県立鹿児島医科大学 (けんりつかごしまいかだいがく) は、1947年 (昭和22年) に鹿児島県によって設立された旧制の公立医科大学。本項では、前身の旧制県立鹿児島医学専門学校を含めて記述する。1943年4月の医専開校時は、鹿児島市山下町19番地の仮校舎を使用した。1944年12月に鹿児島市鴨池町の新校舎第1期工事が竣工、純心女学校から買収した校舎と合わせて、校舎は 3箇所となった (第1校舎: 鴨池町新校舎、第2校舎: 旧純心校舎、第3校舎: 山下町仮校舎)。1945年6月の鹿児島大空襲で第3校舎・附属病院を共に焼失した。1947年6月開設の医大予科は第2校舎に置かれたが、1948年8月に GHQ命令により同校舎が純心女学校に返還されたため、鴨池町の第1校舎に医専と同居した。鴨池校舎は、1949年4月発足の医大学部、1952年4月発足の新制鹿児島県立大医学部、1955年7月発足の鹿児島大学医学部に引き継がれた。1955年3月に附属病院が山下町 (現 城山町) に再建された後、病院隣接地 (旧制七高跡地) に基礎学舎を置くことになり、1957年2月に移転した。1974年9月、鹿児島大学医学部学舎は、鹿児島市宇宿町 (現 桜ヶ丘) の現キャンパスに移転・拡充された。医専は鹿児島市山下町 (現 城山町、私学校跡地) にあった県立鹿児島病院を附属病院とした。1945年6月の空襲で焼失し、市内草牟田町の盲唖学校に仮附属病院を、重富村教員養成所に第2附属病院を開設した。1946年、県庁仮庁舎 (県立第二高女校舎) に、同年9月、鹿児島県庁別館に附属病院外来診療所を開設。1947年5月から旧地で附属病院再建が開始されたが、完成間近の 1952年4月に火事で焼失し、再び仮病院の使用を余儀なくされた。1955年3月、旧地に附属病院が再建され、1974年9月の桜ケ丘への移転まで使用された。鹿児島大学附属病院が移転した後、山下町の附属病院跡地には国立南九州病院(現在の国立病院機構鹿児島医療センター)が建設された。
出典:wikipedia
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