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第78回全国高等学校野球選手権大会決勝

第78回全国高等学校野球選手権大会決勝(だい78かいぜんこくこうとうがっこうやきゅうせんしゅけんたいかいけっしょう)は、1996年8月21日に阪神甲子園球場において愛媛代表・松山商業高校と熊本代表・熊本工業高校との間で行われた第78回全国高等学校野球選手権大会の決勝戦である。延長11回の熱戦となり、延長10回裏にサヨナラ負けの大ピンチを救った、いわゆる「奇跡のバックホーム」は、球史に残る名場面として今も語り継がれている。決勝戦は松山商対熊本工と古豪同士の対決となった。松山商は水口栄二、佐野重樹らを擁した第68回以来10年ぶり8回目の夏の大会決勝進出。熊本工は、川上哲治がエースだった第23回以来、59年ぶり3回目の決勝進出で、熊本県勢初の夏の優勝を目指した。決勝で愛媛代表と熊本代表が戦うのは初めてであり、松山商と熊本工の対戦も初めてであった。ともに公立校同士の決勝戦は、2006年の時点でこの試合が最後となっている。この年の春の大会では鹿児島実が優勝しており、熊本工には史上初の九州勢春夏連覇がかかっていた。決勝戦は、投攻守のいずれも松山商が優位に立つと見られた。主将で三番の今井康剛、6打点を上げている四番・渡部真一郎、打率4割5分5厘の五番・石丸裕次郎のクリーンアップトリオを中心に打線が好調な松山商を、熊本工の左腕・園村淳一がどう抑えるかが注目された。選手権大会の出場は2年連続25度目、選抜大会も含めて3季連続の出場だった。春2度、夏4度の優勝を誇り、特に夏に強いことから「夏将軍」の異名を取っている。ただし第18回、48回、68回と「8」のつく大会では準優勝に終わるというジンクスもあった。OBには藤本定義 、景浦將、千葉茂、谷岡潔など、多くのプロ野球選手がいる。監督の澤田勝彦は松山商在学当時控え捕手であり、同期に西本聖がいたが、甲子園に出場したことはなかった。1980年に松山商のコーチとなり、春1回、夏3回甲子園に出場。1988年9月1日、監督に就任した。3季連続出場は松山商として初めてだったが、過去2季はいずれも初戦敗退だった。愛媛大会では、高校通算75本塁打の“伊予のドカベン”こと今井康剛と四番の渡部真一郎を中心とし、チーム打率3割9分の強力打線に加え、伝統のバントを交ぜる攻撃を見せた。春の選抜大会まで弱かった投手陣は、新田浩貴と渡部の二本柱に地力が付き、県大会準決勝を除き大崩れしなかった。県大会では失策3と堅実な守備力も見せた。甲子園でも決勝までチーム打率は3割1分3厘で、1回戦から3回戦まで二桁安打を記録。準々決勝で春夏連覇を狙った鹿児島実の下窪陽介、準決勝で福井商の亀谷洋平といった好投手を攻略してきた。守備の方も、準決勝で外野フライからの併殺2を記録するなど、伝統の「松山商の守り」ならではのそつの無さを見せた。投手は1回戦、3回戦、準々決勝は新田が、2回戦と準決勝は渡部が先発した。選手権大会の出場は4年ぶり14度目、選抜大会も18回の出場を数える古豪である。OBには川上哲治、吉原正喜、伊東勤、緒方耕一、前田智徳など、多くのプロ野球選手がいる。監督の田中久幸は熊本工、芝浦工大、日産自動車で二塁手、三番、主将を務めた。1973年の第44回都市対抗野球大会では主将として準優勝、1984年の第55回都市対抗野球大会では監督として日産自動車を初の優勝に導いている。同年の世界選手権では全日本の監督を務め、ベスト4に輝いている。長男は熊本工OBで後に阪神タイガースへ入団した田中秀太である。1995年8月、熊本工創立百周年(1999年)に併せ、監督に就任した。ただし、秋の熊本県大会では1回戦で負け、「熊工史上最弱のチーム」と呼ばれたが、翌年はここまで上がってきた。熊本大会では伝統の強力打線で準々決勝まで全てコールド勝ちであり、全試合二桁安打、平均得点10.4だった。投手は風邪で体調を崩した園村淳一の代わりに村山幸一が活躍し、5勝のうち4勝を挙げた。甲子園では2回戦から登場。エース村山が不調だったため、3年生で背番号10の園村が、4試合のうち準々決勝を除く3試合で先発した。準々決勝、準決勝では合計5失策を記録し、守備に不安を残していた。先攻松山商、後攻熊本工で13時00分試合開始、観衆48,000人。NHKテレビの実況は高山典久アナウンサーで解説は原田富士雄 、同時中継のNHKラジオ第1放送では佐塚元章アナウンサーが実況、福島敦彦が解説を担当した。試合経過は以下である。松山商は熊本工の先発園村の立ち上がりを攻め、三連続長短打で1点先取。さらに三連続四球による押し出しで2点を追加した。園村はその後立ち直り、松山商打線を9回表まで0点に押さえる。熊本工は松山商の先発新田から2回に境の適時打で1点、8回に坂田の犠飛で1点を返して小刻みに追撃した。9回裏、2-3と1点差を追う熊本工は四番の西本が見逃し三振、代打の2年生・松村も空振り三振を喫し、土壇場のピンチに立たされた。ここで熊本工ただ1人の1年生である澤村が打席に立つ。捕手の石丸は外角低めのスライダーでボールになる球を要求するも、新田は首を振った。監督の澤田や右翼を守っていた渡部は、新田が直球で勝負するつもりだと思ったが、新田はスライダーのコントロールが効かなくなっていたから、ボールにするためには直球しかないと思って投げている。しかしボールにするはずの125球目の直球は内角高めに入ってしまい、初球から直球を狙っていた澤村はバットを振り抜く。ボールは左翼ポール際に飛び込み、起死回生の同点ホームランとなった。新田はぼう然とマウンドにひざまずき、その周りを澤村は跳ねるように走った。一塁側の熊本工応援団は、三塁塁審浜田正二が右手をぐるぐる回すと、「ウオーッ」という地鳴りのような大歓声で揺れた。座り込んだままの新田を、主将で一塁手の今井が抱え上げる。今井はこの試合でも何度もマウンドへ行って新田を激励し、内野陣に声を掛けている。ホームイン後、三塁手の星加は、澤村が三塁を踏んでいないと、三塁塁審に繰り返しアピールしたが認められなかった。次打者、境は遊撃ゴロに終わり、延長戦に突入する。しかし流れは熊本工へ一気に傾いた。延長10回表、熊本工は井が右翼に入る。松山商は渡部が一塁ライナー、石丸が右翼フライ。向井が右翼前ヒットで出塁するが、久米が三振で無得点。10回裏が始まる前、ベンチで澤田は新田に声をかけたが、「行けます」の一言で続投を決意した。熊本工の攻撃は、先頭打者の星子が左中間を破る二塁打を放つ。澤田は、新田が限界と見て右翼の渡部と交代させた。園村の送りバントで一死三塁。ここで澤田は過去に同じサヨナラの場面で二回負けた苦い思い出があることから、満塁策を決断する。松山商では1969年夏の第51回決勝、対三沢戦で延長15回裏の一死二、三塁、16回裏の一死一、三塁のピンチをいずれも満塁策で切り抜け、延長18回引き分けに持ち込んだことがあった。渡部は野田、坂田を敬遠して一死満塁となり、打席には本多が入った。一塁側の熊本工アルプススタンドはサヨナラ勝ちを確信し、歓声が大きくなった。このとき、右翼にいた新田は「早く矢野さんと代えて」と澤田の方をずっと見ていた。新田は甲子園の三回戦で一度右翼を守っただけであり、右翼の練習をしたことがなく、県大会でも一度も守っていなかった。澤田も右翼を代えるかどうか、ずっと迷っていた。27年前の決勝のように延長が長引けば、もう1度新田を投げさせたいが、この場を凌がないと後がない。左打者のロングヒッターである本多なら、右翼へ打球が飛ぶ確率は低くない。その時どこからか、今を切り抜けなければ次はないという天の声が聞こえてきて、澤田の迷いは消える。澤田は大きな声で「タイム」と叫んだ。渡部は既に右足をプレートに掛け、石丸がサインを出そうとした時だった。矢野勝嗣(まさつぐ)は背番号9を付けた正右翼手で春の甲子園でも先発出場していたが、その後は新田と渡部の二本柱が確立し、新田が先発の時は渡部が右翼に入るため、甲子園でもスタメンは渡部が先発した2試合だけと控えに甘んじていた。しかも打撃も不振で、準決勝では三打席目で代打を出されていた。それでも矢野は腐らず、一塁コーチャーとしてチームをわきから支えていた。澤田は右翼へ向かう矢野に、「信じてるぞ」と声をかけた。プレーが再開され、打席に立った本多は渡部の初球の高めのスライダーを振り抜く。打たれた瞬間、渡部はホームランだとサヨナラ負けを覚悟した。「代わったところに打球は飛ぶ」の格言通りに右翼に飛んでいった大きな当たりは、NHK総合テレビの実況が「行ったー! これは文句なし!」と言ったほどの大飛球である。しかし打球は、甲子園特有の浜風に押し戻された。バックしていた矢野は振り返ると一瞬打球を見失い、慌てて前進して捕球する。それと同時に、三塁走者の星子はタッチアップした。田中は「犠牲フライには十分な飛距離だ、勝った」と思い、澤田も「あ、終わったな」と思った。打った本多も犠牲フライだと手応えを感じた一撃だった。勝利を確信した熊本工ベンチは、両手を高々と上げる。カットマンにボールを返していたのでは間に合わないと判断した矢野は、捕球した勢いで力任せにバックホームするも、二塁手と一塁手の上を越える山なりの球であった。一塁塁審の桂等は、とんでもない高い投球に「これで終わった」と思った。捕手の石丸も、練習で何度も矢野が大暴投していたことを頭に浮かべ、「またやったか」と思った。しかし距離にして80mを超える矢野の返球は甲子園の浜風に乗って加速し、ホームベース三塁側手前にいた石丸の所へダイレクトに飛んできた。星子は石丸が捕球体勢に入るのを見て、かわすように右足から滑り込む。石丸が捕球したミットは、そのまま星子のヘルメットに当たった。星子はスライディング後、両手を広げて「セーフ」とアピールし、石丸はボールの入ったミットを高く差し上げる。一塁側ファールグラウンドで見ていた田中美一球審は、右腕を突き上げ、「アウト、アウトーっ!」と叫んだ。少しでも球が逸れていればセーフとなる、奇跡に近いピンポイントの返球だった。ダブルプレーで熊本工は3アウトとなり、絶好のサヨナラ勝ちの機会を逃した。星子は信じられないような表情を浮かべ、犠牲フライを確信し一塁手前でバンザイをしていた本多は、そのまま呆然と立ち尽くした。なぜあの深い位置からの返球でアウトになったのかと、球場は興奮とどよめきにしばらく包まれた。矢野当人はクロスプレーこそよく見えなかったものの、一塁手の今井が踊るように喜んでいるのを見てアウトと知り、飛び跳ねるように引き揚げてきた。そんな矢野を、澤田はベンチで強く抱きしめた。このスーパー返球は、後に「奇跡のバックホーム」と呼ばれるようになる。延長11回表の松山商の攻撃は、奇跡のバックホームを見せた矢野から始まった。園村の初球、カーブを矢野は左翼へはじき返した。ライナー性の打球がスタンドの白い服と重なった澤村は、ボールをグラブにはじいて後逸してしまい、二塁打となった。続く深堀は送りバントを決めて一死三塁。ここで田中監督はスクイズを警戒し、バントの名手である吉見を敬遠する。一死一、三塁で田中は伝令を出し、追い込んで打たせて併殺するか、スクイズを外す作戦を伝える。しかし初球は見送ると思った田中の読みと異なり、星加は澤田のサイン通り初球からセーフティースクイズを決め、三塁ランナーの矢野がホームベースを駆け抜け、勝ち越しの4点目が入った。星加も一塁セーフ(記録は内野安打)で一、二塁となり、ここで熊本工が最も警戒していた今井がバッターボックスに入る。今まで田中の指示通りの投球でヒット1本に押さえていた園村だったが、スクイズを決められたことで緊張の糸が切れており、3球目の甘いカーブを今井に打たれ、右翼フェンス直撃の二塁打となった。ランナー二人がホームインして6-3となり、勝負はここで決まった。熊本工は投手を村山に交代し、渡部を左翼フライ、石丸を三振に仕留めた。11回裏、熊本工は無死から西本が一塁強襲による失策で出塁、代打木下の一塁ゴロの間に二塁に進んだ。続く澤村は9回に続きまたも左翼方向に打球を打ち上げたが飛距離がなくキャッチアウト、最後の打者・境が三振となり6-3で松山商が勝利した。3時間5分の激闘を制した松山商は、三沢高校との延長18回引き分け再試合以来27年ぶり5回目の全国制覇を果たした。松山商は、春・夏を通じ「大正」「昭和」「平成」全ての年号で優勝を達成した唯一の高校となっている。この伝統校同士の激闘は、高校野球の歴史に残る「平成の名勝負」と呼ばれた。特に矢野の返球は「奇跡のバックホーム」と呼ばれ、球史に残る名場面として語り継がれている。負けた田中監督も「高校生であんな返球は見たことがない」と驚嘆するほどだった。28年前、延長18回を戦った松山商の元投手で朝日新聞記者としてこの試合を取材中だった井上明も、このバックホームには身震いしたと語った。当時中日ドラゴンズの中軸打者だったアロンゾ・パウエルは、「今まで見た中で最高のプレー」と語っている。ただし、矢野と同じ右翼手である福留孝介によると、このバックホームは暴投であると分析している。矢野のバックホームがいちばん多く取り上げられているが、9回裏からの流れも含めて「奇跡」ともいえた。9回裏二死から1年生の澤村による同点ホームランも球場を揺るがした。犠牲フライ直前のライトの矢野への交代。そして11回表は、矢野の打球が澤村の前に飛ぶという奇跡の応酬であった。熊本工の四番だった西本は後に、九回裏にホームランを打たれた新田を今井がまだ負けていないと抱き起こしたシーンと、延長十回裏に本塁死して倒れ込んだ星子を傍にいた西本を含めだれも手を貸そうとしなかったシーンを比べ、これが松山商と熊本工の違いだったと反省している。『週刊甲子園の夏』(朝日新聞出版)の読者アンケートで選ばれた「読者が選ぶ夢のナイン」にて 松井秀喜らプロに進んだ名だたる選手に混じり、矢野勝嗣は外野手で選ばれている(プロ未経験では他に小沢章一(早実)、藤井進(宇部商)が選ばれた)。2015年、造幣局は1915年に全国高等学校野球選手権大会が始まってから100年が経ったのを記念して、「全国高等学校野球選手権大会100周年貨幣セット」の通信販売を行ったが、ケースには年表などとともに名場面の一つとして「奇跡のバックホーム」の写真が掲載されている。スポーツニッポンの公式サイト「スポニチアネックス」で2015年に募集された「私が選ぶ甲子園名勝負!」では、総数2993票中129票を獲得し、第6位となった。『Sports Graphic Number』で2015年に実施されたアンケート「夏の甲子園 記憶に残る名勝負ベスト100」では第5位にランクインした。「奇跡のバックホーム」の主役である矢野勝嗣は、松山商一の強肩ではあったがミスが多く返球もバラバラだった。矢野は真面目で練習量はチーム一だったが不器用で本番に弱く、積極性に欠けていた。当時松山商が守備練習の終わりに行っていた「ノーエラーノック」では守備順にノックを受けて返球するが、最後である矢野はよくミスをして、ノックが最初からやり直しになったり全員が走らされたりといったことが続いたことから澤田には怒鳴られ、同級生のチームメイトから辞めてほしいとまで言われたことがあった。松山商の外野手のホーム返球は、中継かワンバウンドが決まりであったが、矢野はダイレクトになるミスが多かった。ただし澤田はこの年の6月に、サヨナラの場面では定位置より後ろからはダイレクトに投げるケースもあると外野手に教えていた。澤田本人は忘れていたが矢野自身は覚えており、澤田は真面目な矢野らしい話だと語っている。矢野は「奇跡のバックホーム」と11回表の二塁打と、たった2球で高校野球生活のすべてを出し切った。矢野は卒業後、「最後に出てきて、いいところだけ持っていった」と当時のチームメイトにからかわれるようになる。矢野はテレビ局の取材でこのときのバックホームの再現を試みるも、1球もホームに届かなかった。矢野は松山大学に進み、3年生でレギュラーとなる。4年生で主将となり、2000年の大学野球選手権に出場している。卒業後、愛媛朝日テレビに入社した。矢野自身は、活躍できたのは決勝の最後だけであり、失敗が多く消極的な人間なのに、どれだけすごい奴なんだと周囲からみられてそのギャップに悩んだ時期もあった。しかし年を重ねるにつれあの経験を一生背負っていこうと前向きになり、当時の話も積極的にできるようになったという。矢野は愛媛朝日テレビで長く営業職(主に東京支社営業部)を務めた後、2014年に報道制作局へ異動。2015年4月からは『スーパーJチャンネルえひめ』でスポーツキャスターを務めていた。2016年春より営業職に戻る。三塁ランナーの星子崇は秋の新チームでは4番だったが、バントのサインに応じないなどの理由で春から徐々に打順が下がり、夏の大会では8番まで落ちていた。甲子園5試合で14打数8安打、打率5割7分1厘。決勝戦でも4打数3安打であり、8回裏では坂田の犠飛でタッチアップからホームインしている。星子は50mを5秒9で走るチーム一、二の俊足だった。星子のタッチアップは慎重過ぎるぐらい慎重に見えたという意見もあるが、星子自身はちょっと早いくらいのスタートだったと語っている。捕手の石丸は、星子がなぜ回り込まず真っ直ぐに走ってきたのだろうと首をひねっていたが、星子は浜風を意識し、ライトへ上がったら打球は押し戻される、返球は伸びると意識し、最短距離でホームインを狙ったものだった。熊本日日新聞が後にテレビ録画でチェックしたところによると、タッチアップから石丸のミットと接触するまでが約3.5秒であり、普通の選手の4秒前後より早いタイムであった。星子の同級生はタッチアウトについて何も聞いてこなかったが、大人たちから「走りながらピースしてなかった?」「力を抜いて走った」などと冗談交じりで話しかけてくることに居たたまれず、取材は全て断った。捕手の石丸は後に、「新聞や写真集に僕が大きく載ったのは矢野のおかげです。どこのカメラマンも熊工のサヨナラ勝ちのシーンを狙ってましたよね。一番すごいことをやったのは矢野なのに、ライトまで距離が遠過ぎてだれも撮ってないですよね」と語っている。2014年に発売されたDVD映像で甦る高校野球不滅の名勝負Vol.6『矢野勝嗣が「奇跡のバックホーム」。夏将軍・松山商27年ぶり頂点へ。』(ベースボール・マガジン社)でも、表紙は石丸がボールの入ったミットを高く差し上げ、星子が両手を広げて「セーフ」とアピールしている場面である。帰ってきた球を受けてアピールしただけ、と謙遜する石丸は、「日々の努力は報われるものなんだと、矢野のプレーであらためて思った」と語っている。九回裏に起死回生の同点ホームランを打った澤村幸明は、熊本工では緒方耕一以来12年ぶりの1年生レギュラーであり、将来はプロへ行く選手と地元で注目されていた。県大会ではチャンスに強く、打率5割2分9厘で11打点、三振0である。準決勝でも前橋工の斉藤義典から2点タイムリーを打っていた。澤村は9回裏の打席に向かうとき、ベンチの3年生に「初球から狙っていいですか」と尋ね、「行け行け、ホームラン狙え」と激励されたが、当の澤村はそのことを後に記者に尋ねられても覚えていなかった。11回表の矢野の打球の後逸については、捕れるはずの打球が捕れなかった、中途半端なプレーをしたとその後も悔やんでいる。澤村は後に「松坂世代」と呼ばれる選手達と同じ1980年度生まれであり、一番初めに頭角を現した選手である。澤村本人も周囲も再び甲子園の土を踏むものと思っていたが、結果的にこれが最初で最後の甲子園となった。1996年頃、本塁でジャッジする時は送球の延長線上(この場合三塁側)に入るのが基本だった。しかし球審の田中美一は、右翼手からの返球がバットに当たることを回避するために本多のバットを拾いに行った後、星子がタッチアップの準備をしているのを見て延長線上に向かうのは間に合わないと判断し、そのまま一塁側に残ったため、タッチプレーをベストポジションで判断することができた。一塁塁審だった桂等は試合後、田中になぜ三塁側でなく一塁側に居たのかを尋ねると、田中は本多の打球に引き寄せられるよう、無意識に一塁側へ行った、だからタッチプレーが見えたと答えた。田中の薫陶を受けた審判員の桑原和彦は、近くでジャッジするためにはプレーを読む力が必要で、これは田中の努力と感性に他ならないと語っている。中矢信行・愛媛県高野連審判長(2006年次)は、並の審判なら捕手の背中へ回って外側から見るところを、田中は外野からの送球を背中に背負う格好で内側からプレーをジャッジした、お手本の審判であると語った。田中はこの判定について「最高のジャッジが出来た」と語り、アウトの言い方が厳しいという妻からの問いかけには、審判は選手に全身で伝えないといけないと反論している。「あの判定は生涯最高のジャッジだった」という遺言が、棺の中に収められたという。このジャッジについて熊本工のファンからは誤審ではないかという声もあったが、1996年8月22日付のスポーツ報知1面には、捕手・石丸が三塁走者・星子にタッチした時、星子のスパイクがホームプレート10cm前にあった写真が掲載された。熊本工の主将だった野田謙信は後に、「100人が100人セーフだと思うタイミングなのにアウトというのは、よほどの確信があったはずです。すばらしいジャッジですよ」と語った。田中は奇跡と実力のギャップに悩む矢野に、あのプレーは間違いなくアウトだから自信を持ちなさいと連絡し、矢野はそれで楽になったと述べている。同年、第41回全国高等学校軟式野球選手権大会では松山商軟式野球部が勝ち進むも、8月30日に行われた決勝では中京商に破れ、史上初の硬式野球部と同時制覇はならなかった。松山商は創立百周年記念の一環として、2001年6月17日に熊本工との招待試合を坊っちゃんスタジアムで行った。ダブルヘッダーで、第一試合は4対2、第二試合は5対2で松山商が勝った。2015年7月13日、愛媛朝日テレビ開局20周年特番として、熊本朝日放送との共同制作による『高校野球100年 甲子園 奇跡のバックホーム〜今 明かされる20年目の真実〜』が両局で放送された。

出典:wikipedia

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