吉川氏(きっかわし)は、藤原南家工藤流の流れを汲む日本の氏族。吉川の名乗りは駿河国入江荘吉川(現在静岡市清水区)の地名に基づくもので、入江景義の子であった経義が在所名を取って初代吉川氏となった。初期での表記は一定せず、吉川以外に「吉河」「吉香」とも書かれている。鎌倉時代になると、梶原景時追討で功を挙げ、播磨国福井荘(現在兵庫県姫路市)で所領を得た。承久の乱で功を挙げて、安芸国大朝荘(現在広島県北広島町)の地頭となった。正和2年(1313年)には吉川経光が本拠を駿河から安芸大朝へと変えた。経光の子らが安芸吉川氏(宗家)、石見吉川氏、播磨吉川氏、駿河吉川氏、境氏吉川氏に分かれた。南北朝時代から室町時代にかけては土佐国の分郡守護に任命される。鎌倉時代末期の正和2年(1313年)に宗家は安芸国に移住し、駿河丸城、続いて小倉山城を拠点に強盛を誇った。その兵は精強で、吉川経基の頃には「鬼吉川」と呼ばれ、他家からは畏怖された。通字は「経(經)」。戦国時代初期に吉川国経の娘を毛利元就が、国経の嫡男・元経が元就の姉を、それぞれ娶った関係から、毛利家と吉川家は姻戚関係となる。しかし元経の嫡男で、吉川家を継いだ興経は、大内方と尼子方への背反を繰り返し、特に天文11年(1542年)から始まる大内義隆による出雲国攻めの際には尼子方に寝返りの末、大内軍は敗走。結果、元就も窮地に追い込んだ。元就の正室妙玖の死後に、元就による吉川家への調略が始まり、吉川家重臣は興経から離反し毛利元就へ味方し、興経は元就の次男・元春を養子に迎え、隠居に追い込まれる。そして天文19年(1550年)に元就の謀略で興経が謀殺され、藤姓吉川氏嫡流は滅亡することになる。その後の吉川氏は元春から元長、そして広家と継承されたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が減封されたため、周防国岩国領主となる。広家以降は毛利家(特に長府藩主毛利秀元)と家格について軋轢が生じ、末家として独立を認められなかった(同じ毛利家中でも長府藩創設には特殊な事情があるため、一概に同一視は出来ない)。しかし幕府からは諸侯の扱いを受け参勤交代等も行っており、広家の子・広正は毛利秀元失脚後に長州藩の執政に就いている。江戸時代半ばに当主となった吉川経永には子が無く、徳山藩主の毛利広豊の子を養子に迎え経倫と名乗らせた。そのため吉川元春から続いた血は絶えることとなった(ただし、経倫の系譜を辿ると毛利元就・妙玖夫妻へと繋がり、母系では吉川氏の血を伝えている)。幕末の動乱期には長州藩を支え、第二次長州征伐で岩国藩兵は活躍して明治維新まで存続し、幕末に朝廷から諸侯としての独立を認められた。明治17年(1884年)には男爵となり、明治24年(1891年)には子爵に陞爵している。また、吉川経幹の三男・重吉が分家して男爵となった。元光の系統は岩国に在住したが、重国は宮内庁に入庁、皇室に入った正田美智子や川嶋紀子のお妃教育を担当するなど、宮中儀礼の専門家として活動した。播磨吉川氏は、吉川朝経が正治2年(1200年)に梶原景時の所領であった播磨国福井庄を得た事に始まる。その子経光は福井庄の西保と東保を分割し、一族の者に東保を相続させた。後に西保は大仏北条氏の支配に入ったが、鎌倉幕府滅亡の後に吉川氏が北条維貞の一族から取り戻している。吉川経景には子が無く、弟の師平の子、経朝を養子とし福井庄を譲った。しかし、経朝が 正平3年/貞和4年(1348年)頃に死去したため、その子の信朝が跡を継ぐも、それ以降は不明である。石見吉川氏は吉川経光の子・経茂から始まる一族で、経茂が石見国の永安別符を所領とする永安兼栄の女・孫夜叉を室にしたことが縁となり、石見との関係性を深めていった。後に石見津淵荘の地頭職を得ることによって石見吉川氏が成立した。その子・経兼は、南北朝の騒乱において母方の実家である三隅氏との関係から経兼は宗家の吉川経盛には従わず、子の経見と共に南朝方に味方した。正平4年/貞和5年(1349年)に母の孫夜叉(良海尼)と兄の経任が対立すると、母に味方して経任を追い落とし、石見吉川氏の家督を相続した。正平5年/貞和6年、観応元年(1350年)から始まる観応の擾乱では足利直義方に味方し、足利尊氏方に従う宗家の経盛とは袂を分かった。多くの戦いで勲功を挙げ、正平13年/延文3年(1358年)に南朝の後村上天皇から駿河権守に任じられている。正平23年/貞治7年、応安元年(1368年)には足利直冬から大朝新荘の地頭職を得ている。後に嫡子の経見が安芸吉川宗家の家督を相続したため、石見吉川氏の所領は兄の経任の子孫に与えて、石見吉川氏を相続させた。戦国時代初期、石見吉川氏当主・吉川経典には夭折した男子しか無く、久利淡路守の子で経典の甥にあたる久利余七郎を養子として迎え、吉川経安と名乗らせた。経安は毛利氏の一族となった吉川氏宗家に従い、吉川元春の部将として中国地方を転戦。その子・経家は名将として知られるが、天正9年(1581年)に鳥取城の戦いにて自害。その嫡子亀寿丸は幼少であったため祖父の経安が養育にあたった。亀寿丸は成人後、吉川経実と名乗り、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦である安濃津城の戦いで奮戦して負傷。京都にて治療中に関ヶ原本戦が終わり、毛利氏の防長移封後は岩国領吉川氏の家老職として仕え、明治を迎えた。吉川経家の三男・家好は後に鳥取藩池田家の家臣となった。五代目三遊亭圓楽(本名:吉河寛海)は、この石見吉川氏の子孫を称している。圓楽が鳥取を訪れた際、地元図書館長が教えてくれたところによると、藩翰譜に圓楽の曽祖父にあたる人物が安政7年(1860年)に切腹したとある。その息子(圓楽の祖父)・寛雅は、当時7歳で父の自死に立会い、「侍というものは、かくも悲惨なものか、もう厭だ」と思いつめて武士を辞め、徳川所縁の増上寺に入り、僧侶となったという。明治に入って寛雅は苗字を「吉川」から「吉河」に改めたとされる。吉川経光の三男・経信が所領を分与され、大朝境の在所名を取って境を名字とした。吉川宗家家臣として活動し、戦国時代の当主・境経輝の娘は吉川経家に嫁いでいる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封されると、吉川広家に従って岩国へと移住し、そのまま幕末を迎えた。現在も当主は岩国市内に居住している。 入江景義(家臣ではなく、補佐として付けられた者も含む)
出典:wikipedia
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