三波 伸介(みなみ しんすけ、1930年(昭和5年)6月28日 - 1982年(昭和57年)12月8日)は、日本のコメディアン・俳優・司会者・タレント。本名、澤登 三郎(さわと さぶろう)。昭和期を代表するテレビスターのひとり。東京府東京市本郷区(現在の文京区)出身。血液型はB型。長男は喜劇役者の2代目三波伸介(旧名・三波伸一。2009年12月8日、「二代目・三波伸介」を襲名)。当たりギャグは「びっくりしたナァ、もう!」。本郷区根津にて5人兄弟の3男として生まれる。実家家業は銀座木挽町でテイラー(オーダーメイド紳士服)店舗を構え仕立工場を持つ比較的裕福な家庭環境に育ち、杉並第一国民学校4年生の1940年、児童劇団「東童」に加入し芸能活動を開始。戦後日本大学第二高等学校卒業後に進学した日本大学芸術学部映画学科は中退し、その後水の江瀧子の劇団「たんぽぽ」等に参加していたとされる。後に浅香光代一座に参加。ここの座員には戸塚睦夫や客演などで玉川良一が出入りしていた。その後東洋興業系劇場に入り、ここの座員で石井均と追って加入した戸塚が夜間行っていたキャバレー回りの余興営業を石井の都合から代わって引き継いだ。「三波・戸塚コンビ」で夜はキャバレーステージ、昼間は劇場座付で舞台と活動をしていたが突然出奔し中座、大阪へ単身で乗り込み1年余、玉川良一、東けんじらとコント「おとぼけガイズ」を結成しおもに大阪劇場に出演していた時期もある。「おとぼけガイズ」を解消後は1961年東京の舞台に復帰し三波は個人として太田プロダクションに所属する一方、キャバレーの余興営業は戸塚とその劇団仲間だった伊東四朗が「三波・戸塚コンビ」として継続していた(石井の時代からキャバレーとはある芸能事務所が仲介していたため、三波の失踪を隠す意図があった。これ以前にも度々三波の代役を伊東が務めている。)、「(ニセ)三波伸介」として馴染み人気になっていた伊東を外す訳にはいかずあらためて「本当は伊東四朗、本物の三波伸介、本人の戸塚睦夫。」とキャバレーの司会者に自己紹介し「三波戸塚伊東トリオ」の3人で営業活動を再開し、あるきっかけから「ぐうたらトリオ」に改名した。玉川良一との縁で三波はフジテレビの大島正俊ディレクターからテレビ出演の機会を掴み三波と玉川の二人共演から三波単独で引き立てられる機会が増え「裕次郎はタフガイ、小林旭はマイトガイ、三波伸介はモンダイガイ(問題外)」と笑いを取って名を売り、三波のもう一方の顔である「ぐうたらトリオ」を制作担当達に紹介し熱心に売り込み、結果トリオのテレビ出演に成功しこれに注目した日劇から出演依頼が舞い込んできた。出演に際してグループ名の「ぐうたらトリオ」には品位が無いと一方的に「てんぷくトリオ」へ改名させられたがこれ以降三波伸介、戸塚睦夫と伊東四朗の三人組は舞台やテレビのバラエティ番組を中心に人気を博す。流行語にもなった三波の当たりギャグ「びっくりしたなぁ、もう」はこの頃生まれた。1970年12月20日に日本テレビ系「笑点」の3代目司会者に就任。そのきっかけは、同年2月8日にてんぷくトリオとしてゲスト出演した札幌の地方収録の回で、飛行機の欠航により出演できなかった前田武彦の代役として司会を務めたこと。当時はまだ司会経験が浅かったものの、元々落語に造詣が深かったこともあり、並み居る落語家達を相手に大喜利を取り仕切った。大喜利では、談志時代のナンセンスなブラックユーモアを主体にした掛け合いから落語家の丁々発止による掛け合いに代表されるような、分かり易いドタバタ路線に変えた。番組自体の人気を上げたことはもちろん、自身がピン芸人としてブレイクするキッカケとなった。1973年4月20日に戸塚が42歳の若さで死去。残った伊東と2人で「てんぷく集団」と改名し活動を続けた。その後「てんぷく」の活動を抑え、個人でテレビや舞台で喜劇俳優・司会者として活躍。NHK総合テレビ「お笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナーでは、毎回ゲストの芸能人の似顔絵をゲストの家族の言う通りに描き上げ、自ら「阿佐谷のセザンヌ」と称した。またフジテレビ系「夜のヒットスタジオ」の司会を1974年4月から1976年3月まで務めた他、同局系「スターどっきり(秘)報告」や毎日放送・TBS系「伸介のグリコがっちりショッピング」、東京12チャンネル→テレビ東京「三波伸介の凸凹大学校」などの司会で日本中のお茶の間に親しまれた。1982年12月8日15時過ぎ、明かりが落ちた自宅の居間で倒れているのを外出から戻って来た妻の和子と付き人波連太郎が発見、救急車で病院へ運ばれたが既に呼吸・心停止の意識不明状態で、解離性大動脈瘤破裂により意識は戻らないまま急逝した。。肥満体であったことと、多忙のため多い日でも3〜5時間しか睡眠を取れず、タバコは一日最低でも3箱を吸い、さらにコーヒーも数杯好んで飲んでいた。ただし、酒は下戸で一滴も飲まなかった。多くのレギュラー番組を抱え、名司会者として順風満帆の芸能生活を送っていた矢先の死だった。突然の訃報を受け駆けつけた盟友の伊東は対面で開口「こりゃあウソだろう。寝てるんだろう!」と発し記者会見の場で、「(三波の亡骸を触ったときに)体がまだ温かいんですよ。温かいものだから死んだ気がしなくて……。寄らば大樹の陰で、私などは彼のおかげでここまで来れた。(てんぷくトリオは)もう一人になってしまったんだなぁ……」と言いながら号泣した。棺に納められる際の三波は、妻の和子、長男:伸一(2代目三波伸介)と伊東によって黒の紋付き袴が着せられた。テレビとそのお茶の間で人気者の訃報にマスコミの取材活動は過熱したが関係者が取り成し遺族への接触を遮断、和子は一度だけ全てのマスコミ記者インタビューに応じて立ち「パパ(三波)はよく死んだふりをして家族をからかうことがあったため、このときもしばらく『死んだふりをしているのだろう』と思っていたところ、様子がおかしいのに気付いて救急車を呼んだ(大意)。」と答えその様子がワイドショー番組やニュースで繰り返し放送された。後年(時期不明)「すぐ救急車を呼んでいたら三波を死なせずに済んだかもしれない」と悔やんでいたという。コメディアンや演芸人には仲間や自身の生涯を締めくくる儀式で悲しみを和らげる為に不謹慎な言動やわざわざ手段を遺言で残すなど不文律の慣習傾向が一部にみられ、和子も事前に考えて用意した節があり発言のなかで「三波はよく死んだふりをして家族をからかうこと」は家族が喜ぶイタズラ(サプライズの贈り物など)をよく仕掛けていたとされる三波の信条に反し真偽は定かでない。葬儀・告別式は12月11日、東京都中野区の宝仙寺で営まれ、葬儀委員長は伊東が務めた。葬儀には芸能・放送関係者やファンら約1,600人が参列し、三波の突然の死を悼んだ。弔辞は「お笑いオンステージ」のチーフプロデューサーを務めた増子正利らが読み、仕事の都合で参列出来なかった中村メイコは事前に対面し弔い棺に「てんぷく笑劇場」の配役用に製作した指輪を納め、式には肉声テープが式場内で流された。「参列できずごめんなさい。でも、泣きのメイコがにっこり笑って舞台を務めます。(中略)大衆に結びついた喜劇をまっしぐらに追ったあなた。日本中に大きな笑いを振りまいたあなたに拍手を送ります。さようならは言いません。お疲れ様でした。」と泣きながら三波へ最後のメッセージを語り続けた。出棺後、遺体は東京都新宿区の落合斎場で荼毘に付された。戒名は「施明院太伸三省居士」。三波の墓は埼玉県所沢市の「所沢聖地霊園」に所在する。墓石には、三波の座右の銘であった「喜劇とは笑わすだけにあらず 三波伸介」と刻まれている。三波主演の遺作となった翌春正月に放送予定だったドラマ「ザ・サスペンス、刑事ガモさん - さらば愛しきテニス妻よ」は変更して年末12月11日に繰り上げて放送された。遺産は不動産のみであり、初代伸介の死後に預金通帳を遺族が確認した処、全く残っていなかった。2代目伸介を継いだ長男の伸一は「気前が良すぎて全部使っちゃったんですよ。それで父が亡くなったらスッカラカンでした」という旨のコメントを語っている。ほかほかほか
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