広島東照宮(ひろしまとうしょうぐう)は、広島県広島市東区にある神社(東照宮)である。1648年(慶安元年)創建。JR広島駅北側の二葉山中腹にある。西側に広島県神社庁、裏手に金光稲荷神社がある。祭神は東照大権現(徳川家康)で、没後50年ごとに「通り祭礼」という式典が行なわれる。1945年(昭和20年)広島市への原子爆弾投下の際にも全壊を免れており、現存する被爆建物の一つ。徳川家光は日光東照宮を建立後、諸大名に東照宮の造営を勧めたため、全国各地に東照宮が創建されていった。広島東照宮もその中の一つである。浅野氏広島藩2代藩主浅野光晟は、生母である正清院(振姫)が家康の三女であることから特に造営に熱心で、正保3年(1646年)に東照宮の造営を開始し、慶安元年(1648年)7月に創建された。明治維新後、しばらく荒廃したが明治末期に再建されている。太平洋戦争当時、南下の参道には東練兵場が広がり、境内には大日本帝国陸軍第二総軍通信隊の通信兵約20人が常駐していた。また空襲の可能性が低い区域のため、民間だけではなく公共機関の避難所にも指定されていた。ただ、安全性が高いことから疎開しなかったため、社宝もそのまま置いていた。1945年(昭和20年)8月6日被爆。ここは爆心地から約2.10km(広島市公式)に位置した。爆風により建物の瓦や天井が吹き飛び北方に傾き、石造の鳥居が跡かたもなく吹き飛ばされた。熱風によりまず拝殿から出火し、瑞垣や本殿、神馬舎へ延焼した。その後も被害が広がりつつあったが通信兵の手により更なる延焼から免れ全焼は回避された。また社宝は大部分が消失した。同日、市内の被爆者が多数避難してきて大混乱となった。境内南下に臨時救護所が設けられ、通信兵や陸海軍救護隊や民間の医療救護班によって治療活動が行われ、特に重傷者は近くの国前寺へと運ばれた。翌日8月7日には境内南下に広島駅前郵便局および広島鉄道郵便局の仮郵便局が設けられた。幟町(現在の広島市中区)の実家で被爆した作家・原民喜は7日夜、親族とともに境内の避難所で野宿して覚書(「原爆被災時のノート」)を記し、後日それを元に小説『夏の花』を執筆した。翌年1946年(昭和21年)3月頃から境内を片付けはじめ、境内の半焼松材や市内の不要となった電柱を使って、仮拝所が設けられた。その後、1965年(昭和40年)東照公350年祭を期に社殿を再建、1984年(昭和59年)に本殿および拝殿などを建て替えた。2008年(平成20年)から2011年(平成23年)にかけて、被爆により傾いた唐門と翼廊を文化財建造物保存技術協会の指導のもと、保存修理工事が行われている。全体的に江戸時代初期の特徴が見られる。以下のものが広島市の重要文化財に指定されている。また、被爆関連の碑がいくつか存在する。かつて、猿猴橋東詰の西国街道との交点からここの鳥居までの参道筋には約500メートル規模の並木が存在した。まず、慶長元年(1648年)神社創建時に参道にはマツが植えられた。このマツ並木は枯れたことにより西国街道側1/3がマツ、残り2/3の神社までがサクラ並木となった。このマツ並木は東松原と呼ばれ現在の南区松原町の由来である。ちなみに参道筋から街道筋へとマツ並木は続き、街道筋の並木は別にいろは松原と呼ばれた。このサクラおよびマツ並木は江戸時代の天明年間(1795年頃)の地図に記載されており、戦前の絵葉書にも登場している。参勤交代の際にこの東照宮に参拝した大名が通っている。第二次世界大戦終戦まで存在していたものの、被爆により全滅した。現在は道路改良により道筋自体が変わっている。
出典:wikipedia
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