セミパラチンスク核実験場()は、旧ソビエト連邦のかつての主要な核実験場である。カザフ共和国(現カザフスタン)の北東部、セメイの西方150kmの草原地帯にあり、面積は約18,000km²(四国の面積にほぼ等しい)。1949年から1989年の40年間に合計456回の核実験に使用された。施設は最初の核実験からちょうど42年目にあたる1991年8月29日に正式に閉鎖された。市民の被曝による影響はソ連政府によって隠蔽され、1991年の実験場の閉鎖間際まで明らかにされることはなかった。ソ連崩壊後はカザフスタンの所有となったため、世界の核実験場では唯一、他国による調査が可能となっている。1947年にソ連の原爆開発の最高責任者であったラヴレンチー・ベリヤによってこの場所が選ばれた。ベリヤは、偽ってこの土地一帯が無人だと主張したとされる 。核実験の準備に伴い、実験場郊外に秘密都市セミパラチンスク-21(現在のクルチャトフ市)が秘密警察の指揮下で囚人労働で建設され、関係者が集められた。ソ連最初の核実験RDS-1は1949年8月29日に行われた。付近の街に放射性降下物が降り注いだが、市民への避難警告はされなかった。実験を指揮した核物理学者のイーゴリ・クルチャトフは、後に、もし核実験が失敗したらスターリンの命により銃殺刑に処されることを覚悟していた、と述懐している。実際に秘密警察は逮捕の準備をしていたといわれる。その後、同じ場所(クルチャトフ市から60kmほど西、地図中"Experimental field")で100回以上の地上核実験が行われた。その後、1953年8月12日の水爆装置実験RDS-6(核融合そのものは失敗)、1955年11月22日の初の水爆実験RDS-37、核の平和利用実験(下記参照)などが行われた。なお、RDS-6の実験に当たっては、付近の住民のうち一部の成人男子を放射能汚染地域に滞在させた。これは人体実験だと見られている。またベトナムの枯れ葉剤のようにここでも奇形児が生まれ、ホルマリン漬けで保存されている。その後放射能汚染による住民の健康被害が次第に広がり、地元の研究者たちによる調査が行われたものの、核実験を優先するソ連当局に黙殺され続けた。ソ連末期のグラスノスチにより実験の実態が明らかになると国際的な非難が高まり、1991年8月29日に実験場は正式に閉鎖された。セミパラチンスク核実験場の近辺には、チャガン湖 (Lake Chagan) という名称の人造湖が存在する。この人造湖は、旧ソビエト連邦が1965年に行った地下核実験(チャガン核実験)によって誕生した。核爆発によって大地を吹き飛ばして作った湖であるため、湖の周囲はカルデラ湖のような外輪山が存在する。また、湖とその付近は放射能汚染が激しく、2006年現在においても高濃度の放射線が観測されている。その成因および放射能汚染度の高さから、「原子の湖」 (Atomic Lake) という別名がある。カザフスタンでの反核運動「ネヴァダ・セミパラチンスク」は1989年に組織された。詩人のがリーダーを務めたこの運動は、ソ連での初めての大きな反核運動だった。抗議運動には数千人が参加し、最終的には1991年のセミパラチンスク核実験場の閉鎖に繋がった。ユネスコによると、ネヴァダ・セミパラチンスクは、「核兵器の脅威と戦う必要」について、一般の理解を促進するために肯定的な役割を担ったと言われている。運動は世界的な支援を獲得し、「グローバルな生態学的問題を解決する方法を見つけるための現実の歴史的要素」となった。放射性物質への被曝に対する影響の全貌は、ソビエト連邦の政府当局によって長期間隠蔽されていた。実験場の閉鎖後に実施された健康調査によると、実験場からの放射性降下物によっておよそ20万人の付近の住民が直接的な健康被害を受けたとみられる。特に、様々なタイプの癌の発生率が高く、また放射線被曝と甲状腺異常の間の相関性が観察されている。2006年9月8日に、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルクメニスタンとウズベキスタンの5カ国によって調印された中央アジア非核兵器地帯条約の条約署名式は、実験場の閉鎖15周年を記念してセミパラチンスクで行われた。
出典:wikipedia
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