清原 宣賢(きよはら の のぶかた、文明7年(1475年)- 天文19年7月12日(1550年8月24日))は、室町時代・戦国時代の公卿・学者。官位は正三位少納言。子は、嫡男業賢、吉田家を継いだ吉田兼右、等貴(牧庵)、周清(相国寺恵林院南豊軒主)、和歌古今伝授を受けた細川藤孝(細川幽斎)を生んだ娘(智慶院)など。孫は千秋輝季室、枝賢(えだかた、業賢の子、娘にマリア)、教重。吉田神社詞官神道家吉田兼倶の三男だったが、明経博士だった清原宗賢の養子として入る。宮中に仕えて講義を行い、明経道を整理して和漢にわたる著作をおこなった。享禄2年(1529年)に宮仕えから身を引き、剃髪して環翠軒宗武と号し、学者としての活動に専念した。越前国一乗谷にて天文19年(1550年)に76歳で歿。福井市徳尾の禅林寺に墓所が残る。国学者・儒学者で歴史上屈指の碩学とされ多くの著作があるが、そのなかでも各種の抄物は現在も多く伝わり、日本国学研究の基礎資料となっている。なお、清原家は四代後の秀賢から舟橋家を称したため、宣賢を船橋大外記宣賢と記した史料もある。
出典:wikipedia
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