日中関係史(にっちゅうかんけいし)においては、日本と中国大陸にあった歴代の王朝と現在、中国大陸に存在する「中華人民共和国」との関係の歴史を解説する。なお、本項では、台湾にある現在の中華民国との関係についても言及するものとする。日本列島は更新世末期から完新世初期にかけての氷河期の終了に伴う海水の浸入によってユーラシア大陸から切り離されるまでは、同大陸とは地続きであったと考えられている。日本人の祖先にあたる人々の中には、アフリカから現在の中国大陸を経由して渡ってきた人々も含まれているものと見られている。中国の文献に初めて倭国の記述が見られるようになるのは『漢書』における「地理志」の中である。紀元前1世紀ごろの倭は100国あまりの小国分立の状態であり、朝鮮半島にあった楽浪郡に使者を定期的に派遣して貢物を献上していた。また『後漢書』における「東夷伝」は、1 - 2世紀ごろの倭の様子を記している。57年に奴国の使者が洛陽に赴いて後漢の初代皇帝である光武帝から印綬を授けられた。それが、江戸時代に志賀島から発見された「漢委奴國王」と刻まれた倭奴国王印だとされる。また、107年には倭の国王である帥升らが160人の奴隷を安帝に献上した。これらは、後漢と冊封関係にあった小国が、九州北部に存在したことを示している。『三国志』の中の「魏志倭人伝」によると、3世紀ごろの倭の様子は帯方郡の海の向こうに邪馬台国があって内紛状態にあった。しかし、卑弥呼が女王になると祭政一致で国をうまく治めた。239年には、卑弥呼が魏に朝貢して「親魏倭王」が刻まれた金印と銅鏡を授かった。卑弥呼が死んだ後、国は再び乱れたが13歳の壱与を女王にして平安を保った。その後約150年にわたり中国の史書には倭に関する記述がない。4世紀ごろの日本は、大和政権による支配体制が確立した。5世紀に入ると、いわゆる倭の五王(讃・珍・済・興・武)の遣使が行なわれ、各々が南朝の宋に朝貢していたことが『宋書』倭国伝に記してある。6世紀になると、百済から五経博士が渡来して儒教が伝わる。仏教もこの頃に伝わり、崇仏の是非を巡って蘇我氏と物部氏の武力闘争に発展する。589年に北周を継承した隋が魏晋南北朝時代を終わらせると、朝鮮半島経由の間接受容から中華文化の直接受容を画策するようになる。600年に多利思北孤が遣隋使で派遣されたと『隋書』「」には記されているが、『日本書紀』にはこれに関する記述はない。一般的に有名な小野妹子の遣隋使節派遣は607年である。遣隋使は合計5回派遣された。度重なる高句麗遠征に失敗した煬帝が618年に殺害されて中国大陸では混乱状態が続く。しかし、唐の第二代皇帝の李世民によって「貞観の治」が訪れる。630年に遣唐使として犬上御田鍬が派遣された。また、唐からは高表仁が来朝、冊封関係を要求したが朝廷はそれを拒否している。608年の遣隋使派遣に参加しした者たちの帰国が632-640年に実現し、その内の僧旻・高向玄理は中大兄皇子の政治顧問として645年からの大化の改新に貢献した。658年の阿倍比羅夫による蝦夷征伐を経て、朝廷は唐とその冊封関係にあった新羅による侵略で660年に滅亡した百済の復興をめざして唐の水軍と干戈を交えることになるが、663年の白村江の戦いで敗北を喫した。それ以後、朝廷は「安全保障」に目覚め北九州に防人、大宰府に水城をそれぞれ設置する。庚午年籍の作成を命じた天智天皇の皇位継承を巡って672年に壬申の乱が起きて、翌673年に天武天皇が即位すると天皇を中心とした中央集権体制が確立して「皇親政治」の時代が始まる。「武韋の禍」で混乱していた唐との交流は701年から再開、唐への朝貢は続けることで日本という国号が認められ、大宝律令の完成で日本の律令国家体制が確立していく。多くの留学生(るがくしょう)・留学僧を唐に派遣し、唐の先進文化を吸収する一方で緊迫した東アジア情勢を把握することも遣唐使派遣の目的になっていく。唐の開元通宝を手本に和同開珎の鋳造が始まり、平城京は唐の長安を手本に整備された。阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成などが717年の遣唐使に随行し唐の文化を総合的に学ぼうとする態度が見受けられ、唐からは753年に鑑真らが遣唐使船で来朝して天平文化が花開く。しかし、755年に始まった節度使安禄山が蜂起した安史の乱によって8世紀の後半には均田制・租庸調制が崩壊するなど唐の国家財政を圧迫し、両者とも帰国を断念する傾向も生まれたが、804年の遣唐使派遣で随行した最澄・空海は帰国後に日本的な仏教の基礎を作り上げた。また、この頃になると短期で唐へ留学するものも現れたが875年の黄巣の乱で唐が実質的に崩壊すると、菅原道真は894年に遣唐使を廃止する建議を出した。10世紀の日本は藤原氏北家による摂関政治と国風文化が全盛時代を迎えるが、当時の平安貴族の間では白居易の『白氏文集』や『文選』などの漢籍は必須の教養とされていた。遣渤海使が811年に、渤海使が926年に終わると朝廷は対外消極策を採っていく。日本国内では荘園が発達し、地方の乱れが顕著になると武士が頭角を現し始めていった。一方、中国大陸は群雄が割拠する五代十国時代を迎える。960年、後周を引き継いで文治主義的な北宋が建国されたが、朝廷は大宰府を通しての限定的な交流を続けた。私貿易(=密貿易)が博多や敦賀で行なわれるようになっていた。その貿易に目をつけたのが、当時越前守であった平忠盛であった。肥後・美作・播磨の守を歴任してきた忠盛は瀬戸内海の輸送路を掌握し、舶来品を院に進呈し、近臣として認められるようになっていく。1127年の靖康の変で北宋が滅亡すると、華南地方に南宋ができる。1156年の保元の乱と1159年の平治の乱で平氏が台頭すると、平氏政権は開国的な政策をとって日宋貿易を切り開いた。この頃になると大宰府は衰微しており、平忠盛の子である平清盛は摂津の大輪田泊の修築などを行って、日宋貿易を盛んに推進した。この貿易によって大量の宋銭が日本に流入し、日本は貨幣経済の時代を迎えるようになった。また、栄西・道元らの禅宗や茶もこの時期に伝えられた。平氏の繁栄に反発して源氏が挙兵、平清盛が急死すると平氏は都を追われ1185年に壇ノ浦の戦いで源氏に敗れる。平氏・奥州藤原氏が滅亡、後白河法皇が死去した後、源頼朝は征夷大将軍に就任して鎌倉幕府を開く。御家人は京都守護や鎌倉番役を務めることによって鎌倉殿に奉公をする。それに対して御家人は鎌倉将軍から御恩を授かるといった主従関係があった。一方で、西日本を支配する朝廷と東日本を支配する鎌倉幕府が対立するという公武二元支配の構造によって、守護・地頭と国司・荘園領主の対立が浮き彫りになった。頼朝の死後は北条氏が台頭して、執権政治が始まる。1221年の承久の乱によって執権の補佐役である連署が設置され、京都には六波羅探題が設置された。13世紀後半、モンゴル帝国は高麗を通して日本に服属を求め、使者を6回送るが朝廷はこれを黙視する。1271年にクビライ・カアンは大都に遷都して元を建てると北条時宗は異国警固番役を設置して元の襲来に備えた。1274年、元は高麗との連合軍を形成して日本に侵攻(文永の役)。元・高麗連合軍は日本軍の激しい抵抗を受けて撤退を余儀なくされる。日本側は蒙古再来に備え、九州に防塁を築き防衛力を強化すると同時に、逆に大陸への侵攻を計画したが、この計画は途中で頓挫した(第一次高麗征伐計画)。1279年に元は南宋を滅ぼし、華北の漢人・華南の南人とモンゴル民族の差別化を図った。そして、1281年に元は高麗・旧南宋軍と共に連合軍を組んで日本の再来襲を試みるが、 志賀島の戦いや 壱岐島の戦いで日本軍に撃退され、さらに鷹島沖海戦を経たところに台風によって大損害を受け、日本軍によって掃討され壊滅し( 御厨海上合戦・鷹島掃蕩戦 、弘安の役も再び失敗に終わる。大勝した鎌倉幕府は、直ちに大陸への逆侵攻を計画したが、この計画も実行されなかった(第二次高麗征伐計画)。こうした二度に渡る元寇を受けて鎌倉幕府は1293年に鎮西奉行を九州に設置して、西日本における統制力の強化に乗り出した。一方で、元寇で軍役に就いた御家人への十分な恩賞給与がなされなかったため、御家人たちは貨幣経済が発達していた中で戦費に窮迫して借金に苦しむようになった。そこで鎌倉幕府は1297年に永仁の徳政令を発布して御家人の所領の質入や売却の停止を促したため、結局御家人の救済には至らず御家人の鎌倉幕府に対する不満は高まるばかりであった。クビライ・カアンは日本侵攻を試みながらも、民間レベルの貿易は認めていた。それでも日本の大陸侵攻を恐れるあまり日本の商人と元の官吏との間で傷害事件も発生し、それが後の倭寇の出現の一要因にもなった。鎌倉時代後期には寺社造営費を獲得するため、鎌倉幕府の公認のもと寺社造営料唐船が派遣された。北条時宗の死去で権力を握た得宗は、武士層が信仰した禅宗を保護したため、民間の渡来僧は貿易船に便乗して来日した。また、朝廷内では後嵯峨天皇の皇位継承と荘園の相続を巡って持明院統と大覚寺統の両統迭立で紛糾が続いていたが、大覚寺統の後醍醐天皇が即位して討幕運動が始まるも失敗、代わって武士の足利尊氏や新田義貞によって鎌倉幕府は1333年に滅亡する。こうして天皇親政が復活するかに見えたが、二条河原の落書からも分かるように建武の新政は不安定であった。持明院統が建武式目を制定して1338年に足利尊氏を征夷大将軍に任命すると、大覚寺統は吉野へ南下して北朝と対峙する南北朝時代が到来する。しかし、新田義貞の戦死と後醍醐天皇の病死で南朝は衰退していく。日本の海賊である倭寇が朝鮮半島南岸に次いで中国大陸沿岸の山東から浙江にかけてを襲撃するようになるはこの頃からである。前期倭寇は日本人が中心で、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、「三島倭寇」と総称された。この海賊行為は、元寇に対する地方の私軍による復讐の意味合い、および、再度の侵攻への予防という側面もあったと考えられる。また、これらの地域では元寇による被害で労働力不足に陥り農業生産力が低下したために、これを補完する目的があったとも考えられている。中国大陸では白蓮教徒による紅巾の乱を経て1368年に洪武帝が明を建国し、海禁政策によって朝貢貿易のみを許可することとした。日本に対して倭寇討伐の要請をするため九州で勢威を振るっていた南朝の征西将軍懐良親王に使者を派遣する。しかしその後九州探題の今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、1368年、第3代将軍の足利義満の時に南北両朝廷は和睦を結び、1392年には南北朝が合一するため洪武帝は日本との冊封関係を結べなかった。しかし、1401年に義満が僧の祖阿・商人の肥富を遣明船で明に派遣すると、靖難の変で即位した永楽帝は1404年に足利将軍を「日本国王」として冊封し、永楽帝は義満を評価しており、その死の翌年に弔問使を日本につかわし「恭献」という諡を送っている。日本人で外国から謚号を贈られたのは義満が最初で最後である。この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。室町幕府は明皇帝に対して朝貢する形式で日明貿易を限定的に開始する。1404年以降は日本に対して交付される貿易許可証である勘合符を遣明使船に所持させる勘合貿易の導入で倭寇の取締りが容易になった。1411年に朝貢形式は屈辱的として足利義持が日明貿易を停止したりするが、1432年に足利義教が貿易を再開させて1549年まで19回に渡り行われる。日本からの輸出品は、硫黄・銅などの鉱物、扇子・刀剣・漆器・屏風などであり、輸入品は、永楽通宝・生糸・織物・書物などであった。輸入された織物や書画などは北山文化や東山文化など室町文化にも影響を与えた。室町幕府は三管領・四職の政治構造で運営されていくことになるが、守護大名の成長が著しく守護領国制が確立していく。1449年に足利義政が第8代将軍に就くとその悪態ぶりと次期将軍を巡って1467年からの応仁の乱で守護大名が東西に分裂、地方では農民による土一揆・国一揆・一向一揆などの反乱が頻発し、下克上の戦国時代の幕が開くことになる。遣明船派遣の権利を巡っては、博多商人の大内氏と堺商人の細川氏が対立することになるが1523年の寧波の乱の結果、大内氏が権益を握り1536年に大内義隆が遣明船派遣を再開する。その一方でヨーロッパ人が日本近海へ訪れるようになり、1543年に鉄砲が種子島に伝来するとポルトガル・スペインとの南蛮貿易が始まり、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが1549年にキリスト教を伝える。その結果キリシタン大名が出現し天正遣欧使節が派遣されたりする。1551年、大内氏が滅亡すると遣明船派遣は途絶える。王直など明の密輸商が中心の後期倭寇による密航貿易が中心となっていった。1573年に室町幕府を京都から追放させた織田信長は延暦寺を焼き払うなど寺社勢力に対しては、政教分離の方針で臨み、また、キリスト教に対しては寛容な政策を採った。信長は本能寺の変で自害、その後山崎の戦いで明智光秀を討って信長の政策を継承した豊臣秀吉は荘園を完全に消滅させ、刀狩で兵農分離を明確にして、生野銀山・石見銀山などの鉱山を直轄した。1587年の九州征伐後はバテレン追放令でキリスト教を禁止とするも、南蛮貿易は積極的に続けた。また、秀吉は日本人の海外交易を統制し、倭寇を禁圧する必要から、1592年に初めて朱印状を発行してマニラ・アユタヤ・パタニになどに派遣したとされる。日本を統一した秀吉は「征明」を企て、対馬の宗氏を介して明と冊封関係にあった李氏朝鮮に征明への協力を求めたが交渉は決裂したため、1592年に朝鮮半島への侵攻を開始した(文禄の役)。日本軍が平壌を占領しようとすると、明は朝鮮からの要請に応じて、明は平壌を「朝鮮の地であるが、明の領内でもある」とし、明軍の派遣を決定する。明・朝鮮連合軍と日本軍は幾多の戦いを経て膠着。一時休戦をして明との講和を試みるが、交渉は決裂する。秀吉は、1597年の慶長の役で再び出兵するが、翌年に秀吉が死んで日本側は撤兵する。秀吉の死で幼少5歳であった息子の秀頼を五大老が補佐する体制が敷かれる。その中で台頭したのが徳川家康であった。1600年に豊後に漂着したオランダ船に乗り組んでいたヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムスを家康は貿易・外交顧問として雇い南蛮貿易を積極的に奨励した。同1600年の関ヶ原の戦いで石田三成が率いる西軍に勝利した家康は、1603年に征夷大将軍に就任して江戸幕府を開く。太平の世の到来で高級衣料である支那絹に対する需要が増大し、明産などの輸入生糸を糸割符仲間に独占購入・販売させる糸割符制を導入、朱印船貿易を実施した。これ以後、1635年まで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航した。明からも民間人が多数来日し、九州を中心に唐人町が形成された。しかし、かつて倭寇に苦しんだ明は日本船と明船の出入港を禁止、文禄・慶長の役で険悪な関係となってからはなおさらであった。両商船は明国官憲の監視が及ばない東南アジア諸港へ合法的に赴いて彼の地で合流、「出会貿易」で明産の生糸や絹を売り買いしていた。明製品以外にも武具に使用される鮫皮や鹿皮、砂糖など東南アジア産品の輸入も行われた。日本からは銀・銅・銅銭・硫黄・刀などの工芸品が輸出された。当時、明では銀が不足していたため朱印船の主要な交易相手である明商人は銀を欲した。しかも当時、日本では石見銀山などで銀が盛産されており、決済手段として最も適していた。家康は将軍職の世襲制を敷いて1605年に息子の秀忠に職位を譲り、自らは大御所として振舞う。また、薩摩藩の島津氏は首里城を陥落させて琉球王国を武力制圧、廃藩置県後の琉球処分まで琉球は日明(日清)両国に属することになる。1612年に直轄領で禁教令が、翌年には全国へ適用範囲が広がった。大坂の役で「豊臣氏を滅ぼした」翌年1616年に家康は死去する。前述のとおり、徳川家康から徳川秀忠の時代にかけては、江戸幕府は明との国交回復及び勘合貿易の再開をもくろんだ。しかし、倭寇や文禄・慶長の役の経緯から日本に警戒心を持つ明に断られ失敗した。徳川家光が3代将軍に就任する頃になると幕藩体制が整うと、江戸幕府は日本を中心とした華夷秩序の編成をもくろみ、海禁(「鎖国」)政策を確立していく。1633年、幕府は長崎奉行に対して、老中が発行する奉書を持つ船以外の海外渡航や帰国を禁止する第一次鎖国令を発令し、1635年にはすべての日本人の東南アジア方面への海外渡航と帰国を禁止する第三次鎖国令が発令されて朱印船貿易は終末を迎えた。1641年にオランダの商館を平戸から出島に移転させることによって、江戸幕府は「鎖国」を完成させた。一方中国東北部では、1616年にツングース系の女真族が後金を打建て、1636年には清と国号を改め、李氏朝鮮を服属、自らを満州族と称した。1644年に明を滅ぼし、中国全土を支配下に置いた。その後も明の残党勢力らによる反乱が続いたが、台湾に逃れて抵抗していた鄭成功一族も1683年に滅ぼして台湾を領有することに成功、清は康熙帝・雍正帝・乾隆帝と最盛期を迎える。しかしマテオ・リッチらによるキリスト教伝授などの影響を受けて、1796年から白蓮教徒の乱が起きるとそれを鎮圧するのは漢民族によって組織された郷勇であった。この頃から清は衰退傾向にあったと言える。「鎖国」政策の中で、オランダ・李氏朝鮮・琉球・蝦夷地と共に交流を続けた清は出島・対馬・琉球・松前を通した定高貿易を行った。江戸幕府は4代将軍綱吉の頃から文治政治への転換を図り、1630年に輸入が禁止されたキリスト教関係の書籍を除いて多くの漢籍が輸入された。儒学を研究する木下順庵ら儒学者は待遇を受け、1690年に林羅山は上野にあった孔子廟を湯島聖堂として新設し直したりして朱子学も発展した。大陸の考証学に先立って伊藤仁斎・荻生徂徠らによる古学が興ったり、国学者の本居宣長が「からごころ」に代わって「やまとごころ」を主張したりした。しかし、19世紀に入るとロシア帝国の外交官が通商を求めてきたり、大英帝国・アメリカ合衆国の軍艦が長崎港に侵入したりするようになって、米露の江戸幕府に対する開国要求が強まっていく。明と同様に海禁政策を実施していた清は、貿易港を広州のみに限定して広東十三行と呼ばれる組合組織を通してのみ交易を許可した。それを不満とした大英帝国は外交交渉を試みるが清は朝貢伝統を固持したため、英国は東インド会社を活用して三角貿易を構築、清国内にアヘンを不正流入させた。清は林則徐を現地に派遣し徹底した取締りをしたため、英国は1840年にアヘン戦争を起こした。南京条約によって、香港が英国に割譲され、上海などの開港・公行の廃止・戦争賠償金の支払いが決まった。片務的最恵国待遇が適用され、清は列強と次々に不平等条約を結ぶことになる。それに対して洪秀全らが「滅満興漢」を唱えて太平天国の乱を起こすが、郷勇の曽国藩・李鴻章らや常勝軍がそれを鎮圧した。1856年に起きたアロー号事件などをきっかけに、英国はヴェトナムの保護国化を画策していたフランスと共同で清に対してアロー戦争を仕掛けた。清は再び圧倒的な差で敗れたが天津条約の批准に武力で反抗したため、ロシア帝国の仲介を経て北京条約を批准するに至った。 漢民族の曽国藩・李鴻章らは国家再建を祈願し「中体西用」を唱えて洋務運動を展開、清は「同治中興」の時期を迎える。厳復らによって多くの洋書が漢語に翻訳され、また同時に日本の翻訳書からの重訳も多々行われ和製漢語を中国側が逆輸入する現象が起きた。この頃、高杉晋作らは幕府船「千歳丸」で上海へ派遣されており、英仏による租界の実態や太平天国の世を視察した。これを契機に孔孟・諸葛孔明・李杜韓白などを通して「聖人の国」として崇拝していた日本人の「支那」観が次第に蔑視化していくことになる。1840年のアヘン戦争は江戸幕府に大きな衝撃を与えた。幕府は風説書や蘭学などを通してこの情勢を「近代的に分析」して、1825年に出した異国船打払令を天保の薪水給与令に緩和することを1842年に決めて鎖国体制が崩壊していく。1853年にペリーの浦賀来航で開国を迫られ、翌年から米国やそのほかの列強と次々に不平等条約を結ぶことになった。こうした井伊直弼の失態を受けて尊王攘夷が薩摩藩・長州藩から沸き起こり、1867年の大政奉還と王政復古の大号令で幕藩体制が終焉、明治維新の時代を迎えた日本は廃藩置県などの政策を実施して近代化の道を進んでいく。日本と中国大陸の関係も、西洋帝国主義の潮流の中で構造変化が生じていく。江戸幕府のころから、「千歳丸」「健順丸」を派遣するなどして清との貿易が試みられていたが、清は一般化を拒絶していた。大政奉還後、1870年8月、明治政府も清に対して修交提議をしたが、やはり清はこれに応じなかった。しかし、李鴻章や曽国藩は近代国家として発展しつつある日本と通商を開くことの道理を説き、清はついに修交に決した。かくして、1871年7月に伊達宗城と李鴻章の間で日清修好条規が調印された。これは日清相互に治外法権と領事裁判権を承認し合うことによる平等条約であり、ここに中華思想に基づく冊封・朝貢関係が崩壊し、近代的な国交関係が日清の間で確立した。日本側は特命全権公使に森有礼を任命して北京に派遣した。1872年、日本寄港中の外国船に積み込まれた奴隷状態の清国人を日本政府が解放する(マリア・ルス号事件)。1874年、台湾で琉球の漁民が殺害されたのを契機に日本軍が台湾出兵を行う。1879年、琉球処分を以って琉球藩が沖縄県になった。朝鮮半島は東アジアにおいて古代より、地政学的に攻守上重要な位置を占めていた。日清の関係もまた朝鮮を巡って軍事衝突が避けられる情勢にはなかった。近代になると日本ではイギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどをはじめとする欧米列強による帝国主義の脅威が迫るなかで、安全保障上の理由から、大陸からの玄関口である朝鮮半島(李氏朝鮮)に対し開国を求めた。李氏朝鮮は開国を否定し日本を仮洋夷(西洋に毒された国)として国交を断絶した。日本では、この開国拒否問題(仮洋夷問題)を発端に西郷隆盛・板垣退助・江藤新平らによる征韓論が展開。そして1875年の江華島事件を理由に日朝修好条規を要求し、李氏朝鮮を「開国させる」ことに成功した。日本は朝鮮の親日派勢力であった閔妃一族の内政改革派(維新派)を支持したため、1882年に親清派(保守派)の大院君が漢城に設置された日本公使館を襲撃、日清両国が軍事介入して壬午事変が起こった。清は事変の首謀者である大院君を拉致・抑留し、事変後に親清派に寝返った閔妃らが結成した事大党と協力し、朝鮮の政治・軍事の実権を掌握した。朝鮮での影響力が低下した日本は開化派の金玉均率いる独立党と手を組むことにする。1884年、清仏戦争の混乱に乗じて独立党が甲申事変といわれる事大党・閔妃に対するクーデターを計画、日本は独立党を支援したが袁世凱率いる清軍により失敗、翌1885年に伊藤博文と李鴻章の間で天津条約が結ばれ、日清両軍が朝鮮から撤退することが決まった。また将来、朝鮮の変乱に日清両国が出兵する場合は事前に相互通知することも決めた。1886年には長崎寄港中の清国北洋艦隊水兵によって暴動事件が引き起こされた(長崎事件)。1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こると清は上述の天津条約に従って通知を行い李氏朝鮮に出兵、日本も出兵してそれが日清戦争に発展する。「眠れる獅子」と言われていた清は日清戦争で大敗し、翌1895年に下関条約で遼東半島・台湾を日本に割譲することや法外な戦争賠償金の支払いなどを認めた。これにより台湾に総督府が設置されることになり、日本の台湾統治が終戦まで続くことになる。自由民権運動が盛んになり、明治憲法も発布され、殖産興業も着実に進行し博覧会なども催されたが、その中の人類館での人種差別的な展示を巡って近隣アジア諸地域との間で問題がおきた。また、尾崎行雄は新聞記者として清に赴き、現地取材などを通して「支那の未開さ」を根拠に大陸侵攻を強く主張した。一方、内村鑑三は当初戦争に対して肯定的であったものの、後に「非戦論」を唱えるようになった。また、北一輝は亜細亜モンロー主義を掲げてアジアを開放するのは日本だと主張した。これらに対して、内藤湖南は支那文化の独自性に着目して京都帝国大学で支那学の発展に寄与した。清国内では租界や租借地が形成されて「列強による分割」も加速度的に進行していた。それに取り残されていた米国のジョン・ヘイは門戸開放宣言を発し、中国の門戸開放・領土保全・機会均等を訴えて中国市場への介入を企てた。日本の明治維新を高く評価した黄遵憲の『日本国志』は、康有為らによる変法自強運動に大きな影響を与えたが、1898年に西太后による戊戌の政変が起きて沈静化した。1900年には、義和団が「扶清滅洋」を唱えて反帝国主義運動を展開した。清朝廷はこの北清事変を支持したが、満州や朝鮮半島の利害を巡って対立していた日露や他の列強の八カ国連合軍による軍事介入と北京議定書によって外国軍が北京に駐留することになり、清は巨額の賠償金を請求されて弱体化する一方であった。その後、ロシア帝国は満州支配を強める傾向にあり桂内閣はロシア帝国の南下政策に共通の懸念を持っていた大英帝国と1902年に日英同盟を締結してロシア帝国との対決姿勢を整え、1904年に日露戦争を開始する。日本海海戦などでの日本の勝利を経て、米国大統領の仲介でポーツマス条約が結ばれ日本の満州と大韓帝国の権益が確保された。しかし、賠償金が得られずそれを不服とした日本の民衆が日比谷焼打事件を起こした。日本はロシア帝国との協商も続けつつ、1906年、関東都督府を旅順に設置、南満州鉄道株式会社も同年に設立して「満州経営」の基盤を固め、「満蒙特殊権益」論を展開していく。そして1910年には大韓帝国を正式に日本と併合した。これを以って、大日本帝国が名実ともに国際的に認知されることになった。一方、日本国内では、立憲政友会の結成などで尾崎行雄・犬養毅らが登場すると、護憲運動が始まって「憲政の常道」が慣習化していく。1911年、中国大陸では三民主義を唱える孫文らによる辛亥革命が起こり、宣統帝が退位し、翌年の1912年には中華民国の臨時政府が南京で成立した。中華民国暦が採用されることになり、中華民国憲法発布に伴って宣統帝を総理として支えた袁世凱が孫文から大総統の地位を与えられると、首都が北京に移り、結局帝政が復活することになる。その頃になると上海・広州・天津・漢口などの都市が発展し、東亜同文会が東亜同文書院などを開設するなどした。「近代文明」を受容する目的で多くの中国人が日本へ留学するようになると、孫文と宮崎滔天、頭山満・魯迅と藤野厳九郎の交流などが生まれた。しかし、帰国した魯迅の影響を受けた胡適らによってブルジョワ文学革命が起こり、パトリオティズムが高揚しつつあった。1915年、大隈内閣は山東半島におけるドイツ帝国の利権を継承することなどを盛り込んだ二十一か条の要求を袁世凱に提示した。この要求と引き換えに袁世凱は日本による中華帝国の承認を求めたとされている。これを契機として、反袁勢力が立ち上がり、1902年に結ばれた日英同盟を理由に連合国側に立ってドイツ帝国に宣戦布告していた日本を排撃する傾向が次第に生まれていく。そこで中華民国は連合国側に立って第一次世界大戦に参戦し、日本の影響力の排除を試みようとした。しかし、1919年に行われたパリ講和会議で決まったヴェルサイユ条約は日本の山東省のおける利権の継承を認めたため、北京の大学生らが条約調印反対運動を起こした。それが全国に波及して五・四運動といわれる反帝国主義運動に発展した。北京政府打倒を目指していた革命家の孫文は1919年に広州で中国国民党を決起して、張作霖ら中国東北部を割拠している北洋軍閥の征伐と反帝国主義運動に取り掛かることになる。1920年、中国艦隊は尼港事件で赤軍と戦闘中の日本軍兵営を砲撃する。一方、ロシア革命により成立したソビエト連邦の傘下にあったコミンテルンの革命援助によって陳独秀らは1921年に上海で中国共産党を結成する。コミンテルンの後ろ盾もあり、1924年に国民党は第一次国共合作で共産党を迎え入れ、外資系の工場でのストライキを通して反帝国主義運動を全国へ波及させ、孫文は神戸を訪れて大アジア主義講演も行った。国民党は広東省の広州で国民政府を立ち上げて、孫文が病死するという不幸を乗り越えて、1926年に北伐を開始する。国民革命軍は蒋介石に率いられて広東省から出発し破竹の勢いで南京・上海を占拠するが、南京事件、漢口事件などにより日本人を始めとする外国領事館、居留民への攻撃が行われたため、国民党右派の蒋介石は上海クーデターを起こしてプロレタリアート的な共産党員の抑圧を図り、第一次国共合作は崩壊した。当時の国際情勢は世界の覇権国が大英帝国から米国に変わりつつあり、米国のウッドロウ・ウィルソンが十四か条の平和原則を示して国際連盟が設立されるヴェルサイユ体制下にあった。日本は常任理事国として国際連盟に設立と同時に加盟した。1922年には米国が海軍軍縮・太平洋の平和・中国問題に関するワシントン会議を主催して、石井・ランシング協定の破棄で日本陸軍の山東省からの完全撤退や中国の門戸開放と領土保全が保障され、ここに日本の大陸侵攻を封じ込めるワシントン体制が確立した。それと連動して幣原喜重郎が対米協調外交を展開していた。日本国内では、大戦景気を背景に吉野作造が民本主義を唱えて大正デモクラシーの時期が到来、1917年のロシア革命を受けたシベリア出兵によって米騒動が起きたりもしたが、平民宰相といわれた原敬の登場で本格的な政党内閣制度が確立した。第一次世界大戦後の恐慌・関東大震災による恐慌・護憲運動を経て1925年に普通選挙法が成立したが、同時に治安維持法も制定されるという時代であった。金融恐慌・昭和恐慌のあおりで慢性的な恐慌に喘いでいた日本では、「満蒙は日本の生命線」などの意見が盛んになっていた。日本の外交路線も幣原喜重郎の対米協調路線から田中義一の強硬路線へ転換されるようになる。1926年には支那によって日本・イギリス船舶が攻撃される万県事件が起き、イギリス軍は支那と戦闘を行ったが日本は抗議を行うにとどめ武力は行使しなかった。。国民革命軍は北伐を再開したが1928年に済南事件が起ったため、山東を回避して北京を目指した。。この「満州某重大事件」の責任問題を巡って田中義一内閣は昭和天皇の不信を買って総辞職、幣原外交が再開されたがロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って軍部の台頭が一段と顕著になっていく。張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本への恨みなどから国民革命軍に合流したため北伐は完了し、国民党による南京国民政府が中国大陸を一応統一したものの新たな軍閥グループが複数内在する脆弱なものであり、主席に就任した蒋介石は直ちに軍閥の弱体化に取り掛かった。一方で、中国共産党は農村部を中心に基盤を固め、毛沢東を筆頭に瑞金で中華ソビエト共和国の樹立にこぎつけていた。1931年、若槻内閣の不拡大方針を無視した満州事変が勃発した。1932年の日満議定書によって中国東北部に日本の支援のもと溥儀が「満州国」を建国した。米英は不戦条約を抵当に反発を強め、国際連盟は中華民国側の提訴を受けてリットン調査団を満州に派遣、その報告を踏まえた上で「満州国建国は満州族の自発的な民族自決運動である」とする日本側の見解に反するものが多数を占めた。撤兵勧告を不服とした松岡洋右はその場を退場、日本は連盟の脱退を通告した。 滝川事件・天皇機関説事件に対して国体明徴運動が発生すると日本政府は1935年に国体明徴声明を発表、陸軍皇道派の青年将校による二・二六事件が発生した。首謀者の北一輝らは死刑になり、統制派が主導権を握るようになった。こうしてワシントン体制が崩壊していった。満州事変以後、反日感情の高まりが目立ちはじめ、中国国内で日本人に対する抗日事件が多発した。一方、実質的に中国の大部分を掌握していた蒋介石は抗日に関しては日本との対話を望みつつ米ソの協力を期待するという消極姿勢であった。当時の中国大陸は蒋介石による北伐のため国内が統一されたかにみられたが、実際には軍閥や共産勢力の存在によって依然として不安定な状況が続いており、分裂国家に後戻りする危険性をはらんでいた。このような状況下で国内の革命軍兵士をはじめ、民衆すべてを統制することは出来ず、彼らが反欧州・反日感情に駆られて起こす運動や事件は対外関係に悪影響を及ぼしたが、これは流言蜚語が飛び、正しい情報が伝わりにくいという中国大陸の風土も関係していた。蒋介石は反共封じ込めにこだわり、国共内戦を続行する。そのため共産党は長征を強いられ延安へ西遷して八・一宣言を行い、その中で内戦の即時停戦と抗日民族統一戦線の結成を訴える。上海では日本人水兵射殺事件が起きた。そして、その翌年の1936年には、成都事件、北海事件、漢口邦人巡査射殺事件、日本人水兵狙撃事件などの反日テロ事件が続発し、同年、張学良が蒋介石を幽閉して周恩来らと共に国共合作を承諾させる西安事件が起きた。この事件をきっかけに、コミンテルンが仲介役として国民党と共産党の間で第二次国共合作が実現、抗日民族統一戦線が形成される。蒋介石が日本と対決する姿勢をとるようになったことで、一層抗日的姿勢が強化されることとなった。1937年、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発するもののいったん停戦協定が結ばれたが、それでも廊坊事件、広安門事件、通州事件などの中国の挑発行為は幾度も起きた。抗日思想を背景とした中国軍側による好戦的な戦闘活動が起き、日本政府は当初華北での限定作戦を意図して戦闘の不拡大方針を取るが、8月9日に上海で大山中尉殺害事件が発生し、13日には中国軍の攻撃によって第二次上海事変が勃発。これを口実とした日本軍部の対支一撃論派の圧力と中国空軍の攻勢によって、日本政府は不拡大方針を第2次上海事変以降に覆されることとなった。日本軍は、ナチスドイツのファルケンハウゼンによる戦略に苦戦しながらも、中国軍が周到に用意していたチャイニーズヒンデンブルクラインを突破し、国民政府の首都が置かれていた南京を制圧することに成功した。当時の日本の大衆の多くは長引く不況と南京暴動や通州事件など、積もり積もった中国での抗日事件や反日運動に対する怒りから支那事変(当時の呼称)を支持しており、日本軍の攻撃は腐った支那人に対する正義の戦いだ、と捉えていた(支那軍膺懲)。翌1938年、首都南京陥落後も徹底抗戦を主張する蒋介石に対し近衛文麿は、日本政府が提示する講和条件を受け入れれば停戦の即時受け入れとこれまで日本が結んできた不平等条約を無効化することを約束、一方で否定すれば中国大陸での交渉対象(蒋政権を正式な交渉相手として認めない)から外すことを言明した。だが、首都南京を陥落させれば蒋介石は屈するとの日本の意図は打ち砕かされ、その後も蒋介石は徹底抗戦を主張した。これを受けて近衛文麿は「国民政府を対手とせず」との声明を発表し対話の選択肢を放棄した。続いて国家総動員法を成立させ大日本帝国・満州・支那による東亜新秩序を主張した。国民政府は長江を遡って漢口から重慶へと政府機能を移転して抗日を続けた。漢口から先の奥地へはまともな道路が存在せず日本陸軍はそれ以上の追撃は困難と判断し、広州へ向けてさらに南下する。一方で、国民政府和平派の代表格である汪兆銘を首班とする南京国民党政府(汪兆銘政権)が樹立されると日本は、これを中国の政権として承認することで事変の終結を目指した。一方で、日中間の戦争をなんとか治めようと、近衛文麿首相や皇族の東久邇宮稔彦王が、蒋介石と親密な関係にあった頭山満に度々働きかけ、和平交渉を試みようとしたが、その時ゝの要人(湯浅倉平や木戸幸一内大臣、東條英機首相)の反対によって実現に至らなかった。また、近衛内閣はナチス・ドイツやイタリア王国と共に三国防共協定・三国同盟を結び、さらに大政翼賛会の結成で既成政党を無効とした。こうした情勢の中、日本の中国進出を警戒する米国などの国は援蒋ルートを用意して蒋介石を支援した。アジア進出に出遅れた米国は門戸開放政策からも分かるようにアジア・太平洋へ介入する機会をうかがっていた。米国は日露戦争後、満州鉄道の経営を通じ中国大陸に進出しようと試みたが、失敗。第一次世界大戦で日本がアジア・太平洋地域で権益を拡大すると、これに反感をもった米国は石井・ランシング協定を結び、日本の満洲、蒙古での特殊権益を認める代わりにそれ以上の権益拡大を封じようとした。その後、日本による満州事変・支那事変を端に発した大陸進出(勢力拡大)に対して欧米は深い脅威を覚え、いずれ日本が石油などの天然資源を求めて米領フィリピンなど、欧米が東南アジアに持つ利権を脅かす存在となるのではないかと懸念した(「南進論」)。また同時に日本の勢力拡大が独立運動が高まってきていたインドをはじめとする植民地に影響を及ぼすことに対しても警戒した。1941年に日本はソ連と不可侵条約を結んだ後フランス政府(ヴィシー・フランス)との合意に基づいて仏印進駐を行い、本格的に南進を実行していく。そこで米国は日本に対して経済制裁を課し、英連邦やオランダとも歩調をあわせた。御前会議を経て、近衛内閣は日米交渉をまとめられず総辞職した。東條内閣は米国が提示したハル・ノートを事実上の最後通牒と判断し拒否、マレー作戦・真珠湾攻撃を行い宣戦の詔書を発表し、米英との開戦に踏み切った。 国民学校における「皇民化」教育が始まるのもこの頃である。日本海軍はミッドウェー海戦で大敗を喫し、その後の太平洋戦争(大東亜戦争)の戦況は一向に好転しなかったが、大東亜会議において大東亜宣言を採択、大東亜共栄圏の構築を世界に示した。兵力を補うために学徒出陣も始まり、サイパン島の陥落でB-29による日本本土空襲が始まると、東條内閣はこの責任を取って総辞職、都市部の学童らは集団で疎開を強いられることになった。こうして日本は中国のみならず米国・英連邦・オランダを敵とせざるを得なくなった。これを契機に蒋介石は共産党排撃の動きを強めたため、第二次国共合作は実質的に崩壊していった。共産党は国民党と交戦しつつ国土の大部分を占める農村部で反日運動を広め、八路軍を組織して抗日ゲリラ戦を同時に展開した。こうして中国戦線も長期化することになり、戦局は泥沼と化していった。第二次世界大戦の戦後処理問題は、米英中ソの連合国間でカイロ宣言・ヤルタ協定・ポツダム宣言を通して大枠合意がなされていた。枢軸国の日本は日本への原子爆弾投下とソ連の参戦を受けてポツダム宣言を受諾、降伏文書に署名した。戦後、多くの日本人が抑留され、国民政府軍、共産党軍双方に徴用された。満州では国民政府軍に協力した日本人が虐殺される通化事件のような事件が起きたり、東北民主連軍航空学校を設立し、中国共産党軍航空隊の設立に寄与した。1941年の太平洋戦争の開始直後から中国大陸では国共内戦が本格的に再開されたが、最終的に中国共産党傘下の人民解放軍が勝利し、1949年10月に毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。一方、蒋介石のグループは台湾に中華民国政府を移す。朝鮮戦争により険悪化した米中関係の影響で、日本国政府は1951年の対日講和に際して中華民国との平和条約を決断し、日中戦争の終結が決まり日本に対する戦争賠償の請求も放棄された。米国の介入もあり、中台両岸関係は台湾海峡を挟んで軍事的に緊張した状態が続くことになる。日本の政治は自由民主党と日本社会党による55年体制によって保守化していく。1956年、フルシチョフの対米平和共存路線で中ソ対立が沸き起こる。大躍進政策に失敗した毛沢東は失脚して、実権派の劉少奇に権力が委譲された中共とは政経分離の積み上げ方式で経済交流が行われることになったが、1958年の長崎国旗事件で一時的に交流が断絶する。1960年の友好商社に限った貿易と、1962年に廖承志と高碕達之助の間で取り交わされたLT貿易により非公式な交流が再開されるが、1964年、中国は核実験を成功させて、1966年に文化大革命が始まると、安保闘争・沖縄返還など本土復帰に絡んで日中両国は険悪な仲となった。劉少奇の失脚と林彪事件を切り抜けた毛沢東は復権を果たす。1971年にアルバニア決議によって国連の中国代表権が国府から中共に移行、ニクソン訪中の電撃発表で米中和解が明るみに出ると、佐藤内閣への対中政策批判と退陣要求が一気に強まる。公明党の竹入義勝による訪中を経て、1972年9月、周恩来総理(当時)の招待で田中角栄が訪中して歴史的な日中首脳会談が実現した。両首脳は数日の協議の末日中共同声明を発表した。これを以って「中国」との「不正常な状態」が終結、日中友好のために日本に対する戦争賠償の請求は放棄され、「一つの中国」を十分理解・尊重、日華条約も同時に無効となった。日中国交正常化後、両国は声明の中で示された日中条約締結へ向けて動き出すことになるが、反ソ連を想定した「反覇権条項」を巡って交渉は難航、また1976年に毛沢東・周恩来が相次いで死去し、華国鋒への権力引き継ぎや文革を推進した「四人組」の逮捕で中国の内政は揺れていた。しかし、福田赳夫内閣の時に日中平和友好条約が結ばれ、1978年10月に中国の鄧小平副総理(当時)が批准書を携えて来日した。華国鋒の失脚で実権派の鄧小平が復権すると、中国を現代化するための「四つの基本原則」を打ち出して改革開放路線への「大転換」を行う。日本政府はこれを高く評価し、大平正芳訪中を機に政府開発援助の名目で中国に大規模な円借款を行って中国の計画経済に大きく貢献した。1980年代の日中両国は相互補完的な「蜜月期」を迎えるが、その一方で歴史教科書の記述を巡る問題や靖国神社公式参拝の問題が沸き起こる。台湾との関連では、光華寮訴訟や尖閣諸島問題が起きる。中国の北京で六四天安門事件による戒厳令が解かれ、日本も平成時代を迎えると天皇皇后が日中国交樹立20周年の1992年に中国を訪問した。終戦50周年の1995年の8月には村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」が発表された。1996年、台湾では初の中華民国総統直接選挙が実施され本省人の李登輝が有力候補になると再び台湾海峡危機が懸念され、「台湾有事」も想定した日米防衛協力のための指針の策定を巡って日中関係がこじれたりもした。日中条約20周年を機に、江沢民国家主席(当時)が1998年11月に中国の国家元首として初めて日本を公式訪問し、日中共同宣言が発表された。また、歴史認識を巡る問題が大きくクローズアップされ、反中や嫌中といった現象の再発と伴って中国の急速な経済発展が中国脅威論を喚起させることになった。小泉内閣の時には再び靖国神社参拝問題などを巡って日中政治関係は険悪化して「政冷経熱」の時期を迎える。その一方で、愛国主義教育への反動として対日新思考を主張する動きが中国側で見られたが、 2005年には大規模な反日デモが発生して新たなナショナリズムが芽生えている。日本は常任理事国改革で常任理事国入りを目指しているが、中国はインドの常任理事国入りには賛成しているのに対し日本に対しては拒否権を発動する。また親中化したアフリカ諸国も反対の姿勢を見せている。しかし、安倍晋三訪中・温家宝訪日でそれぞれ共同プレスを発表して日中両国は「氷を砕いて溶かして」いく。そして、日中条約30周年の2008年には胡錦濤国家主席が来日し、暖かい春を迎えて現在の日中関係を表現した「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する日中共同声明が発表された。「戦略的互恵関係」というもとで、日中双方が時に牽制しあいながらも経済関係を発展させてきた。ところが、2012年に尖閣諸島問題が再燃すると関係が一気に冷え込んだ。2013年現在も、中国と日本の貿易は盛んであり、経済的には密接に結びついていることに変わりはないものの、お互いの国民感情の面などからも政治的な日中関係は過去最悪の状態となり、日本の中国投資は激減しASEAN等への投資が増えている。折しも、長年進めてきた中国の軍備増強が一定水準に達したこともあり、中国側も日本に対しては強い態度で臨むことが増え、摩擦が拡大している。また、日本側も第2次安倍晋三政権は中国に対して領土問題で妥協しない姿勢を見せている。中国は尖閣諸島を「核心的利益」としている。今後の日中関係の危険性が増している。2014年9月9日に公表された、特定非営利活動法人言論NPOと、中国国営の中国日報社が共同で行った世論調査では、中国の印象を「良くない」「どちらかといえば良くない」と答えた日本人は93%に上り、日本の印象を「良くない」「どちらかといえば良くない」と答えた中国人は86.8%であった。
出典:wikipedia
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