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前田日明

前田 日明(まえだ あきら、1959年1月24日 - )は、新日本プロレス、UWF、リングスで活躍した元プロレスラー。リングスCEO。元HERO'Sスーパーバイザー。総合格闘技大会THE OUTSIDERのプロデューサー。大阪府大阪市出身。元在日韓国人三世(日本国籍に帰化済み。詳しくは人物にて後述)。血液型はA型。佐山聡らと共に、日本の「プロレス」が現代の「総合格闘技」へと発展拡大していく流れを作った中心人物であるとするファンの声がある一方、前田が現役を引退するまでやっていたことはあくまでUWFプロレスであり、選手としても団体としてもプロレスの範疇を一歩も超えるものではなく、今日のMMAの流れとは無関係の存在であるという意見もある。少年時代は1966年に放送された特撮テレビ番組『ウルトラマン』に熱中。その中で1967年4月9日に放送された最終回「さらばウルトラマン」において初代ウルトラマンが宇宙恐竜ゼットンに倒されたのを見てショックを受け、ウルトラマンの仇を討つため打倒ゼットンを志し少林寺拳法を習い始めた(小学生で初段を取得)。北陽高校時代は空手、バイクに熱中した。空手は無想館拳心道館長岩崎孝二から学んだ(二段を取得)。極真空手の大山倍達の弟子達のようにアメリカで空手の道場を開きたいという夢を持っていた。大学受験に失敗し、アメリカに行く金を貯めるためアルバイトに暮れる。1977年に佐山聡にスカウトされ新日本プロレスに入団。翌年8月25日、長岡市厚生会館の山本小鉄戦でデビュー。新日本プロレスの社長兼エースのアントニオ猪木に憧れて入団したのではなく、「モハメド・アリのジムと提携してるので一緒のジムに入ってボクシングのヘビー級チャンピオンも目指せる」と新間寿に言われたのが理由である。金を貯めなくてもアメリカに行け、ベニー・ユキーデと戦うこともできると考えていた。実際は提携の事実はなく、新間が半ばだました形で入団をさせた(当時、ベニー・ユキーデは新日のリングに上がっていたが、前田とは対戦する機会はなかった)。大型であることから将来のエース候補として期待され、1982年2月に海外修行でイギリスへ渡り、「サミー・リー」(佐山聡)の弟というギミックのもと、クイック・キック・リー("Kwik-Kik Lee")のリングネームで活躍。1983年1月25日にはウェイン・ブリッジを破り、かつてビル・ロビンソンやホースト・ホフマンも戴冠したヨーロッパ・ヘビー級王座を獲得。同年春のIWGP決勝リーグ戦に「欧州代表」として凱旋出場し、それに先駆ける4月21日の凱旋帰国試合では、ポール・オーンドーフを相手にリバース・アームソルトにてピンフォール勝ちを収めた。同年暮れの第4回MSGタッグ・リーグ戦には 藤波辰巳との「フレッシュ・コンビ」で出場。長身を生かしたスープレックスや、相手をロープに飛ばしてのフライング・ニール・キックなど、ダイナミックな技で人気レスラーとなった。また、甘いマスクで女性ファンも多く、帰国した年のファンクラブの集まりでは女性が多かったことが週刊プロレスで報じられている。1984年2月29日の合同練習を最後に前田は新日本プロレスを離脱し、当時のWWF会長だった新間寿の仲介で3月よりWWFに遠征。同月25日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカナダのピエール・ラファエルを破り、新設されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。ベルトには「UWF」の文字が中央に大きく施されており、その後、前田は第1次UWFへの移籍を表明した。なお、このWWF遠征における前田はベビーフェイスのポジションで、アイアン・シーク、レネ・グレイ、ワイルド・サモアンズ、ジェリー・バリアント、タイガー・チャン・リー、ミスター・フジ、デビッド・シュルツ、ジョージ・スティールなどのヒール勢と対戦し、トニー・アトラスやS・D・ジョーンズ、トニー・ガレアらとタッグを組む一方、ロッキー・ジョンソンやブライアン・ブレアーなど同じベビーフェイス陣営との試合ではヒールの役割を担った。また、新日本プロレスでの若手時代に世話になったロディ・パイパーや、前年の凱旋帰国時の対戦相手だったポール・オーンドーフとも再会し、旧交を温めたという。UWF参加は理想や夢のためではなく、母親が怪我で入院したため移籍金が必要だったと前田は証言している。UWFでは若きエースとして迎えられ、4月11日に開幕したオープニング・シリーズでは、旗揚げ戦のメインイベントでダッチ・マンテルに勝利。最終戦の蔵前国技館大会では、当時まだ新日本プロレスに所属していた藤原喜明と流血戦を演じた(裁定は両者KO)。その後、UWFは佐山聡の影響によりキックと関節技を中心とした格闘技色の濃いプロレススタイル(後にUWFスタイルと呼ばれる)に移行するが、格闘技の試合は月に一度と言う“競技志向”の佐山と、会社が大変なんだから試合を増やそうと言う“興行志向”の前田が対立し、同団体は解散。佐山志向と対立したが、後の第2次UWF、リングスではこの時代の佐山志向を忠実に実践し、守り続けたのは、佐山を否定して団体を崩壊させ、その後も佐山批判を繰り広げたのにもかかわらず皮肉なことであった。一方、佐山の新しい格闘技団体「修斗」ではUWFのルールやスタイルにとどまることなく、様々な実験と進化を繰り返し、今日のMMA標準となるルールやスタイルを作り上げ、同時にジムによるアマチュアの育成と拡大を図り、競技としての格闘技確立を追及した。1985年12月6日、藤原喜明、木戸修、高田伸彦(現:高田延彦)、山崎一夫らと共に業務提携という形で新日本に復帰。前田はリング上で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とマイクアピールを行った。1986年4月29日、三重県津市体育館において新日本サイドの不可解なマッチメイクで、アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。セメントマッチだと言われているが、最後はアンドレが試合を放棄してしまい、26分35秒ノーコンテストに終わる。同年10月9日、両国国技館で行われた「INOKI 闘魂 LIVE」で、ドン・中矢・ニールセンとの「異種格闘技戦」を、逆片エビ固めでギブアップさせ勝利、この試合を期に「新格闘王」と呼ばれ、プロレス界以外からも注目を浴びるようになった。この試合について、後年、ニールセンは「ここはこうやって、その次はこう、と流れを決めたわけではなかった。でも、ボクが言われたのは“試合を盛り上げてくれ”ということ。そして、1Rにいいパンチが入ったのに、セコンドに“アーリーノックアウトはダメだ”って言われた」と、プロレス雑誌『kamipro』で証言した。1987年11月19日、後楽園ホールにおけるUWF軍対維新軍の6人タッグマッチで、前田が木戸修にスコーピオン・デスロックをかけていた長州力の背後から正面へ回り込み、顔面をキック(敵の固め技から味方を救うこの様な攻撃はカットまたはセーブと呼ばれる)、長州に右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷を負わせた(長州vs前田 顔面蹴撃事件)。このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。その後、出場停止解除の条件として、メキシコ遠征することを指示されたが、それを拒否したことにより1988年2月1日に新日本プロレスからプロレス道にもとる行為を理由に解雇される。後に前田は、プロレス雑誌「Gスピリッツ」におけるインタビューで、全日本プロレスでの天龍・輪島戦の衝撃に対抗するため顔面蹴りを試みたところ、長州が顔を反らしてしまったためにアクシデントに至ってしまったと証言している(和解済み)。また当時マッチメイカーであり、またこの試合でレフェリーを務めていたミスター高橋によれば、セーブとしては激しい攻撃でありまた当たり所も悪く、「プロレスでやってはいけない攻撃」ではあり、長州の怪我の状態が深刻であること、および長州がリング上での報復を意図していた事を鑑み予定を変えその場で試合終了とした。高橋によればこのように、強力な攻撃が急所に入ってしまう事故は珍しいものではなく、通常は後に謝罪すれば収まるものであるのだが、そこを猪木が(危険な攻撃は)「プロレス道にもとる」として追放処分にしてしまった判断は、「プロレスとは相手に怪我をさせないように執り行う物である」と言ったようなものだと疑問視し、むしろ遺恨試合と言うアングルに繋げるべきではなかったかと指摘している しかし、実際に前田を追放したのは長州派閥であり、猪木は前田を伴って座禅を組みに行く等離脱前に関係は修復されていた。。第2次(新生)UWFは、1988年5月12日に後楽園ホールにて「STARTING OVER」と銘打ち旗揚げ戦を行った。当時、創刊されたばかりの格闘技通信は「プロレスという言葉が嫌いな人この指とまれ」と、前田を表紙に抜擢した。第2次UWFは格闘技であることを標榜した、競技色の強いプロレスであった。その後、前田とUWFの社長・神新二との間で、神社長の会社の株式の無断の独占問題と不明朗な経理で問題が発生。1990年10月、前田は船木誠勝戦直後に、フロントを非難。これを受けたフロントは前田を出場停止処分とする。この一連の前田とフロントとの確執は前田と所属選手間にも波及。翌1991年初頭に、前田は自宅マンションでの選手集会で第2次UWFの解散を宣言した。第2次UWF解散後の1991年春、リングスを設立。同年5月11日に横浜アリーナで旗揚げ戦を行った。リングスの興行はWOWOWで生放送された。さらには、UWF時代の人脈からオランダのクリス・ドールマンの全面協力を得ることになった。正道会館からは、石井和義館長が佐竹雅昭ら空手家をリングスに派遣した。石井館長はリングス参戦によって大型興行のノウハウを蓄積しそれが後のK-1の飛躍へとつながった。旗揚げ第2戦前の練習で、前田は前十字靭帯断裂、側副靭帯の重傷を負った。その後しばらくはニーブレスをつけて強行出場を続けるが、最終的には手術を行い長期欠場となった。エース不在の興行的な穴はディック・フライ、ヴォルク・ハン、高阪剛、田村潔司、山本宜久、長井満也、成瀬昌由らが埋めることになる。この頃、リングスは旗揚げ当初より続いた外国人頼りのカードから脱却する。1993年から始まったUFCの影響を受けて、1999年からリングスもバーリトゥードに近いKOKルールを採用した。KOKルールは、グラウンド状態での顔面への打撃は禁止であったが、スタンド状態での顔面打撃を認めた画期的なルールであった。佐山は初期の修斗ルールと同じと言っていたが、グラウンドでの腹部・腰部・足部への打撃有無の違いがある。1998年に開催されたPRIDE.1では、高田延彦がヒクソン・グレイシーに敗北。これを機に、前田はヒクソンとの対戦を宣言し交渉を進めるが、ヒクソン側が高田延彦との試合を決めたため、実現することはなかった。1999年2月21日、前田の引退試合としてアレクサンダー・カレリンと対戦し、判定(ポイント)負け。しかしながら、ロシアの英雄であるカレリンをレスリング以外の場に唯一立たせた意義は大きい。カレリンとの引退試合は民放のニュース番組で特集されるほど、世間から注目されていた。後に前田は、引退試合の相手にカレリンを選んだ理由について「本当に強い人間っていうのは、こういうことだよっていうのを証明したかった」と語っている。WOWOWによる次年度よりの放映打ち切り決定により、2002年にリングスは活動停止。しかし、リトアニア、オランダ、ロシアでは大会は継続され、日本国内でもリングス出身スタッフが運営し、リングスKOKルールを採用した格闘技イベントZSTが開催されている。2005年、元新日本プロレスの上井文彦に請われ、上井が旗揚げした新プロレスイベントビッグマウスにスーパーバイザーとして参画。同時に、船木誠勝と和解。2006年2月26日、新生ビッグマウス・ラウド旗揚げ記念大会・徳島興行で、前田は船木と共にビッグマウス・ラウドを脱退。上井による会社資金の横領の露見、それによる資金難による団体所属選手および社員の給与未払い、道場を用意しようとしなかった等、上井の資金の使い込みをめぐる確執が脱退理由であった。ビッグマウスとK-1との提携で、「HERO'S」(総合格闘技イベント)発足時より「スーパーバイザー」として参加。同興行の看板役の他に、試合ルールの運用、選手発掘などを行う。しばしば記者会見等の公の場に姿を現した。2007年10月5日、「HERO'S KOREA 2007」の開催発表記者会見に出席。前日10月4日にPRIDE事務所が閉鎖され活動停止となったことに関し「天網恢々粗にして漏らさず」と発言。同日深夜、HERO'S公式サイトで谷川貞治が「不適切な発言」と謝罪文を掲載する事態となった。同年12月31日、「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」で田村潔司vs所英男の試合後のリング上にプレゼンターとして登場。勝利者賞のトロフィーを田村に放り投げるように押しつけるトラブルを起こした。2008年2月15日、「THE OUTSIDER」(後述)の記者会見を開き、HERO'Sの発展的解消に伴い同イベントのスーパーバイザーを降板したことが発表された。それまで確執が取り沙汰されていた旧PRIDEとHERO'Sとの連立イベントDREAMについては「めでたいこと」と述べた。2008年1月21日、RINGS公式サイトで、いわゆる「不良」を主な対象としたアマチュアの格闘技大会「THE OUTSIDER」の立ち上げを発表し、3月30日にディファ有明において旗揚げ大会を開催した。2009年12月28日に2010年夏の参議院比例代表に民主党公認で出馬予定だったが、2010年3月3日には第1次公認候補が見送られ、同年3月21日には出馬辞退の意向が伝えられている。理由としては、外国人参政権について本人は反対しており民主党との意見の違いがあったほか、党の出馬時の金銭的支援についての食い違いがあったという。また前田側は党の姿勢と石井一選対委員長に対し激怒した場面もあったとされる。その後、民主党と連立与党を組む国民新党が前田と接触を持ち、参議院東京都選挙区に同党公認候補として擁立する方針を打ち出す。しかし、東京都選挙区からの立候補を望む同党と、比例区からの出馬を希望する前田との意思は合致せず、結果、同党からの出馬もなかった。4062154024

出典:wikipedia

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