垂水神社(たるみじんじゃ)は、大阪府吹田市垂水町にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は郷社。現在は神社本庁に属さない単立神社。祭神は次の3柱。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳での祭神の記載は1座。『延喜式』臨時祭では、祈雨神祭条・名神祭条において1座とするが、八十島祭条においては2座とする。垂水神社の社名の「垂水」とは、「崖から流れ落ちる水」を意味する。千里丘陵南端に位置する境内は地形的に丘陵からの湧水が生じる場所で、当地を鎮座地とする垂水神は古くから水の神として信仰された。後述のように文献では、『新撰姓氏録』には「垂水岡」の水にまつわる当社の由緒が記されるほか、国史等には朝廷から当社へ幾度も祈雨祈願の奉幣がなされた旨が記されている。近世の『摂津名所図会』・『摂津志』にも当地の湧水に関する記述があり、特に『摂津名所図会』では霊泉として信仰された様子が記されている。また垂水地域では、古代氏族として垂水氏(たるみうじ、垂水公)が居住し、垂水神社の祭祀にも関与したことが知られる。この垂水氏について、『新撰姓氏録』右京皇別 垂水公条では賀表乃真稚命(豊城入彦命四世孫)の後裔とし、その分注には阿利真公(ありまのきみ、豊城入彦命六世孫)の時に「垂水公」の姓を賜るとともに垂水神社の祭祀を管掌したとする。現在の垂水神社で人格神とされる豊城入彦命は、この垂水氏の遠祖にあたる。一説として、この垂水氏が関与する以前より当社は水の神を祀る素朴な祠として鎮座していたが、垂水氏の関与により人格神に豊城入彦命があてられたとも推測されている。なお『新撰姓氏録』では、左京皇別に同じく豊城入彦命を祖とする垂水史の記載も見える。近世の『摂津名所図会』では、当時の祭神は豊城入彦命である旨とともに、別説として祭神は常陸国薬師神社(現在の大洗磯前神社)と同体で大己貴命・少彦名命であるとする説も挙げており、現在の垂水神社ではこれらの3神とも祭神としている。また伴信友は『神名帳考証土代』において、『日本書紀』神功皇后紀に見える依網男垂見を祭神とする説を挙げる。創建は不詳。『新撰姓氏録』右京皇別 垂水公条によると、孝徳天皇の時(645年-654年)に旱魃のことがあったが、阿利真公(豊城入彦命六世孫)が「垂水岡」から高樋で天皇の宮(難波長柄豊碕宮)まで水を通したので、その功により阿利真公は「垂水公」の姓を賜り、また垂水神社を管掌したという。『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒によれば、当時の「住吉垂水神」には神戸として22戸が充てられており、そのうち2戸は天平宝字3年(759年)12月29日符で摂津国から、1戸は天平神護元年(765年)9月7日符で備中国から充てられていた。この記載で神名に「住吉」を冠することから、この頃には住吉大社と深い関わりにあったと推測する説もある。国史では次のように祈雨奉幣の記事が散見される。以上のほか、承和8年(841年)閏9月には「垂水神」に対して従五位下勲八等の神階奉叙の記事が、天安3年(859年)1月には従四位下への昇叙の記事が見える。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では摂津国豊島郡に「垂水神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに、朝廷の月次祭・新嘗祭では幣帛に預かる旨が記載されている。また『延喜式』臨時祭では、八十島神祭・祈雨神祭・名神祭で幣帛を受ける神々のうちに垂水神の記載が見える。平安時代中期の『和名抄』に見える地名のうちでは、当地は豊島郡豊島郷に比定される。保安元年(1120年)の「摂津国正税帳案」では垂水神の神戸について「垂水神戸壱烟 租稲捌拾束」と記されているほか、永万元年(1165年)の「神祇官諸社年貢注文」や文治5年(1189年)の「春日社領垂水西牧榎坂郷田畠取帳」、貞治5年(1366年)の「春日社領垂水西牧榎坂郷内東方目録帳」にも垂水社に関する記載が認められる。中世期の変遷については、史料にほとんど記述が見えないため詳らかでない。社伝では兵火により衰微したとする。江戸時代には、天和3年(1683年)に社殿再建のことがあった。明治維新後、明治5年(1872年)に近代社格制度において郷社に列し、明治40年(1907年)2月に神饌幣帛料供進神社に指定された。その後、昭和49年(1974年)に現在に見る社殿が再建されている。境内社・境外社として次の神社が鎮座する。垂水神社で年間に行われる祭事は次の通り。所在地交通アクセス原典出典文献サイト
出典:wikipedia
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