吉田 麻也(よしだ まや、1988年8月24日 - )は、長崎県長崎市出身のプロサッカー選手。プレミアリーグ・サウサンプトンFC所属。ポジションはディフェンダー(センターバック)。日本代表。「麻のように揉まれれば揉まれるほど強い男になってほしい」という両親の想いで「麻也」と名付けられる。小学校2年生のとき、地元長崎市の南陵FCでサッカーを始める。小学校6年生の時に兄が見つけた名古屋グランパスのユースセレクションを、家族で名古屋を訪れるついでに受験。家族はもとより本人も合格すると思っていなかったが合格したため、愛知県みよし市に移住(受験者70人中合格は4人であった)。その後、近隣の豊田高校普通科に進学。在学中にユース(U-18)の日本代表に選ばれたため校内でも有名な存在となり、女子たちからは大変モテて黄色い声援を送られた。また、この時代はキャプテンを務め、選手としてもボランチとして攻守にわたって支える、チームの要といえる存在であった。2006年の全日本ユースではチームを牽引して準優勝に導き、2007年に長谷川徹、福島新太、新川織部とともにトップチームに昇格した。高校卒業後の2007年に早稲田大学人間科学部通信課程に入学している。2007年シーズン開幕前、古賀正紘・秋田豊・角田誠等が退団し、層が薄くなったセンターバックにコンバートされ、第9節大分トリニータ戦で初出場を果たした。19試合に出場。2008年シーズン、就任したストイコビッチ監督の信頼を受けて序盤はバヤリツァとともにセンターバックのレギュラーとしてチームを支えた。7月14日には北京五輪代表に選出。グランパスではシドニー五輪にオーバーエイジ枠で出場した楢崎正剛を除けば初のU-23日本代表への選出であった。出場は敗退決定後のグループリーグ第3戦オランダ戦だけであったが、マッチアップしたFWロイ・マカーイと互角に渡り合った。五輪招集により一時的にレギュラーから外れたものの、22試合に出場。第22節鹿島アントラーズ戦では初得点も挙げた。シーズン終盤には、決定力不足を補うために高さを生かしてFWとして起用されることもあった。2009年シーズンは退団した大森征之から背番号4を受け継ぐ。25試合に出場し、名古屋DFの軸として活躍した。12月21日には、既に予選突破を決めており若手中心のメンバーで臨む方針だったアジアカップ最終予選・イエメン戦に向けたA代表に初招集され、この試合でA代表デビュー。シーズン終了後の12月28日にオファーを受けたオランダのVVVフェンローへ完全移籍。フェンロに移籍して間もない1月10日のMVVマーストリヒトとの練習試合で左足首を骨折し、09-10シーズンは出場がなかった。新シーズンより背番号を28から3に変更。2010年10月30日の対FCフローニンゲン戦の後半途中から出場し、これがオランダでのデビュー戦となった。試合は3-5で敗れたが、初アシストを記録した。しかし、シーズンを通してレギュラーに定着きれず20試合の出場に終わった。2011年9月11日に行われたリーグ第5節PSVアイントホーフェン戦ではジャンピングボレーで一時勝ち越しとなるゴールを決めた。このゴールはオランダ放送協会(NOS)で放映されているサッカー情報番組「NOS Studio Sport()」において視聴者投票による「シーズンベストゴール」第1位となった。2012年3月3日、リーグ第24節NACブレダ戦ではチームメイトのカレン・ロバートとのアベックゴールにより2-1で勝利を収めた。この年は初めてシーズン通してレギュラーとしてプレー。50年ぶりの4連勝も記録し、チーム2位の5得点を挙げて残留に貢献した。2012年8月30日、イングランド・プレミアリーグのサウサンプトンFCへ完全移籍。9月15日のアーセナル戦で途中出場し、プレミアリーグ初出場を果たした。その後もシーズン通してレギュラーの座を確保した。2014年2月22日、プレミアリーグ第27節のウェストハム戦にフル出場してリーグ戦で初ゴールをきめた。しかし、2013-14シーズンは開幕からリーグ戦の出場機会には恵まれず、同年3月には練習中に左ひざ靭帯を損傷し戦線離脱となり、シーズン中に復帰はできなかった。2015年1月2日にサウサンプトンと2018年シーズン終了までの契約延長に合意。2014-15シーズンは本職ではないサイドバックでの起用も増え、ロナルド・クーマン監督からは「違うポジションでもできる選手がいるのは幸運なこと」と称賛された。2015-16シーズンは、2015年9月にフィルジル・ファン・ダイクが新加入した影響でセンターバックとして出場する機会が減った。サイドバックとして出場する機会もあったが、右サイドバックとして出場したプレミアリーグ第6節マンチェスター・ユナイテッド戦と第14節マンチェスター・シティ戦で失点に直結する致命的なミスを犯してしまい、出場機会はさらに減っていった。9戦ぶりに先発出場した第25節ウェストハム戦では決勝点を挙げ、無失点にも貢献するも、その後も出場機会には恵まれなかった。2009年12月21日、若手中心のメンバーで臨む方針だったアジアカップ最終予選・イエメン戦に向けたA代表に初招集され、この試合でA代表デビュー。2010年12月24日、AFCアジアカップ2011に臨む日本代表メンバーに選出。2011年1月9日、グループリーグ第1節・ヨルダン戦の後半アディショナルタイムに代表初得点を記録。2011年9月2日に行われた3次予選第1戦北朝鮮戦(埼玉)の後半アディショナルタイムに決勝点を決め、チームの勝利に貢献した。2012年7月2日、ロンドンオリンピックに出場するU-23日本代表にオーバーエイジ枠として選出され、本大会では守備の要・主将としてチームを牽引。準々決勝のエジプト戦ではセットプレーからゴールを決める活躍を見せたが、準決勝のメキシコ戦と3位決定戦の韓国戦に敗れチームは4位に終わりメダル獲得にはあと一歩届かなかった。2014年5月12日、W杯ブラジル大会の日本代表メンバーに選出された。本大会では全試合スタメンで起用され、試合終盤にはパワープレイ要員として前線に上がったが、いずれも結果には結びつかずチームもグループリーグで敗退した。71||5||8||1||11||3||90||954||5||colspan="2"|-||1||0||55||582||3||7||2||4||0||93||5207||13||15||3||16||3||238||19その他の公式戦|2009||名古屋||4||11||2!通算!!colspan="2"|AFC!通算!!colspan="2"|UEFA|-!通算 今までに書き溜めたブログを文章に直した物や写真に新たに加筆をしたものである。
出典:wikipedia
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