崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。記紀に伝えられる事績の史実性、先帝達と繋がる系譜記事等には疑問もあるものの、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王とされる。初代神武天皇とそれに次ぐ欠史八代の天皇達の実在性が希薄であることから、この崇神天皇をヤマト王権の初の天皇と考える説が存在し、また記紀に記された事績の類似と諡号の共通性(後述)から、崇神を神武天皇と同一人物とする説もある。井上光貞は御名に後世的な作為が窺えず、欠史八代と違って旧辞も備わっていることから、崇神を実在の可能性のある最初の天皇としている。ただし、井上は崇神に次ぐ系譜と15代応神天皇以降の系譜との繋がりには懐疑的であり、直木孝次郎も同様の理由から応神以前に大和地方に存在した別王朝の首長と考えており、このように後代の天皇達との連続性を疑う「王朝交替説」も存在する。一方で神武と欠史八代の実在を支持する立場からは、『日本書紀』の記述では神武の即位後しばらくは畿内周辺の狭い領域の記述しか出てこず崇神の代になって初めて他地方にまで渡る記述が出てくること(四道将軍の派遣など)から、神武から9代開化天皇までは畿内にしか力の及ばなかったヤマト王権が、崇神の代になって初めて全国規模の政権になったと考える説もある。『古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も見られる。258年没説を採った場合、崇神の治世は中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なることになる。崇神をヤマト王権の礎を築いた存在とした場合、邪馬台国と崇神のかかわりをどう考えるかが問題となってくる。邪馬台国畿内説からは、邪馬台国とヤマト王権は同一であるという認識の下、水野正好は崇神を「卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」とする説、西川寿勝は「『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟だった」という説などを提唱している。邪馬台国九州説からは、「北九州にあった邪馬台国はヤマト王権とは別個の国であって、この邪馬台国を滅ぼしたのが大和地方を統一した崇神天皇である」とする田中卓や武光誠などの説も存在する。『日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と、崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈するならば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。これについては、神武の称号にみえる「天下」という抽象的な語は崇神の称号の「国」という具体的な語より形而上的な概念であるため、本来は崇神が初代天皇であったが後代になって神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたという考える説がある(『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある)。安本美典は上述の神武と崇神の称号に関する訓み方は鎌倉・室町時代(あるいは平安末期)の訓み方であり、『書紀』編纂時のものとは異なっていた可能性があると主張している。どちらも同じ意味であるならばわざわざ漢字の綴りを変える理由が解らず、また「高天原」などの用語と照応するならば神武の「天下」は「天界の下の地上世界」といったニュアンスと捉えるべきであり、神武の『始馭天下之天皇』とは「ハジメテアマノシタシラススメラミコト」などと読んで天の下の世界を初めて治めた王朝の創始者と解し、崇神の『御肇國天皇』はその治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことを称讃したものと解釈すれば上手く説明がつくとしている。崇神の和風諡号の「ミマキイリヒコ」と次の垂仁天皇の和風諡号の「イクメイリヒコ」は、共に「イリヒコ」が共通している。「イリヒコ」・「イリヒメ」は当時の大王・王族名に現れる特定呼称である。「イリ」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族は実在した可能性が高く、崇神天皇を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている。崇神・垂仁の二帝の名は和風諡号ではなく実名(諱)をそのまま記紀に記載した、とする説も存在する。開化天皇の第二子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王(神功皇后の祖)。都は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)。『古事記』には、「師木の水垣宮(みづかきのみや)に坐しまして、天の下治(し)らしめしき」とある。年代は『日本書紀』の編年に従って便宜を図った。開化天皇10年に産まれ、28年1月5日に立太子、60年4月9日の開化天皇崩御に伴い翌年即位。崇神天皇3年9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢)倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。崇神天皇7年2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。祟神天皇7年8月7日、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。崇神天皇10年9月、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。崇神天皇11年4月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。崇神天皇12年9月、戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と褒め称えられる。崇神天皇48年1月、豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて熟慮決断した。4月、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。崇神天皇60年7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。崇神天皇65年7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。崇神天皇68年12月、120歳で崩御(『古事記』は、戊寅年12月崩御、168歳とする)。『古事記』には、天下を統一して、平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。また、依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などの池溝を開いて、大いに農業の便を図ったと伝えられる。陵(みささぎ)は、奈良県天理市柳本町にある山邊道勾岡上陵(山辺道勾岡上陵、やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は柳本行燈山古墳(前方後円墳、全長242m)。『古事記』に「山邊道勾(まがり)之岡上」。なお、それより少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳、全長220m)を、その真陵とする考え方もある。また、江戸時代には渋谷向山古墳が陵墓とされていた。行燈山古墳は、形状が帆立貝形古墳(初期の前方後円墳。前方部が小さく造られている)のようになっているが、これは江戸時代の改修工事によるものとも言われている。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
出典:wikipedia
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