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ウィリアム・C・デュラント

ウィリアム・クラポ・“ビリー”・デュラント(William Crapo "Billy" Durant, 1861年12月8日 - 1947年3月18日)はアメリカ合衆国の企業家で米国自動車産業界の先駆者。馬車製造販売事業でミリオネアとなり、自動車産業創成期にゼネラルモーターズ(GM)を創業した人物。ウォール街(株式市場)では相場師としても名をはせた。デトロイト流の自動車製造方法はヘンリー・フォードが築いたということはよく知られているが、デトロイト流の自動車販売方法は誰が築いたのかあまり知られていない。それがビリー・デュラントだった。すでに考えていた有力者は幾人もいたが、実際に、顧客による選択、業界統合、自動車流通に関して先鞭をつけたのはデュラントがGMを組織したときだった。「ゼネラルモーターズを作った人物:自動車開拓時代の巨人たちの多くとは異なり、デュラントは工房の技術屋ではなかった。他の人たちが自動車を作り上げたのに対して、彼は組織を作り上げ、しかも、それを華々しい火花とともにやった。」デュラントの伝記を記したローレンス・ガスティン(Lawrence Gustin) ()デュラントはゼネラル・モーターズを1908年にミシガン州フリントに創設した。1度ならず2度も経営権を失った。デュラントの物語はビジネスの世界での成功と失敗である。そして、決してあきらめない不屈の努力の物語でもある。()ビリー・デュラント(Billy Durant)として知られる。「小柄で、活力に満ちた、心の温かい人物。誰もが親しみを込めてビリーと呼んだ。」(アルフレッド・D・チャンドラー)。小柄であったためリトル・ビリーともよばれた。クラポあるいはクラポーとして一般に表記されるミドルネームの実際の発音は「cray-po(クレイポ)」となる。ボストンで生まれる。6歳の頃母子家庭となった。母方の祖父が裕福な家庭で、南北戦争時代にミシガン州知事を務めた名士一族であったため、祖父の地ミシガン州フリントに、デュラント10歳の時移った。学業途中から働き始めさまざまな職業を経験する中で天性の営業センスを発揮した。25歳の時に友人とともに馬車販売会社を起業。当初下請けに出した馬車製造も含め、部品製造・組立・内装・塗装を自社グループ企業での垂直統合で効率をあげて大量生産をおこない、一方で全米各地に販売網を整備し、全米最大の馬車製造会社となり40歳を前にミリオネアとなっていた。それまで嫌っていた自動車だったが、この手腕を買われて40代半ばの1904年につぶれかかったビュイック社事業を請われた。技術力はあったが経営力がなく破産寸前だったビュイック社だったが、自身の馬車事業ですでに手がけていた生産の垂直統合、販売網の活用、プロモーション方法をビュイック事業に適用し、短期間で全米トップの売上に成長させ成功させ、同じ新興企業のフォード・モーターなどと全米トップを争うまでになった。次いで、ビュイック社を土台とした自動車産業界の企業トラストを目指して、1908年にゼネラルモーターズ(GM)を設立した。傘下には2年の間に30もの会社を束ね、ビュイックで行っていた垂直統合を、さらに多数の会社の企業合同による水平統合に拡大した。この時期の代表的な傘下企業に、オールズモビル、キャディラック、オークランド(ポンティアック)、ACスパークプラグなどがある。関わった人物には、チャールズ・W・ナッシュ、ヘンリー・リーランド、ウォルター・P・クライスラー、チャールズ・スチュワート・モット、ルイス・シボレーらがいる。しかし企業買収による拡大策の中での失敗が財務に影響を与え、1910年に銀行の意向によってGM経営権を剥奪された。デュラントはGM取締役を兼ねながらGM外で複数の自動車会社を起業した。1911年にビュイックレースチームのレーサールイス・シボレーをコンサルタントとして起業したシボレー社だったが、デュラントの意向に沿った低価格大衆車を販売して短期間に人気となった。デュラントは、ピエール・デュポンの個人的支援を得てGM株を買い戻し、一方でシボレーの成功をばねにシボレー株をGMの株式と交換することで最終的にGMの過半数の株式を所有することに成功した。シボレー社がGMの最大株主となった。1915年にGM経営に復帰したデュラントは再び買収による拡大策に奔走した。個人での企業買収さえもしながらGMに吸収させた。こうして当初はデュラントの個人的な買収企業にいたアルフレッド・P・スローン(後の会長でGM的経営の祖)やチャールズ・F・ケタリング(GM研究所長)などのちにGMを世界の優良企業に築きあげる人物を事業買収と共にGMに迎え入れた。1920年、第一次世界大戦後の金融危機にGM株が暴落した。株価維持のためにデュラント自ら株の買いざさえに出たが却って莫大な負債を負う結果となった。GM破綻を恐れたデュポンはの資金援助によって危機を脱した。デュラントはGMを去り、ピエール・デュポンが後任となった。デュラントは、自ら創設したGMから追放されても、自身の株取引能力で何度も富豪となった。GM追放後すぐに自らの名を冠した会社デュラント・モーターズを設立し自らの信じる自動車事業を継続した。ウォール街での金融取引の中心人物の一人となり「ウォールストリートのブル(雄牛)」と呼ばれた。銀行も手がけた。個人的に複数の自動車会社の大株主となり、デュラント社を核とした企業群で再び幅広い購買層のための複数ブランド車種を取り揃えた。1929年秋にはじまる世界大恐慌後に会社と自身が破産した。70歳を過ぎてなお新規事業に意欲を燃やし、デュラントはレクリエーションやレジャーが次世代産業となると確信して、スーパーマーケット、ドライブインレストラン、ボウリング場などを経営した。デュラントは死ぬまで自分の信じるところを突き進んだ。1947年に85歳で亡くなった。天性の起業家。販売の天才。デュラントの経歴はローラーコースターにたとえられた。1885年に結婚し2男1女を儲けた。1900年離婚。1908年に再婚し生涯をともにした。再婚後の子供はいない。自動車産業創成期で今日まで名前が残る自動車会社の多くはメカニックやクラフトマン(現代のエンジニア)と呼ばれる人が創業した。しかし、デュラントはそうではなかった。デュラントはGMで車種構成、流通販売網、自動車ローンなどで現代の自動車販売方法の基礎を作り、自動車会社が車両メーカーと部品メーカーを統合する垂直水平統合の基礎を形作った人物である。これは最終的にデュラントがGMに招聘したアルフレッド・スローンによって完成された。デュラントは、販売を重視したうえ、株式を活用した資金調達など財務面でも独創性を発揮した。一方で在庫管理が苦手で技術者の意見を聞かず組織について無関心だったことが二度にわたる経営危機を招いた。アルフレッド・スローンによってGMは合理的な経営体制を確立し、また、そのことによりGMは長らく現代企業の経営の模範される会社となった。潰れかけた自動車会社ビュイック社を託され全米トップの会社とし、ビュイック社を核としてゼネラル・モータース(GM)を創業した。自動車産業に携わる以前に馬車製造事業で全米のリーダー的地位を築いていた。いつも物事をより大きく考え、馬車製造で大量生産を実践した。また後世に垂直統合と呼ばれる形態をすでに実践し、これはゼネラルモーターズに引き継がれた。GMでは同業者のトラストだけでなく部品産業まで統合した水平垂直統合のさきがけを実践し、後に自動車帝国とよばれるようになりアルフレッド・P・スローンによって完成される会社のその基本的な方向性を作り上げた。デュラントは波乱に富んだ人生を歩み、GM追放後も、常に前向きに時代の先を見た起業家精神を発揮した。デュラントの創り上げた帝国を企業経営における模範企業にまで高めたアルフレッド・P・スローンはデュラントを「不世出の企業家」と称(たた)えている。一文無しからはじまり大富豪となり生涯の最後は再び一文無しとなり静かに人生を終えた。一握りの資産家が支配していたウォールストリートで活躍した数少ない人物だった。米国自動車創業期の主要な乗用車会社をまとめたゼネラルモーターズの創設者。GMは自動車企業連合の持株会社として組織された。その後の自動車業界のマルチブランド化と、クラス構造をつくりあげる原型となった。馬車経営の時代にすでに自社ですべてをまかない大量生産で低価格を志向していた。大衆車を現実のものとしたフォードを評価し、自身でも大衆車としてのシボレー車を作りのちにGMがシボレーによりフォードを首位から落とす端緒を作った。大衆が自動車を購入するために必要と考え自動車ローンを創設した。マサチューセッツ州ボストン生まれの父ウィリアム・クラーク・デュラント、マサチューセッツ州ニュー・ベッドフォード生まれミシガン州フリント育ちの母レベッカ・クラポ・デュラント(1833-1924)の子としてボストンに生まれた。母方の祖父ヘンリー・H・クラポ(1804-1869)は捕鯨船の港町であったマサチューセッツ州ニュー・ベッドフォードで造船と捕鯨で財を成したのち1856年フリントに移った。ミシガン州フリントはデトロイトの北西に100キロ弱程の川沿いにあり鬱蒼(うっそう)と茂る森林のなかのインディアン村落跡の町であった。クラポは邸宅を構え製材業を営んだ。街はまだ造成中であり家業は繁盛した。高品質の木材は近隣だけでなく東部のニューイングランド方面でも使用された。鉄道事業も興しこれも成功させた。ミシガン一の事業家となったヘンリーは1860年にフリント市長、南北戦争時代の1864年から4年間はミシガン州知事を2期務めた。ヘンリーは息子1人、娘9人の10人の子を儲けた。一人息子のウィリアム・ウォレス・クラポ(William Wallace Crapo:1830-1926)はニュー・ベッドフォードで弁護士となりクラポ&クリフォード(Crapo & Clifford)事務所で活動したのち、共和党員としてマサチューセッツ州議会議員(1875-83)、1884年にはマサチューセッツ州選出国会議員を務め、またBedford Institution for Savings社長を務めMerchants National Bank in New York Cityの取締役でもあった。母レベッカ・クラポ(Rebecca Folger Crapo)は、父ウィリアム・クラーク・デュラントとは、ウェブスター・ナショナル・バンクの銀行家として、祖父ヘンリー・クラポがニューイングランドでの事業投資先を探していた際にマサチューセッツで知り会った。父ウィリアムはミシガンの鉄道事業での株売買などでヘンリー・クラポの仕事を手伝い、ヘンリーの9人娘の一人レベッカ・クラポと1855年11月に結婚した。2人は娘レベッカ(1857-1903)に次いで息子ウィリアムを儲けた。祖父ヘンリーはウィリアムをウィリー(Willi)と呼びかわいがった。ウィリーの3歳の誕生日には第57ミシガン義勇隊少佐に任命し、7歳の誕生日には大佐に任命したほどだった。一方、父ウィリアム・クラークは銀行を退社し株式ブローカーとなったが株投資で失敗し酒にたよるようになった。その後、父ウィリアム・クラークとレベッカは離婚した。祖父ヘンリー・クラポはウィリー7歳の時にすでに亡くなっていたが、1872年、ビリー10歳の年に、母レベッカは親族を頼りフリントに居を移した。ビリーはフリントの公立小学校に通った。成績は並みだったがつきあいがうまくみなに好かれた。模範となる父はいなかったが製材業と銀行を営む伯父叔父たちに囲まれて育った。クラポ製材所の写真 (Crapo Lumber Mill, Flint circa 1872)1878年、伯父叔父から請われ16歳で学校を辞め、クラポ製材所を手伝った。日当75セントだったため夜は近くの店で店員としても働いた。ほどなくクラポ製材所を離れ、特許薬の販売や不動産の営業などを手がけた。タバコの行商では、出張前に出張手当6ドル汽車賃2ドルを要求して雇い主から責められたデュラントだったが、2日で2万2千本のタバコ(葉巻き)を販売し、雇い主を驚かせた。これは若い頃のセールスマンとしての才覚を示したエピソードとして語られている。1881年、フリントで上水道管理業務を請負っていた会社Flint City Waterworksが年老いた社長の代わりとなる若手を探しデュラントを滞納金徴収係として雇った。デュラントは個別訪問先で水漏れや水のにごりなどの苦情処理でサービス改善をおこない徴収率を高めた。電気とガスの検針および徴収や火災保険の売り込みまでおこなった。会社には多額の借金があったがデュラントは8か月で返済しフリントで若手事業家として認められるようになった。1885年6月17日にクララ・ピット(Clara Pitt)と結婚。2人の間に二男一女を儲けた。1885年、娘マージェリー(Margery)、1890年、息子ラッセル(Russell愛称クリフ)が生まれた。しかしクララとは気が合わなかった。デュラントのもの売りの対象が偶然のことで馬車となった。ミシガン南部インディアナ北部は「キャリッジ(乗用馬車)」や「ワゴン(荷物輸送馬車)」の産業が花開こうとしていた時期だった。硬木(かたぎ:)がとれる広葉樹の森林の隣接地帯で中西部には急速に車両を求める市場が育っており、デュラントのカート事業参入は絶妙のタイミングだった。デュラントもドートもセールスマンであり製造は素人だった。製造は地元フリント最古の馬車製造業者W. A. パターソン・カンパニーと1万台の契約で製造を委託した。(ウィリアム・パターソン(1838年カナダ生-1921、1890年フリント市長)。)デュラントとドートは売ることに全力を注いだ。完成品を8ドルで仕入れて12.5ドルで販売した。デュラントは販売の天才で一契約の契約規模をより大きくし常に大量の注文をとった。デュラントはいつも物事をより大きくする方向に考えた。1886年、デュラント24歳の時、水道会社の会議の前に約束の訪問に急いでいると友人のジョン・アルガーがデュラントに声をかけてロードカート(路上用2輪馬車)に乗せてくれた。デュラントはこの乗り心地に感銘をうけた。「コールドウォーター・ロード・カート・カンパニー(Coldwater Road Cart Company)」製のロードカートだった。直径4フィートの車輪2つ、2人乗りの小型だったが、小さな座席の下には簡素だがよく考えられた半楕円のばねが装備され、振動が少なく、でこぼこ道やカーブでも、また馬が速く走っても非常に乗り心地がよかった。デュラントはこれは売れると思った。他の予定を延期し翌日列車で75マイル先のコールドウォーターに向かい、翌々日の朝、会社を訪ねた。日産2台を製作していた小さな工房だった。特許を含め事業を購入したいと申し入れた。「5日間の期限で1500ドルを用意するなら」との合意を得たが、前年に結婚し、家を購入していたデュラントには3500ドルの借金があり、さらなる借金の算段をした。フリントでは伯父叔父たちが営む銀行が2行あった。しかし「身内には後で世話になることがあるだろう」と別の銀行に飛び込んだ。事業をフリントに移転するための500ドルを加算し、シチズンバンク・フリントから90日間の期限で2000ドルを借りた。借金の交渉でデュラントは「うぬぼれ屋に見えないように、そして岩のようにどっしりとした態度」で交渉した。シチズンバンクで応対した頭取のロバート・ジェレミー・ホエーリー(Robert Jeremiah Whaley)は「そのときのデュラントはソフトボイスで笑みを絶やさず自信に満ちた態度だった」とのちに語った。人を説得するときのデュラントは、上体を前に倒し、顔を相手の鼻先までもっていき、けっして押し付けがましくなく、ソフトボイスで語りかけるのが常だった。利点だけを要領よく説明し、あとは相手に考える余裕を与えた。「セールスとは売りつけることではなく買う気にさせること」が後のGM販売の哲学となった。(ロバート・ジェレミー・ホエーリーの養女は9年後の1895年にヘンリーの長女の息子でデュラントの7つ下のいとこにあたるウィリアム・クラポ・オーレル(William Crapo Orrell, 1868 - 1927)と婚姻しフロレンス・ビックフォード・ホエーリー・オーレル(Florence Bickford Whaley Orrell, 1874 - 1959)となった。)商売の種をつかんだデュラントは、金物荒物業(Hardware store)を営み、機械類の販売も手がけていた友人のジョシュア・ダラス・ドート(Joshua Dallas Dort)と1886年9月28日に2人の共同経営会社「フリント・ロードカート・カンパニー(Flint Road Cart Company)」を設立した。ドートは、デトロイト近郊の町インクスターに生まれた。同じ学校の2歳年下にはヘンリー・フォードがいた。ドートは、デュラントの近所に店を開いていた会社の共同経営者兼店員となるために4か月前にフリントにきたばかりだったが、デュラントはドートとすぐに気があった。会社設立出資金としてドートは店の権利を売った金500ドルと母親から500ドルを借りて計1000ドルを用意したが、デュラントが用意したのはわずか50ドルだった。デュラントは販売と経理を担当し、ドートは製作監督を担当した。デュラントは活発で好奇心が強く大胆で何にでも顔を突っ込む性格、ドートは慎重派で注意深く物事を進める性格で、2人の役割分担はうまくいった。展示会は9月末で終了で販売のタイミングとしてはよくない時期だった。ウィスコンシン州マジソンでのイリノイ・アイオワ・ウィスコンシン3州合同農業協同組合の年次博覧会があることを知り、コールドウォーターからの完成品ロードカート1台をすぐにマジソン宛に送り、展示会前日に農業関連製品卸業者の組合長シェルドンを訪ねた。突然の訪問で、しかも日曜日で、それも見ず知らずの若造が持ち込んだ話だったが、シェルドンはロードカートを取扱品に加えてくれた。ロードカートは展示されるとすぐに買い手がついた。展示では15ほどのさまざまな車両が出品されたが、審査で最高賞の「ブルーリボン賞」を受賞した。シェルドンからも100台の注文を受けた。こざっぱりとして、誠実に見え、聞き上手でまた柔らかな話し方で話を進展させられる、商売の何たるかを把握していたデュラントは生粋のセールスマンだった。デュラントはその帰り道の方々(ほうぼう)でこのロードカートを「"ブルーリボン"」として大宣伝をおこない受注契約を重ね600台以上もの注文を抱え帰郷し、フリントでこれをパターソン社に大量発注した。パターソン社への発注は累計1万台にのぼり、すべて完売した。その利益は再び投資にまわした。1895年11月6日にフリント・ロードカート・カンパニーをデュラント=ドート・キャリッジ・カンパニー(Durant-Dort Carriage Company)と改組した。4輪のキャリッジ事業にも進出した。メールオーダーでの販売や、カナダやオーストラリアへの輸出も開始した。全米への事業展開ではデュラントは地域による傾向があることもわかった。たとえば車体の色は東部では黒一色が好まれる。一方、中西部ではさまざまなバリエーションに富む。ピンストライプ模様も人気だった。デュラント=ドート社の販売は好調で生産が追いつかなくなり自社生産も開始した。従来の組立業者や部品業者同士が組合を結成し対抗したため、部材が高騰しはじめた。デュラント=ドート社は広葉樹の森を購入し、車体、車輪(インペリアル・ホイール(Imperial Wheel)社)、車軸(Flint Axle Works)、そのほか、装飾、ばね、塗料(Flint Varnish & Color Works)など部品別に特化した子会社を設立して、上流からの統合生産を手がけるようになった。「原材料から製品の配送までを一貫しておこなうこと」を指して「バーチカル・インテグレーション(垂直統合)」と経済の専門家が名づけるようになるのは後(のち)のことだった。同業他社はまだ受注後組立だったが、デュラント=ドート社は積極的な営業と統合された生産で馬車製造業界で最先端を走った。デュラントがのち生涯のライバルとして意識することになるヘンリー・フォードはデトロイトから一旦地元に戻り父親の農場を手伝っていた頃で、大量生産を先に手がけたのはデュラントの方だった。大量生産をおこない製品を低価格で販売するということは当時としては大胆な試みであり、「自社ですべてをまかない大量生産し低価格で販売する」ということは自動車産業ではフォードで花開いた。しかし、フォード以前にデュラントは馬車産業においてアセンブリーラインを用いた大量生産をおこなった。19世紀中ごろの米国ではワゴン、バギー、キャリッジなど馬車の大量生産がすでに開始されていた。高品質のバギーの価格は1860年代に135ドル、1870年代には100ドル、1880年代に50ドル。インディアナ州のスチュードベーカーは1875年に1万5千台を生産した。デュラントはこれに加えて「市場のあらゆるニーズを多種多様な車両でカバーするという戦略」を馬車産業でおこなった。数年後には自身の創設したGMにおいてデュラント自身がこの斬新な考え方を自動車に対して適用した。デュラントは、デュラント=ドート社で幅広い車種構成を用意した。北はトロントから南はアトランタまでの馬車製造業者を買収し、馬車製造業者をまとめ上げ、これによって取り扱う車種も広がった。また、銀行を営んでいた伯父叔父などからの資本を元に、別系統のキャリッジ製作販売もおこなった。1892年には「ウェブスター・ビークル・カンパニー」を設立し、サスペンション(ばね)付の軽量ワゴンを、また、1894年にはクラポ製材所内に「ビクトリア・ビークル・カンパニー」を設けて伯父叔父の息子に経営させ4輪バギーを製造し利益を上げた。ウェブスター・ビークル・カンパニー(Webster Vehicle Company)はウェブスター(T. P. Webster)、ダラス・ドート、デュラント、デュラントの親類ウィリアム・クラポ・オーレル(W. C. Orrell)が1892年に設立し、ばね付軽量ワゴンを製造した。ビクトリア・ビークルカンパニーは以前のクラポ製粉所(Crapo sawmill)跡に1894年に設立した。デュラント=ドート社の売れ筋トップモデルはブルー・リボンだった。「馬車の世界でのフォードだった」と後のTime誌が評した。他に、エクリプス、スタンダード、ビクトリア、モーリン、ダイアモンドといったモデルや、カリフォルニア専用モデルのポピーなどがあった。デュラントは当初より「販売から製造へ」というアプローチをとった。西部開拓、道路の発展などで馬車需要が高まっていくなかで、デュラントはまず販売を固め、その後に自社製造を行った。1900年頃のデュラント=ドート社は14の工場と数百名の営業を要し、価格50ドルの馬車を日産200台と大量生産し、年間販売数5万台以上、年間利益200万ドルを稼ぎ出し、業界のリーダーとなった。デュラントは全米の販売会社を回り販路拡大に努め、ドートは本社で日々拡大する需要を統括し、2人それぞれの役回りがうまくかみ合っていた。デュラント=ドート社の最大生産は1906年で雇用労働者1000人で日に480台を生産したが、このころデュラントはすでにビュイックに力を入れていた。当時のデュラント=ドート・キャリッジ・カンパニーのオフィス建屋はフリントのウエスト・ウォーター・ストリート315に残っている。デュラントはGM設立後も1913年までここを事業拠点として使用していた。ミシガン州の製材産業は馬車産業に次第に変遷した。1890年頃にはミシガン州に125の馬車製造会社があり、ミシガンは全米の馬車産業の中心となっていた。多くは製材業からの転身で、その生産数の4分の3は、カラマズー(Kalamazoo)、ジャクソン(Jackson)、グランドラピッズ(Grand Rapids)、デトロイト(Detroit)、ポンティアック(Pontiac)、ランシングLansing、フリント(Flint)でおこなっていた。そこでは7000人が働き、従業員は数名の少人数経営だった。従業員は、鍛冶屋、家具屋の技術をやっていたものであれば容易に職に就けた。フリントで馬車製造をおこなっていた「デュラント=ドート・キャリッジ・カンパニー」、「フリント・ワゴン・ワークス」(1882年、1894年創業)、「WAパターソン・カンパニー」の3社によりフリントは全米一の馬車製造地となり、フリントは「ビークルシティ(Vehicle City)」と呼ばれる中心地域となった。全米一とは世界一の製造地ということであり、町のメインストリートには『Vehicle City』の文字を飾ったアーチがかけられた。デュラントはクラポ製材所関連の金銭的および人的な資源をデュラント=ドート社に注ぎ込み、ビークルシティとしてのフリントを先導した。(ビークル・シティのアーチは2004年にフリント市の町おこし事業の一環で復活した。)馬車経営が安定し一息ついたデュラントだった。すでに40歳となった。1901年から1904年までニューヨーク市に出て株を学んだ。仕事上の旅でも所在も知らせずに長期に家を空けるようになっていた。クララとの不和もその要因の一つだった。このとき、がUSスチールという巨大トラスト企業をつくりだすところを目の当たりにした。デュラントが自動車事業を依頼されたのはこの後だった。1893年、J・フランク・デュリア、チャールズ・デュリア兄弟が、米国でガソリン自動車を成功裡に走らせていた。1896年にはヘンリー・フォードがデトロイトでヘンリー最初の自動車を走らせていた。しかし19世紀末の米国では自動車はまだ産業とはなっていなかった。しかし、その数年後の1900年頃ともなると馬車産業はしだいに飽和状態となりつつあり、それまでキャリッジやワゴンを製作していた数社が自動車事業に参入しはじめた。デュラント=ドートとならび世界最大の馬車製造業者であったインディアナ州のスチュードベーカーも片手間ながら自動車事業に参入した。十数年の歴史しかなかった自転車産業も同様に米国特許により米国自転車製造を支配したポープ・マニュファクチャリング・カンパニー(コネチカット州ハートフォード)は1900年時点には自転車以外の事業として自動車産業に参入し、タクシー用途の電気自動車製作販売を手がけた。ポープ社は特許力により米国自転車産業で成功したため、自動車産業においても特許による支配をおこなおうとしてセルデン特許を手に入れた会社である。数百もの技術者、小規模業者が、自動車を実験的に製作していた。開花しようとしていた自動車産業に参入するため、さまざまな会社が地場の資本家から投資を求めていた。ミシガン南部もそういった地域のひとつだった。ミシガン南部はフリントを擁(よう)し、キャリッジやワゴンなど馬車の生産の中心地であったうえ、自動車のもうひとつの重要な要素であるエンジンの技術力が蓄積されていた地域だった。エンジンは定置型の動力として米国中西部の農場で広く普及し、また、船の動力としてモーターボートで使われていた。この頃、スコットランド生まれのミシガン人デビッド・ダンパー・ビュイック(デビッド・ビュイック)がデトロイトで自動車製作を始めた。ビュイックは、水周り関連のバスタブやシンクでの鋳鉄ホーロー引きの技術で富を得、それを元手に1900年にガソリンエンジンを開発していた。ウォルター・マーやユージン・C・リチャードらを雇いビュイックは先進的な自動車を開発したが、技術志向の経営のため資金はすぐに尽き、出資者を変え何度も会社設立を繰り返していた。ブリスコー兄弟からの出資を受け1903年5月19日にビュイック・モーター・カンパニー(Buick Motor Company)となったが経営難は変わらず、ブリスコーは設立の年にフリントの3大馬車製造会社の1社であるフリント・ワゴン・ワークス(FWW)の経営者、ジェームズ・H・ホワイティングにビュイック社を売却してしまった。ホワイティングは馬車を追いかけようとしていた自動車に興味があった。後を受けたホワイティングはデトロイトからフリントへ会社を移し、1904年1月30日には「ビュイック・モーター・カンパニー・フリント」として新たに法人化。デビッド・ビュイックの車両はやっとビュイック初の量産車ビュイックB型として販売された。しかし、ホワイティングもビュイック自動車事業を軌道に乗せることはできなかった。製造されたビュイック車は1903年に16台、1904年に37台だった。デビッド・ビュイック、ウォルター・マー(ビュイック初の2気筒エンジンを製作した)経営陣と、ビュイックに投資していたウィリアム・パターソン(先のフリント・ロード・カートの車両生産元)ら後援者たちは資金不足を心配し、このままでは成功への望みは薄いと考えるようになった。ホワイティングは出資していたフリントの銀行協会のメンバーとビュイック社を黒字にできる経営者としてデュラントに依頼することで意見が一致した。ホワイティングとデュラント=ドートとは馬車事業では競争相手だったが互いの関係は友好的だった。地域の会合、食事会、催し物などでも友人として頻繁に会っていた。デュラントはビュイックを買う資金力も、販売の実力も持っていた。ホワイティングからビュイック自動車製造を引き継いでくれるよう提案されたデュラントはこれに消極的だった。デュラントは自動車は危険なものと考えていた。娘のマージェリーが友人の家の車に乗ることを禁じていた。これは当時の自動車に対する世間一般の意識で、自動車に乗ることは勇気と覚悟を伴う行為とされていた時代だった。信頼性の面でも馬車に比べ劣っていた。頻繁に故障するため使いたいときに使えないことも多かった。しかも自動車(特にガソリン自動車)とは、「うるさく、臭いがひどく、動物が怖がる」という乗り物だった。事業家としてのデュラントは先進的なものに常に関心をもち、1902年には蒸気自動車やガソリン自動車にも試乗していたが、その時点では事業とするだけの魅力を感じなかった。自動車は金持ちの道楽と考えられていた時代だった。デュラントがビュイック社経営に気持ちが動いた逸話が複数ある。ニューヨークから帰ったデュラントのところに、マーがビュイック社をデュラントの馬車工場に乗りつけ、デュラントをドライブに誘ったがデュラントは車を見に出てくることもなかった。ダラス・ドートは興味をもち、マーにわずかの教えを受け運転ができるようになった。ドートは工場にもどって「でてこいよ、すごいぞ、運転できたぞ」と興奮しデュラントに報告したがデュラントはあいかわらず「関係ないね」といっただけだった。マーはあきらめず、その夕方も翌朝も車を乗りつけては何度もデュラントの家の前を通った。車自体ではなくマーの熱心さに打たれデュラントは乗車を承諾した。ビュイック社をデュラントに売ろうとしているのだと知ったのはこのときで、それまではマーが車を売ろうとしていると思いこんでいたのだった。()何かに片足を突っ込んだらすべてをやらないと気がすまない性格のデュラントは2か月間かけてビュイック車について研究をした。2気筒「バルブ=イン=ヘッド(valve-in-head (OHV))」エンジンを搭載したビュイック車を借りたが、いつでもことわれるようにと、ビュイック社から直接ではなかった。自身は技術力は全くないためアドバイスを受けながらミネソタ州のあらゆる道を走行し、壊れたら修理し、また乗るという試運転を続けた。へんぴな片田舎でエンジンがとまってしまい補修部品や燃料やオイルが手に入らないという当時の自動車旅行では当然のように起こった状況にも何度も遭遇した。こうして購入者が出会うであろう災難を味わったのち、デュラントは1904年11月1日にビュイック経営を引き受けることに合意した。(以上) 馬車会社の経営はドートにまかせ、デュラントはビュイック社総支配人(ゼネラルマネージャー)となった。ディビッド・ダンバー・ビュイックはビュイック社長を続けた。フリント・ニューズ・アドバタイザー(Flint News-Advertiser)に50年後語られた話:「1904年夏、フリントの若い医師、ハーバート・ヒルズ(Herbert Hills)がデュラント夫妻と娘を、スコットランドから移民してきたビュイックという人が作った自動車に載せてドライブに誘った。ドライブ最中にデュラントが話すことは車の操縦と機械のことだけで、かなり興味をいだいたようだった。デュラントが後に『このドライブがビュイック総支配人になるという決定に影響した』と話をしてくれた。」と語った。1902年、デュラントの親類であるウィリアム・クラポ・オーレル(William Crapo Orrell)がウィントン車を売ったのがフリントでの中古車販売の最初だった。オーレルは1892年にデュラントやドートとともに、ウェブスター馬車会社を創設している。また、1905年にミシガン州が自動車登録を必須とする法令を施行した際、オーレルがフリントで最初のナンバープレートを取得したが、これはホワイト社製蒸気自動車だった。州では30番目だった。ビュイック社資本はブリスコー兄弟の資本参加で7万5千ドルとなった後、ホワイティング資本に変わっても額には変更がなかった。デュラント=ドートキャリッジ会社のトップだったデュラントの手元に来たビュイックを、デュラントは総支配人に就いた11月1日のその日に資本金30万ドルとし、さらに半月後の11月15日には50万ドルとした。このときデュラントは32万5千ドル分の株を持った。さらに1年もたたずに1,500万ドルに増資した。デュラント=ドート社がビュイック大株主となったが、その一方で、デュラントの指揮の下(もと)で営業員が各家をまわり(自動車ではなく)「ビュイック株」を猛烈な勢いで販売した。デュラント自身もフリント近郊の人々に1日で50万ドル分の新株を販売した。事業説明書も用意せずアポイントもとらずに訪問したが、事業の将来の伸びを説得し、農家でも教師でも店員でも未亡人でも、買ってくれる人であればだれにでも株を分けた。デュラント=ドートキャリッジ会社のトップとしてフリントの名士となっていたデュラントをフリントの人々は信頼し支援した。デュラントは工場を建て、生産設備を設置し、流通組織を整えた。やがてフリントだけでは資金調達がまかなえなくなり、デュラントはさらに遠方からの金銭的支援を求めるようになった。ビュイック社でのデュラントの方針は「信頼性ある車をより安価な中程度の価格で大量販売すること」であり、これは当時としては大胆なものだった。1904年のビュイックは1,250ドルで幌とヘッドライトは125ドルのオプションだった。これをデュラントは馬車販売網を利用し販売した。ビュイック社大株主のデュラント=ドート・キャリッジ・カンパニーの馬車販売網を利用し、すでに形成されていた馬車の卸(おろし)と小売の国内販売網をそのまま自動車の販売網として活用した。デュラントはビュイックを多くの人に知ってもらうために時間と労力を費やし、大陸横断やレースなどのイベントによる宣伝にも努めた。レースでの宣伝活動では、ワイルド・ボブ・バーマン(Wild Bob Burman)らが活躍し、次いでルイス・シボレーが加わった。ルイス・シボレーは1905年のバンダービルトカップレースでバーニー・オールドフィールドを破り高名をはせた。ビュイックチームは1908年から1910年で優勝500回を数えた。ルイス・シボレーとアーサー・シボレー兄弟に出会ったデュラントがルイスをビュイックのレーサーとして、アーサーはデュラントの運転手として雇っていた。このような努力の結果、つぶれかけていたビュイックは急成長した。デュラントは1905年1月にニューヨーク市で開催された第5回ナショナルオートモビルショー(National Automobile Show)にビュイックB型を出展し1,000台を超える契約を取り付けた()。1905年はガソリンエンジン車の方向性が明確になった年でもあった。それまで全部で53台しか製造されていなかったビュイックガソリン自動車が1905年には5000台も販売された。ビュイックは知名度を上げ販売はフォードと肩を並べた。フリント市北部とジャクソンには大規模な組立工場が建設され、フリントとジャクソンは西部金鉱のキャンプ地を思い起こさせるような賑わいを見せた。1905年にはデュラントはジャクソンでデュラント=ドート社の車輪製作子会社として設けて数年間使用されが当時遊休施設となっていた「インペリアル・ホイール(Imperial Wheel)社」の工場をビュイック社ジャクソン工場として操業を開始した。この年、22馬力のC型を定価1250ドルとして販売開始し、725台を売った。1906年には1400台となった。カナダでもビュイックを販売した。1867年からMcLAUGHLIN Carriage Company of Oshawa (Ontario-Canada)で馬車製造販売をおこなっていたカナダのRSマクローリンと組んで1905年にカナダでのビュイック販売に乗り出した。RSマクローリンはGM経営権剥奪後にデュラントが手がけたシボレーでもシボレー・カナダでデュラントに協力し、デュラントGM復帰後はGMカナダ設立にも寄与し、GM役員となる人物。デュラントと最後まで交友を続けた数少ない生涯の友人だった。カナダとGMとの長い関係はRSマクローリンとデュラントとの交友に始まった。大量販売を目指すデュラントと車一台一台に丹精を込めたいデビッド・ビュイックは対立した。オールズとフォードに対するビュイックの差別化をパワーに求めていたデュラントは、オールズモーター社をやめたアーサー・C・メイソン(Arthur C. Mason)を、デビッド・ビュイックが社を去る以前から内緒で雇い、より強力なエンジンの開発をさせた。ビュイックのエンジンは毎分1800回転だったがメイソンのエンジンは毎分4000回転以上を出した。株主はデュラントに味方し、デビッド・ビュイックは1906年に52才で自身の名前を残し会社を去った。その後のビュイックの成長やゼネラルモーターズの発展にはデビッド・ビュイックは全く関与しなかった。ビュイック社大株主の一人としての立場は認められていたデビッド・ビュイックは、デュラントがビュイックを発展させたおかげで資産家となった。しかし、その後も金に執着せずやりたいことをやり、財産は残さなかった。ビュイック車は大量販売された。成功したビュイック車としてF型やG型、ビュイック10型といった2気筒モデルがある。1906年、売上高200万ドル、利益40万ドル、1907年、売上高420万ドル、利益110万ドル、1908年、売上高750万ドル、利益170万ドルとビュイック社は大成功した。デュラントはビュイック社の優先株の株主への配当を毎年おこなった。デュラントは、1908年までの4年間で、倒産寸前のビュイック社を当時世界最大規模の自動車メーカーとした。1907年はフォードN型で8423台を販売したフォードが世界1位の販売台数だったが、1908年にはビュイック車販売は8,820台(8487台や8847台とも)となり第1位となった。そのうち、新型「10型」の販売は4,002台だった。(1908年の他社自動車生産量はフォード:6181台、キャディラック:2380台であった。)こうしてデュラントは豊富な資金を得ることができ、次の目標に進むことができた。すでに馬車生産で垂直統合を先駆けておこなっていたデュラントは自動車でもその経験を生かした。車軸がエンジンと同じくらいに重要な構成部分であることを悟ったデュラントは、ニューヨークで車輪や車軸など足回り部分を製作していたチャールズ・スチュワート・モット(CSモット, 1875-1973)とその会社ウエストン=モット・カンパニーをフリントに呼び寄せ、1905年にハミルトン農場跡の広大な敷地内のビュイック工場の隣に一大工場を設けた。GM創設後には、モットの工場はGMとの共同所有となり、CSモット自身はGM取締役兼バイスプレジデントとして、およそ60年間という長期にわたって役員を務めた。CSモットはまた、最後までデュラントと親交を保っていた数少ない生涯の友人の一人となった。デュラントは、フランス人で以前は自転車競技で活躍し、当時ニューヨークの「チャンピオン・イグニッション・カンパニー(Champion Ignition Company)」でスパークプラグを製作していたアルバート・チャンピオンにも、フリントでの操業を要請し新たにデュラント全額出資(のち3/4とした)で同名の「チャンピオン・イグニッション・カンパニー(Champion Ignition Company)」をビュイック工場内に設立(1908年10月26日)している。(ニューヨークのチャンピオン・イグニッション・カンパニーは、1920年になって、フリントの会社を訴えたため、社名はイニシャルを使ってAC Spark Plug Companyに変更した。これは現在のACデルコにつながる。どちらの会社も現在に至るまでスパークプラグの主要企業である。)当初は地元の業者に頼り、ついで実力ある部品会社を地元に招聘することで、ビュイックを強化したデュラントだったが、その枠組みをさらに大きくする考えを描くようになった。米国は1907年にとなった。株価は1906年の半値近くまで下落し景気後退がさまざまな業界に影響を与えた。しかし米国自動車産業は他産業に比べその影響は軽微だった。しかもデュラントの関係していた会社はまったく影響を受けず、ビュイック社は1907年に前年の5割増し生産となった。フリントは恐慌の影響を受けない数少ない地域だった。この時期の米国では多くの地域で銀行が貸し出しを渋ったが、フリントの銀行からはデュラントはいままでと変わらずに現金を融通できた。ビュイック社は1908年には確固たる財務基盤を築いた。世間ではデュラントの名声がさらに高まり、デュラント自身も自分のやり方に自信を深めた。他の事業者もデュラントの考えに耳を傾け、デュラントの大きなビジョンに合流しようと考えるようになっていた。1906年にデュラントは、フリント・ワゴン・ワークスの役員たちと、ホワイティング・モーター・カー・カンパニー(Whiting Motor Car Company)設立を計画した。これは新型4気筒車のビュイック10型の生産増を狙い、以前のミシガン州ジャクソンの工場で生産しようと設立企画した生産会社だった。これは実現せず、ビュイックはフリントでのみ生産された。「ジャクソンの以前のビュイック工場」とは1905年から6年にかけてビュイック車を生産した工場。ここでデュラントがデュラント=ドート社車輪製作子会社「インペリアル・ホイール(Imperial Wheel)社」工場として数年間使用した。ビュイック生産立ち上げ時の1905年にすぐに使用するために建造し、インペリアル・ホイール社がビュイック車の車輪を生産した。デュラントのビュイック投資としてフリント市北部のハミルトン農場跡地にビュイック工場を建設しこれを主力工場とした。ハミルトン農場はフリント・ワゴン・ワークスの道路を挟んだはす向かい。フリント・ワゴン・ワークスでも1903年から1908-9年までビュイックエンジンを生産した。そこではアーサー・C・メイソン(Arthur C. Mason)がエンジン工場長だった。メイソンは後にこのビュイック組立工場の隣にシボレー用大規模エンジン工場メイソン・モーター・カンパニー(Mason Motor Company)をデュラントと共に設立している。フリント市街の古くなったビュイックエンジン工場はGM傘下のランドフル・トラック社(Randolph Truck)が使用し、後の1912年にGMはスターリング・モーター・カンパニー(Sterling Motor Company)に売却され、さらにその後、アーサー・メイソンのメイソン・モーター・カンパニーに売却された。メイソンはこのおかげで、それまで場所を借りていたフリント・ワゴン・ワークス内での操業からこの元ビュイック工場に移転することができた。デュラントは1906年にビュイック工場をジャクソンに移転した際、旧ビュイック社工場をジャニーモーター社(Janney)とし軽量4気筒自動車ジャニー車を製作した。4台の試作ののち、会社はビュイックに吸収した。この試作はのちのビュイック車となった。ビュイック事業を成功させたデュラントは、自動車産業界での企業トラストを目指して1908年9月16日にゼネラルモーターズ(GM)を創立した。これはデュラントがデュラント=ドート・キャリッジ・カンパニーで成功した後に、数年間を過ごしていたニューヨーク市で目の当たりにした企業トラスト『USスチール』結成の自動車業界版を目論んだものだった。フォードによるT型フォードの発表と並び、このGM設立が、『1908年の自動車業界での2つの出来事』といわれる。しかし、デュラントの企業トラストへの夢は容易に実現したわけではなかった。ゼネラルモーターズ設立年の1908年に、デュラントはさまざまな企業合同を模索し、その流れの先にゼネラルモーターズがあった。この年、GM創業を前にした1908年5月28日に、デュラントは鉄道員の娘キャサリン(Catherine Lederer)と再婚した。デュラントが47歳、キャサリンは25歳だった。キャサリンは、デュラントの最初の妻との間にもうけた娘マージェリーの友人であった。しかも、娘のマージェリーよりも年下だった。USスチールで鉄鋼業界の絶対的支配を実現したは自動車産業へ覇権を伸ばそうと1908年に自動車業界の絶対的支配を目指す計画を企てた。当時の自動車製作会社とはその技術が一流であれば、数千ドルの資金で技術者自身が工場を立ち上げ会社を創業できた時代だった。これに「600もの自動車会社がありこれは自動車産業界にとって問題である」とウォールストリート(当時はと同義)が警鐘を鳴らした。「USスチールのような巨大な支配勢力が自動車産業界にできれば、投資家たちの先行きの不安を払拭できる。」モルガンを中心として、はじめに、フォード、ビュイック、REO(レオ)、マックスウェル=ブリスコーの4社連合が、ついで、ビュイック、マックスウェル=ブリスコーの2社連合が画策されたがいずれも失敗に終わり、最終的に、デュラントは一人で企業連合を立ち上げることになった。モルガンのパートナーであるジョージ・W・パーキンズ()がマックスウェル=ブリスコーのベンジャミン・ブリスコー(Benjamin Briscoe)に提案した。ブリスコーはから支援を受けていた。自身も同様の考えを心に抱いていたデュラントはブリスコーからジョージ・W・パーキンスの計画を聞いて話にのった。トラストを狙いトップ4社での株式交換による持株会社設立の画策だった。「自動車業界におけるUSスチールのような支配的な影響力を持つ一大企業連合を形成することを目的としていた」とブリスコーも後に述べている。デュラントによれば、ブリスコーは、パッカード、ピアレス、ピアスアロー、スドッダード=デイトン、ERトーマス、を含めたいと漠然と考えていた。「私は彼に正直にいった。その計画がうまくいくとは思えないな。私の意見としては、大規模すぎる、参加会社数が多すぎる、利害関係が入り組んでいて調停は大変だ。」デュラントは、もっと少ない数の自動車会社で、中程度の価格帯で量産できるような自動車会社で試みるように、とデトロイトのフォード・モーター・カンパニー、ランシングのレオ・モーター・カー・カンパニー、ビュイック、マックスウェル=ブリスコーを提案した。フォードは世人の注目の渦中にあった。特にヘンリー・フォードが重要で、彼が先頭にいなければ隊列は進まないと主張した。1908年時点での4大自動車会社は1907年にN型が好評で販売台数全米一位となったヘンリー・フォードのフォード、1908年に同じく一位となるデュラントのビュイック、そしてランサム・E・オールズのREO(レオ)、ベンジャミン・ブリスコーのマックスウェル=ブリスコーだった。この4社が集まった。第一回目の会合は1908年1月17日にデトロイトのペノウスコットビルディングで開かれた。ブリスコーがREオールズとフォードにそれぞれ事前に個別に会い、話をつけていた。フォード側はヘンリー・フォードとともにフォードの元で働いていたジェームズ・J・コウゼンズが出席した。コウゼンズはのちデトロイト市長を経て上院議員となる人物である。モルガンから提示された条件は、1)株式交換で行うこと、2)評価額はフォードが1000万ドル、REOが600万ドル、ビュイックが500万ドルで評価。これらに対して異論は出なかった。ブリスコーは、4社の購買、技術、宣伝販売のそれぞれの部門を統合して、中央の委員会が全事業方針を支配すべきと説明した。デュラントは、ブリスコーの計画は問題を複雑にすると考えた。個別の会社内の運営での衝突は避けるべきと感じていた。デュラントが求めていたものは持株会社だった。これを聞いて、ブリスコーは南軍と北軍にたとえて「デュラントは州の権限(states' rights)を要求する。私は連邦(union)を要求する」といった。一般的な会話以上のことが話し合われたが、ヘンリー・フォードだけは静かだった。一週間後の1月24日から25日にかけて二回目の会合がニューヨークの法律事務所ウォード・ヘイデン&サタリーを会場とし、ハーバート・サタリー(Herbert Satterlee)を交(まじ)えて開始された。モルガンからの資金提供を受けていたベンジャミン・ブリスコーは交渉の実務をサタリーに頼むのが適切と考えていた。(のちにブリスコーは「フォードの推薦する弁護士を使っていたなら事の成り行きは違っていただろう」とコメントしている。)サタリーはのちにJ. P. モルガンの長女と結婚しモルガン家の一員となった人物で、モルガンの意向、つまり金融界の意向を代表していた。フォード側は、この時点で、「トラストを結成することで価格を上げることを考えているのではないか。フォードは価格を下げて大衆のためのユニバーサルカーとなることのみに興味がある」と発言した。多くの合併が製品価格の上昇を目的としているとフォードは感じていた。しかし、フォードは価格を可能な限り最低レベルに維持し、安価な輸送手段として大量に使ってもらえるようにしたいと思っていた。5月11日ニューヨーク、5月末にも会議が開かれた。ブリスコーの議事録では、「フォードを代表したコウゼンズ(Couzens)とレオ社のREオールズはそれぞれ現金300万ドルとの交換を要求し、モルガンがこれを断ったため、話はまとまらなかった。フォード側は単なる株式交換は望まず現金300万ドルでの売却を希望し、ヘンリー・フォードがGM株主になってGMに縛られるのではなく、手にする現金によって自身が再び一から新会社を設立し独自の活動ができる道を主張した。これを聞いたREオールズはREOも同じく300万ドルの現金を希望すると主張した。デュラントは「株式交換でも現金による買収でも、いずれにしてもフォードやREOが手に入るのであれば安い買い物だ」と考えた。しかしモルガン側は2社合わせて現金600万ドルを賭けるまでのこととは考えなかった。N型である程度の評価を得ていたがT型は発表したばかりでまだ販売に至っていないフォードは世の中一般にはまだそれほどの評価を得ていなかった。モルガンが降り、話し合いは決裂した。この当時のモルガンは、自動車産業界支配のための600万ドル投資を惜しんだのだった。」デュラントの議事録では「具体的な額の提示はなかった」とされている。次いでデュラントはブリスコーとの2社合併を考えた。1908年6月末までにはほとんど合意に達していた。資金援助は特にジョージ・パーキンスが中心となった。会社名はUnited Motors Companyを予定していた。「United Motors Company設立証書(基本定款)は滞りなく申請され、予測できないことが起こらない限り、株式は数日中に発行可能となる予定」とまで準備されていた。ユナイテッドモーターズの株式の配布との名義書換のためにビュイック株を用意しておく準備も整っていた。7月3日にはフリントジャーナルがビュイックとマックスウェル=ブリスコーの合併のうわさを記事とし、デュラントが新合併会社の総支配人(general manager)となると書かれていた。7月になって、当初United Motors Companyとされていた社名は、「インターナショナル・モーター・カー・カンパニー(International Motor Car Company)」とされた。パーキンズがすでに関わっていた他の会社がインターナショナルを社名につけていたためだった。ジョージ・W・パーキンズはインターナショナル・ハーベスターの設立の中心人物であり、またUSスチールの役員でもあった。一方、ビュイックの事業は沸いていた。販売需要も増加し、生産は日増しに忙しくなった。日々、追加がフリント工場で生産された。デュラントは夜遅くまでフリントで働いた。同時にニューヨークでの合併の話し合いも参加し、成功裡な交渉とすべくがんばっていた。この期に、デュラントはこの合併にオールズモーターワークスを交えることに決めた。デュラントは、オールズモビルについては「アメリカの自動車創成期から操業している有名な自動車会社のひとつだが現在は困難に直面している」というほどのことしか知らなかった。オールズモーターワークスは1899年、REオールズの初期の会社だった。ランサム・オールズが銅富豪のSLスミスの資金援助を得て設立し、デトロイトに工場を建てた。1901年に火事に遭い、すぐに建て直された。1901年にはカーブドダッシュ・ラナバウトが425台作られた。つづく4年間は年5000台以上を販売した。ランサム・オールズは1904年にスミスの息子、フレデリック・L・スミス(フレッド・スミス)とアンガス・スミスとの論争のため、社を去った。その後のオールズモーターワークスは坂を転げ落ちた。もっと凝ったモデルを出したが評判とはならなかった。生産台数は1904年に5000台だったが1908年には1055台となり苦境に陥っていた。フレッド・スミスの話は以下の通り。「デュラントがある真夜中にランシングを訪れ、オールズのスタッフを起こした。午前3時にはオールズ工場内を15分間のツアーでギャロップして見て回った。その後、明け方までオールズ売却について話しあった。ビュイックとマックスウェル=ブリスコーが合併した後にこれに加わるという計画とした。」スミス家はモルガンが資金援助していることに興奮し、この事業に参加することに同意した。7月21日、フレッド・スミスはデュラントに手紙で合意を伝え、オールズ株4分の3を出すとした。デュラントは2社合併後のオールズ・モーター社買収までを視野に入れた。フレッド・スミスは、ALAMを主導した人物の一人で、セルデン特許でヘンリー・フォードと法廷闘争を続けた中心人物である。その後、パーキンスとデュラントはパーキンスが用意したニューヨーク=シカゴ間の列車上の特別客室で話合いをもった。彼らが直接話し合ったのは初めてだった。デュラントは両者合併の資本金を150万ドルと見積もったがモルガンのパーキンズは渋々50万ドルだけ新株引き受けに応じただけだった。このとき、デュラントが「自動車は年産50万台となる」とパーキンズに語ったが、保守的な金融界のパーキンズにとってこれは大風呂敷としか思えず、「デュラントは分別のない人物」という印象をもった。一方のデュラントは現金を出さないモルガンを非難した。その後、デュラントはニューヨークのサタリーの事務

出典:wikipedia

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