山科本願寺(やましなほんがんじ)は、京都市山科区にあった浄土真宗の寺院。本願寺第8世法主蓮如により、文明15年8月22日(1483年9月23日)に完成・建立。周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していた。天文元年8月24日(1532年9月23日)、六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。現在、跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院が建っており、南殿跡が大谷派の光照寺に、土塁跡が山科中央公園にある。南殿跡と土塁跡は2002年、国の史跡に指定されている。文明10年(1478年)から造営され、約6年間で建設されたと言われている。山科盆地の中央より西側にあり、四ノ宮川と山科川(旧音羽川)の合流地点で、当時は山城宇治郡に属する。この地域は東海道から宇治街道へ抜ける分岐点、交通の要所であった。天文元年(1532年)の『経厚法印日記』によると「山科本願寺ノ城ヲワルトテ」と記載が見受けられることから、当時より城として呼称されていた。寺院が城に変化できたのは加賀より城造り人夫を呼び寄せて本格的な城郭に仕上がったのでないかと思われている。山科本願寺の構造は「輪郭式」あるいは「回字式」と言われる近代城郭の縄張であり、この周辺、この時代の戦国大名ならびに国人の居城は山城であるのに対して、山科本願寺は平城で一世紀前に近代城郭の要素を含んでおり、『中世城郭辞典』には「城郭史上、特筆すべき城郭跡といえる」と解説されている。山科本願寺の跡地は20数回の発掘調査が行われているが、山科本願寺時代以前にも数多い遺構・遺物が発掘されており、山科本願寺やその周辺では古来より要所として発展していたようであるが、鎌倉時代以降は急速に遺跡が発見されなくなる。これは何らかの地形の変化があり、四ノ宮川と山科川によって形成された扇状地になり、水田開発が困難になったためとも推察されている。寛正6年(1465年)、最初は大谷本願寺にあったが延暦寺宗徒の攻撃をうけ破壊されると(寛正の法難)、蓮如は越前吉崎御坊に移り、大谷本願寺の再建を願い京都に近いこの地を選んだのではと考えられている。文明10年(1478年)に造営が開始され、「向所」「寝殿」「御影堂」、そして文明13年(1481年)の「阿弥陀堂」の落成をもって中心部「御本寺」が完成する。文明15年(1483年)には「内寺内」「外寺内」が完成する。延徳元年(1489年)山科本願寺の東側に蓮如の隠居の地となる南殿が造営される。 明応8年(1499年)3月25日、蓮如は85歳で没する。その後、第9世法主実如、第10世法主証如の時代に移っていくが、『戦国の堅城』には「山科本願寺が本格的に城郭化していったのは実如と証如の時代で、天文元年の焼き討ちに近い時代に完成されたのではないか」と記されている。享禄5年(1532年)7月28日、法華一揆が蜂起した。これには熱心な法華信者で、飯盛城の戦いで自害した三好元長の仇打ちという側面もあったと考えられている。法華一揆の蜂起により、細川晴元は直ちに法華一揆衆と手を結んだ。改元後の同年(天文元年)8月23日、山科本願寺への布陣が整った。戦いは8月24日早朝より開始される。攻城軍が寺町周辺を放火して回り大勢が決した。山科本願寺は社坊ひとつ残さず灰になって落城したのである。山科本願寺は消滅したが、この戦いではまだ決着はつかず同年9月末に、再び山崎周辺で一向一揆衆と法華一揆衆と戦闘状態になり、この時は一向一揆衆が勝利し付近を放火、京都に攻め入ろうと情勢になったようだが、法華一揆衆が洛中で打ち廻りを行い、10月になってようやく平静に戻った。山科本願寺がどのような寺院、城郭であったかについて、天文元年(1532年)8月24日『二木水』の条ではと記載されており、「仏の国」と言わしめる程の壮大なものであった。山科本願寺やその周辺では各年代の遺構が発掘されていたが、築城直前は荒野になっており、京に近く広い敷地を欲していた蓮如にとっては山科はうってつけの場所であった。規模は南北に1km、東西に0.8kmに及ぶと推定されている。山科の地は交通の要所ではあったが、要害の地ではなかった。この地が選ばれたのは防衛を目的にしたものではなく、宗教上の理由が高いと考えられるが、次第に周囲との軋轢が生じるに伴い防御能力を増していったのではないかと思われ、地形の弱点をカバーするため『戦国の堅城』では複雑な土塁と堀を用いたと解説している。平城の防御能力を増すために最も良い方法は、城内の様子を敵方に解らなくすることで、その為に巨大な土塁を築いたのではないかと考えられている。また昨今の発掘調査で土塁、堀の構造が明確になってきた。土塁に関しては、高く積み上げるため粘質土と砂礫(されき)や石を層にして交互に内側に向けて積み上げていく工法や、「大ホリ」と言われる部分では、幅12m、深さ4mと巨大な堀が発掘され、この正面には排水するための石組暗渠が確認されている。現在山科公園にある土塁跡は、東西75m、南北60m、高さ7mの巨大な土塁跡がある。これは内寺内の東北部に位置し、これら土塁跡は国の史跡に指定されている。また山科本願寺は古絵図が残っており、これによると虎口や土塁の各コーナーには横矢がかかる太鼓櫓のような建物が見受けられるため、単なる防御施設だけではなく、攻撃施設としても併用していたと思われている。山科本願寺の寺地は、城郭の曲輪に準じていて、大きく4つの区画から成る。本丸に相当。主な建物として「御影堂」(寺内最大の建物)「向所」「寝殿」「阿弥陀堂」等があった。現在この周辺は宅地化されたうえに国道1号線と東海道新幹線が横切り、寺跡であったことをしのばさせるものはない。唯一東側に、主要部分を防御していた土塁跡がある。二の丸に相当。古絵図には「家中」と記載されているので、蓮如、実如、証如の家族等が住んでいたと思われる。南側では佛光寺より帰依した経豪が寺院や多屋が建てられていた。更にその南側では在家信者の町屋があったと思われる。山科本願寺の戦いの諸口というのは御本寺と内寺内の境「ミツオチ」という部分(現在この部分は土塁の案内看板がある)から侵入を許した。堅城を誇った山科本願寺であるが、一旦侵入を許すとそこは市民の生活の場であり、もろく簡単に崩れさってしまう。三の丸に相当。内寺内の南側同様在家信者の町屋があったと思われる。『本願寺作法之次第』では、絵師、飴屋、塩屋、酒屋、魚屋等の商衆が住んでいたとの記載が見うけられる。蓮如の没後は外寺内に御廟所(墓)が設けられた。南殿は蓮如の隠居施設と思われているが、2001年の発掘調査では2重の堀、土塁、柵列、溝、物見櫓風建築物跡などの防御施設が確認され、単純な隠居施設ではなかったのではないかという指摘もある。また内部は庭園、持仏堂、壕(ほり)等が現存しており、現在は南殿光照寺の南側、音羽伊勢宿町一帯に遺構が残っていてこちらも国の史跡に指定されている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。