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アーニー・バンクス

アーニー・バンクス("Ernest "Ernie" Banks" , 1931年1月31日 - 2015年1月23日)は、シカゴ・カブスに所属していたメジャーリーガー(遊撃手、一塁手)。1977年にアメリカ野球殿堂入り。Mr. Cub (ミスター・カブ)といわれ、カブスの看板プレーヤーであった。バンクスがつけていた背番号『14』は、シカゴ・カブスの永久欠番である。甥は1981年 - 1983年の3年間、レンジャーズでプレーした捕手、ボブ・ジョンソン。1月31日にテキサス州ダラスで生まれ、少年時代はニグロリーグのダラス・グリーンモナークスやブラック・ジャイアンツで投手や捕手の経験がある父とキャッチボールをして育った。高校時代のバンクスは学校に野球部がなかったため、当初バスケットボールや陸上競技に興味を示し、さらに学校に通う傍ら、綿摘み農場でアルバイトをしていた。17歳の時にセミプロ球団アマリロ・コルツと1試合15ドルで契約。にニグロリーグのカンザスシティ・モナークスと月給300ドルで契約。しかし、1951年から1953年にかけて兵役に就いたため出場することが出来なかったが、兵役から復帰したにバンクスは打率.386、20本塁打を記録。シカゴ・ホワイトソックスと争奪戦となったが、1953年9月8日、シカゴ・カブスと契約金2,000ドルで契約した。9月17日にカブス球団史上初めての黒人選手としてメジャーデビューを果たし、1956年に手の骨折で欠場するまで424試合連続試合出場を達成している。にロイ・スモーリーに代わり遊撃手に定着し、全154試合に出場した。打率.275、19本塁打、79打点を記録し、19本塁打はにトロイ・トゥロウィツキーに更新されるまでナ・リーグ遊撃手新人最多本塁打記録だった。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票ではウォーリー・ムーンに次ぐ2位だった。にバットを軽量バットに変え、リーグ3位の44本塁打を記録し、遊撃手としてのシーズン最多本塁打記録を樹立。その内の5本は満塁本塁打でリーグ新記録となった。にはリーグ最多の129打点・47本塁打を記録し、前年の遊撃手としてのシーズン最多本塁打記録を更新。同年、MVPを受賞しているが、チームは72勝82敗と負け越し、負け越したチームからのMVP選出は史上初(1931年にBBWAAによる表彰以降)。もチームは74勝80敗で負け越したが、バンクスはリーグ初の2年連続でMVPを受賞。本塁打王をエディ・マシューズに譲ったものの、2年連続で打点王となった。1955年から1960年にかけてメジャー最多の248本塁打と記録。守備では1958年にリーグ最多の32失策を記録したが、1959年に失策数は11まで減らし、1960年にはゴールドグラブ賞を受賞した。その後は膝の故障に悩まされ、1961年6月23日には連続試合出場が717で途切れた。「メジャーリーグの遊撃手としてはやや守備範囲が狭いのでは?」との声も出てきており、には一塁へコンバートされた。にレオ・ドローチャーがカブスの監督に就任してからは「併殺打の多い2割6分打者」と皮肉を言われるほどだった。9月2日に通算400本塁打を達成し、5年後の5月12日にリグレー・フィールドで史上9人目の500本塁打を達成。9月26日に現役を引退。明るい性格から「ミスター・カブ」、「ミスター・サンシャイン」と呼ばれ、「レッツ・プレー・ツー」と選手を鼓舞し、野球を愛した。バンクスは現在でも出場試合数2528、打数9421、塁打4706、などのカブスにおける球団記録を保持している。シカゴではマイケル・ジョーダンが登場するまで、最高のスポーツ選手だった。バンクスがカブスに在籍中、チームは1度もワールドシリーズへ進出できず、低迷していた。そのため、どんなに個人が活躍してもチームが優勝できない事を、「アーニー・バンクス症候群(シンドローム)」と呼ばれるようになった。マイケル・ジョーダンも1991年にチームが優勝を果たすまで、そのように言われていた時期があった。引退後カブスのコーチを務め、アメリカ野球殿堂入り資格1年目のに得票率83.81%で選出を果たし、8月22日に自身の背番号『14』がカブス史上初の永久欠番に指定された。のメジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チームでは遊撃手として選出された。2015年1月23日死去。83歳没。

出典:wikipedia

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