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キーロフ級巡洋艦

キーロフ級巡洋艦(キーロフきゅうじゅんようかん "Kirov" class cruiser)は、ソヴィエト海軍の巡洋艦の艦級である。ソ連海軍での計画名は26型軽巡洋艦(キーロフ級)(")である。キーロフ級の主砲として当初は15.2cm砲を採用する筈であったが、より威力のある18cm砲を採用したため、日本ではロンドン海軍軍縮条約の基準を当てはめて重巡洋艦に類別した文献が多い。また、本級の改良型としてマクシム・ゴーリキー級があるが、僅かな違いでしかないためにこれとまとめて26/26-bis型と称することもある。ロシア革命とその後のロシア内戦の混乱がひとまず収まった1933年頃、ソビエト連邦海軍の第二次五ヶ年計画において4隻の巡洋艦の建造が認められた。しかし、革命の嵐の吹き荒れたソ連海軍には優秀な人材の多くが失われ、新時代の巡洋艦像を纏め上げることは難しかった。そこで、1930年代にから外国からの助力を頼る事を決断して、世界各国にオファーを行った所、イタリアが手を挙げた。早速、イタリアから技術者を招聘して技術を学習すると共に、最新の設計であった軽巡洋艦「ライモンド・モンテクッコリ級」の設計図の提供が受けられた。更にその後継艦「エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ級」用の機関一式の設計図および、イタリア軍事企業によるソ連造船所での製造支援の契約を結んだソ連海軍は、イタリア式設計で新時代のソ連製巡洋艦である本級を設計したのである。タイプシップの「ライモンド・モンテクッコリ」級では前檣は近代的な塔型であったが、本級では加工の容易な三脚檣を採用している点や、主砲塔は原案の連装砲塔より意欲的な三連装砲を採用している点が特色である。本級の船体形状はイタリア近代巡洋艦の流れを汲む短船首楼型船体であったが、領海には真冬に流氷に閉ざされるバルト海があるために砕氷船として使えるように砕氷構造の艦首を採用していた。艦首甲板上には18cm速射砲を新設計の三連装砲塔に収めて背負い式で2基を配置した。2番主砲塔の背後には司令塔を組み込んだ操舵艦橋が立つが、前部は窓の付いた覆いがあったが、後部は解放型であったために真冬には冷気が見張り所や艦橋に吹き込んで内部が結氷する欠点があった。艦橋を基部として4段の見張り所を持つ三脚式の前部マストが設けられ、頂上部には測距儀と射撃方位盤が配置された。本級の機関配置はボイラーと推進機関タービンを交互に配置する「シフト配置」を採用していたために、2本煙突の間は前後に広く離れていたが、そのスペースを無駄にせずに水上機施設に充て、水上機射出用カタパルトが中央部中心部に1基配置された。カタパルトの両脇には艦載艇と53.3cm三連装魚雷発射管が左右に1基ずつ置いてあり、水上機と艦載艇は1番煙突の左右には揚収用クレーンが片舷1基ずつの計2基で運用された。副武装の10cm高角砲は爆風避けのカバーの付いた単装砲架で2番煙突の脇に片舷3基ずつ計6基を配置した。2番煙突の背後にシンプルな三脚式の後部マストが配置され、後部甲板上に3番主砲塔が後向きに1基配置された。本級の主砲口径については当初は国際条約に配慮して元設計と同じく15.2cm砲を採用する予定であったが、ソ連はロンドン海軍軍縮条約には調印していない事で条約に囚われない自由な口径を選択することにした。更に、本級の主砲として使える15.2cm砲でもっとも製造年が新しいものでも1906年と言う、改良の余地もない旧式砲しか選択肢がなかった。幸いにしてこの時、「クラースヌイ・カフカース」において採用された「1931年型 18cm(60口径)砲」の運用実績が好評であったので、これの砲架を改良した「1932年型 18cm(57口径)砲」を採用した。この砲を三連装砲塔に収めた。搭載形式は元設計となったライモンド・モンテクッコリ級では連装砲塔4基8門であったが、設計段階で意欲的にも3連装砲塔3基9門に改めた。しかし、元設計が連装砲塔でしかなかったのを三連装砲塔にしたため、細い船体幅に収めるためには砲架は独立型ではなく3門の砲身を同一の砲架に装着した。この設計は砲塔を小型にでき、砲架の構造も単純化できたが、本級の主砲は3門が同時に仰角・俯角運動を行い、発射も交互発射が構造上できず斉射しか出来なくなった。しかも3本の砲身の間隔が接近しているため、斉射時に砲弾が発する衝撃波が相互に干渉し合って散布界が広くなる問題は元設計より悪化した。主砲は重量97.5 kgの砲弾を仰角45度で37,800mまで届かせることが出来、砲塔の俯仰能力は仰角48度・俯角4度で、旋回角度は船体首尾線方向を0度として左右180度の旋回角度を持つが実際は上部構造物により射界に制限があった。発射速度は毎分5.5発である。高角砲は同じく新設計の「1934年型 10cm(56口径)高角砲」を採用した。この砲は15.6 kgの砲弾を仰角45度24,000 m、最大仰角85度で高度14,000 mまで届けられた。旋回と俯仰は電動と人力で行われ、左右方向に176度旋回でき、俯仰は仰角85.5度、俯角5.5度で発射速度は毎分16発だった。これを単装砲架で片舷3基の計6基を搭載した。他に高角砲を補助するために「1941年型 4.5cm(46口径)高角機関砲」を採用した。この砲は3.45 kgの砲弾を仰角45度9,500 m、最大仰角85度で高度6,000 mまで届けられ、発射速度は毎分25~30発であった。旋回と俯仰は人力で行われ、俯仰は仰角85.5度・俯角10度で360度旋回できたが実際は上部構造物により射界に制限があった。これを単装砲架で6基装備した。更に主砲では対処できない相手に53.3cm三連装水上魚雷発射管を2基装備した。 後に1941年に10cm高角砲を8基に増加、1942年には45mm機関砲を3基に減らす代わりに新設計の「1939年型 3.7cm(67口径)機関砲」を採用した。この砲は1.8 kgの砲弾を仰角45度で8,000 m、最大仰角85度で高度6,000 mまで届かられた。旋回と俯仰は人力で行われ、俯仰は仰角85.5度・俯角10度で360度旋回できたが実際は上部構造物により射界に制限があった。発射速度は4.5cm機関砲の約3倍になる毎分100発だった。これを単装砲架で5基を設置したが、1943年に4.5cm機関砲を全撤去して3.7cm機関砲を単装砲架で10基搭載に改められた。艦体中央に53.3cm3連装魚雷発射管を両舷に各1基装備したほか、後部甲板に90~100基の機雷を搭載できる軌条を2条装備した。当初はレーダーなどの電子装備を有しなかったが、第二次大戦に伴うレンドリース法で供与された、アメリカ製のSGレーダーを艦橋と前部煙突の間に、イギリス製の281型レーダーを前方マスト頂上に装備した。いずれも、戦後にソ連国産のレーダーに換装された。機関配置はソ連近代巡洋艦初のシフト配置である。機関配置は艦橋と1番煙突の直下にボイラー缶3基とタービン機関1基で1組として2組前後に配置して機関の生存性を高めた。機関構成はヤーロウ式重油専焼缶6基とアンサルド式ギヤード・タービン2基2軸を組み合わせ、機関出力113.000馬力、速力36ノットを発揮した。航続性能は重油燃料タンクの容量1,280トンから計算され18ノットで3,750海里航行できるとされた。1番艦キーロフには、イタリアから購入したエマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ級軽巡洋艦用の推進プラントをそのまま搭載した。1937年9月の公試では、最大出力113,500馬力で速力35.94ノットを発揮したが、計画速力をやや下回る成績であった。2番艦ヴォロシーロフには、イタリアの技術を応用した国産機関が搭載され、122,500hpで36.7ノットと計画性能を凌駕する性能を発揮した。しかし、ソ連の低い工業水準は細かいところで出ており、造船所を出航した直後にスクリューが破損し、慌てて最寄の船舶修理工場で応急修理を行ってから造船所にてスクリューを交換すると言う笑えないエピソードが残っている。防御方式は原型に基づき広く薄い全体防御方式を採用しており、水線部に高さ3.4mで長さ121mにおよぶ舷側全体に装甲が張られた。水線中央部の1番から5番主砲塔の間が203mmから305mm、艦首・艦尾部では102mmから152mmであった。1番主砲塔と5番主砲塔の手前には横隔壁として152mmの装甲で防御していた。副砲ケースメイト部は89mmであった。当時の水雷防御として水線下の水密隔壁に鋼板が張られた。主砲塔の前盾には150mm、天蓋は100mmで平面であった。バーベット部は甲板上は75mmであったが甲板下は50mmであった。甲板部の水平防御は防御甲板は50mmであった。司令塔は前盾から側盾は150mmで天蓋は100mmであった。1番艦「キーロフ」は、レニングラードの第189造船所で建造され、1938年9月26日に竣工した。「キーロフ」はバルチック艦隊に配備された。第二次世界大戦ではタリンとレニングラードの防衛戦に出動したが、レニングラードでは8発の直撃弾と至近弾を受け、89名の戦死者と58名の負傷者を出している。戦後も運用され続け、1958年4月にレニングラードを定係港とする練習巡洋艦へと改められた。その後、1968年のセベル演習で旗艦を務め、1970年のオケアン演習に参加したのちに、1974年2月に除籍された。2番艦「ヴォロシーロフ」は、ニコラエフの第198造船所で1940年6月20日に竣工した。1959年8月に試験艦に種別変更され、艦名も「OS-24」に改称された。OS-24は主に巡航ミサイルや艦対空ミサイルの試験に用いられるため、主要兵装を撤去してマストは大型のラティス構造に交換された。1972年に宿泊船「PKZ-19」に種別変更され、翌1973年3月に除籍された。(【】内は2番艦「ヴォロシーロフ」)

出典:wikipedia

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