城郭都市(じょうかくとし)とは、城壁で周囲を囲み堅固に防御した都市を指す。土塁、堀なども防御施設として用いられる。城郭都市の歴史は古く、エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明や、古代ギリシアの各地に誕生している。城郭都市の起源は環濠集落と考えられ、新石器時代に農耕が誕生するとともに世界各地で普遍的に見られた。農耕の発達が始まり集落に富が蓄積されるようになると、これを奪おうとする外敵の脅威に対して防御するため、周囲に堀をうがち土を盛り上げて土塁とした。やがて防御力強化のためより堀を深くし、水を溜め、土塁には柵を設けた。さらに版築、煉瓦や石を積んで壁を作り、壁はより高く、堅固、巨大となり、都市になっていった。これらの城郭都市は古くから都市文明が興隆し、部族、民族間の争いが頻発していた地域において著しい発展を遂げた。中国では「城」の本来の語義は都市を囲む防塁・城壁自体を指していたが、後に城壁で囲まれた内部をも含むようになった。特に城壁のみを指す場合は「城牆(じょうしょう)」という。城壁の内側(内城)を「城」、城壁の外側(外城)「郭」といい区別した。ヨーロッパの都市は、ローマ帝国の軍隊の宿営地を起源としているものが多い。ヨーロッパというのはローマ帝国の市民から見れば、「ガリア」と呼ばれる場所で、「辺境の地」、まともな文明が無い野蛮な者たちが住む場所という位置付けであった。ローマ帝国は領域を広げるにあたってローマ軍を派遣し現地の者たちと戦争を行い、そのほとんどの闘いで現地の者たちを打ち破っていったわけである。ローマ帝国は土木技術に優れており、帝国軍が進軍した場所に、ラテン語でcastra カストラという、「軍事拠点 兼 宿営施設」を構築した。ローマ軍のカストラは、ローマ軍がいなくなった後も残され、現地の者たちがそのまま使い、やがて街となっていったわけである。そういった理由で、ヨーロッパの都市名には"castra"から派生した言葉が残っているものも多い。例えば、Lancaster(ランカスター)のcasterもそうである。ヨーロッパでは、近隣の都市同士の戦いも相当のものがありそれも城郭都市が建設された大きな理由のひとつであるが、もうひとつにヨーロッパは、「ユーラシア大陸」というヨーロッパとアジアの大陸をあわせた巨大な大陸の一部であり、いつでも地続きで外敵が入ってくる可能性にさらされている土地であるので、基本的に外敵に対する対策は欠かせないというところがある。ヨーロッパの城郭都市・城壁都市では、城壁には城門が構えられ、堀がうがたれて跳ね橋などが設けられている場合もあった。城門の外側にもう1重城壁が設けられるなど防備は厳重を極めた。城壁の上には一定間隔で望楼が設置され、壁に開けられた銃眼によって敵を射撃した。城郭都市の内部には、丘陵に領主の城館が建てられるなどして城塞(シタデル)を形成し、周辺には家臣団の他、一般住民も居住した。大きなものでは郭内に耕地があるものもあり、井戸がいくつもあって長期の籠城に耐えられるようになっていた。大陸の主要大都市にはほとんどの場合高い城壁が備えられていることが一般的であり、パリの城壁は市域拡大に併せて放射状に拡張されたし、2度のウィーン包囲に耐えたウィーンは深い堀と総延長4kmに及ぶ城壁に塔と堡塁を備えていた。イスラム文化圏の中心都市であったバグダードも7つの城門を持つ直径2.35kmの円形の城壁で囲まれていたし、東ローマ帝国の帝都コンスタンティノープルは高さ10数メートルの3重の城壁で守られていた。近世に至り大砲が発達したことで、高い城壁は防御の面で重要性を低下させ、実戦に耐えうるために城壁は低くなり、大砲の死角を無くすため、星形に稜堡を配する稜堡式城壁 (star fort) が主流となっていく。しかしそういった城壁も市域の拡張や航空機出現による戦術の転換のため、20世紀中には次々と取り壊されていった。残された城壁は壁上が整備され、線路が敷設されたり、高速道路になっているものがある。日本には本格的な都市が出現する以前の弥生時代に、既に互いに割拠、抗争するクニの防衛拠点として環濠集落が発達していたが、これは統一国家の形成へと向かう中で姿を消した。やがて中央集権的な律令国家が建設されていく中で、中国の都城制の概念が輸入され、国都としての平安京や平城京などは城門や望楼を設け、囲郭都市の体をなしていた。だが、これらの都城は戦時の防衛に耐えられる城壁などは築かれなかった。中世になると博多や堺では都市の周囲を土塁と堀で囲み(環濠都市)、また各地で土塁と堀で囲まれた集落も出現するようになる(環濠集落)。一向宗の寺院も堀や土塁で防御された(寺内町)。その中で最大なのが大坂城の元となった石山本願寺である。鎌倉幕府の本拠地である鎌倉は、馬蹄型の盆地である特性を生かし、西・北・東の三方は山で囲まれ、それを切通しなどを用いて防御施設とし、残る南側も海で守られており、いわば都市全体が自然の地形を活かして要塞化していた。「鎌倉城」と呼ばれることもある。幕府崩壊時には新田義貞の討幕軍の攻撃を一時的に凌ぎ、稲村ヶ崎への迂回突破まで防いだ。戦国時代になり、城が戦国大名の領国経営における支配中枢拠点としての重要性を増してくると、小田原城などに見られるように城下町の周囲に自然の河川や堀、土塁を配した「総構え」という外郭構造が取られる城郭が現れた。主な総構えの城には、などがある。豊臣秀吉は京都の町を全長22.5kmに及ぶ長大な土塁と堀で囲んだ(御土居)。→ #日本
出典:wikipedia
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