務めていた。3代目店舗への移転に際して、北海道拓殖銀行が3代目店舗の建設地に保有していた土地と交換する形で2代目店舗跡のビルを取得して帯広支店となり、同行の経営破たんに伴って1998年(平成10年)11月からは帯広北洋ビルとして北洋銀行帯広中央支店として利用されていた。しかし、老朽化が進んだため北洋銀行帯広中央支店が2011年(平成23年)5月に帯広駅北側のオフィスビルに移転し、同年9月15日から解体が始められることになった。解体後の跡地は地元の医療法人社団博愛会に売却され、診療所と介護施設、高齢者向け住宅、エステなどを組み合わせたビルの建設が計画されている。国道38号沿いの幕別町札内共栄町164に太平洋建設工業帯広工場とその周辺約58,000m²の敷地に当社の運営する百貨店と関連会社フジトモの運営する食品スーパーや専門店などの入る2階建て店舗面積約18,500m²の本館と平屋建て店舗面積約3,300m²の別棟に約1,600台収容の駐車場を併設するショッピングセンターを開設する計画を立てていたが、用地買収が困難となり断念した。その後第2札内橋の幕別側の西和地区の農地約150,000m²の敷地に進出する計画が浮上したが、2000年(平成12年)7月に出店を断念した。1962年(昭和37年)に当社初代店舗建物を活用して食品スーパーを開店したのが始まりで、帯広市西18条南4丁目の西18条店や音更町木野大通西17に1994年(平成6年)3月に開店したスーパーセンターOKを運営していた。地元十勝の人に「藤丸さん」と呼ばれて親しまれてきた伝統を背景に、若い頃に勤務していたOGが作詞した曲「藤丸で逢いましょう」を主婦ら約100人が2010年(平成22年)3月に合唱したほか、2007年(平成19年)には藤丸ファンの市民グループが結成されて、ボランティアでカタログ送付などを手伝い始めるなど熱心な一般市民のファンによる支援活動が行われている。

出典:wikipedia

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