宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い。中国の呉越王銭弘俶が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔(金塗塔)が原型だとされている。これは、インドのアショーカ王が釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して、新たに銅で造った8万4千基の小塔に分納したものだといい、日本にも請来されて現在国内に10基ほどある。石造宝篋印塔は銭弘俶塔を模して中国において初めて作られ、日本では鎌倉初期頃から制作されたと見られ、中期以後に造立が盛んになった。銭弘俶塔の要素を最も残すのが北村美術館(京都市)蔵の旧妙真寺宝篋印塔・一名「鶴ノ塔」である。ただしこの装飾性の強い塔は古塔の中では特異で孤立しており、いまなおその歴史的位置付けは明瞭でない。在銘最古の宝篋印塔は鎌倉市の某ヤグラから出土した宝治二年(1248年)銘の小型のものである。これは無紋の大きな隅飾りが垂直に立ち上がっており、京都市右京区の高山寺塔や為因寺塔(文永二年銘)に共通する特徴を持ち、これら装飾性の少ないものを特に「籾塔形式」と呼ぶ。これら素朴な籾塔型から次第に装飾性を強めて現在よく知られる石造宝篋印塔のスタイルが確立したものと考えられる。名称は、銭弘俶塔に宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。ただし、石造宝篋印塔で実際に塔内から陀羅尼が発見された例はない。本来的には、基礎に宝篋印心咒経の文字を刻む。最上部の棒状の部分は相輪と呼ばれる。相輪は、頂上に宝珠をのせ、その下に請花(うけばな)、九輪(宝輪)、伏鉢などと呼ばれる部分がある。相輪は宝篋印塔以外にも、宝塔、多宝塔、層塔などにも見られるもので、単なる飾りではなく、釈迦の遺骨を祀る「ストゥーパ」の原型を残した部分である。相輪の下には露盤と階段状の刻み(普通は6段)を持つ笠があり、この笠の四隅には隅飾(すみかざり)あるいは「耳」と呼ばれる突起がある。笠の下面も階段状(2段)に刻む。笠の下の四角柱の部分は、塔身(とうしん)という。その下の部分は基礎と呼ばれ、上部を階段状(2段)に刻んで塔身を受ける。隅飾の内側の曲線を二弧ないし三弧に刻むものもあり、またその側面に月輪を陽刻し、その中に種子(しゅじ、種子字とも)を刻むものもある。塔身にはしばしば仏坐像や月輪に囲われた種子を刻む。手の込んだものではその月輪をさらに蓮華座で受ける。また基礎の四方の側面には区画の中に格狭間(こうざま)を一個刻む例が多い。さらに基礎石の下に格狭間を伴った反花座を置くものもある("太字=右図参照")。なお特に高位者の墓塔では壇上積みの石段を伴うものがある(醍醐三宝院墓地宝篋印塔など)。この塔身部に四角の輪郭が刻まれず、基礎部の区画も無いか若しくは一区のものが関西形式と呼ばれる基本の型である(石山寺宝篋印塔写真参照)。塔身に四角の輪郭を刻み基礎部も縁どりにより二区に分け、さらに基礎を輪郭付きの二個の格狭間を伴った返花座で受けるものは関東形式と呼ばれる(右図参照)。名称の通り、関東形式は関東地方に多く分布するが、関西形式は基本形として国内に広く分布する。「関東形式」の命名者川勝政太郎は、この関東形式の出現の契機となったのが神奈川県箱根にある関西形式の「箱根山宝篋印塔(多田満仲塔)」と推定しており、この塔の塔身は周囲に細めの輪郭を巻きその中央に釈迦座像(正面)と種子(側面と背面)を刻んでいる。ただし基礎周囲各面には格狭間を一個だけ刻む。この塔は律宗の僧に従って関東に赴いた大和の石工によって作製されている。宝篋印塔の基本形式は、以上の通りであるが、時代・地方により、多少の違いが見られる。例えば頂上部の宝珠については、時代が下るとともに、膨らみが失われ、室町期・江戸期を通して先端が尖っていくという特徴がある(この特徴は宝珠全体のもので、先述の五輪塔・宝塔・石灯籠・擬宝珠においても同様である)。隅飾は、同じように時代が下るごとに、外側へ張り出す傾向があり、江戸期には極端に反り返る隅飾になった。基礎部下の基壇も、次第に返花座などの飾りをもたない方形石の基壇となる。基礎石の格狭間の中に、開蓮華、三茎蓮、孔雀像などを刻むものを特に「近江式文様」と呼び、鎌倉後期以降の優品が近江から京都にかけて多数遺る(「近江式」は層塔の基礎石格狭間などに三茎蓮などを刻む場合もいう)。通常、笠は階段状に刻むが、まれに上部を宝形造りに刻むものがある。これは奈良県北部を中心に見られる地方色である(「大和式」と呼ぶ場合もある)。また、塔身・基礎部の大きさの違いをはじめ、塔身に方角に対応した仏の種子や像のレリーフを刻む、二重輪郭をとるなど、塔によって様々な形態がある。このほか特殊な例として笠を3重に重ねた三重宝篋印塔が数例遺る(石山寺三重宝篋印塔ほか)。さらに、残欠でしか残らないため詳細は不明だが、笠部が六角の重層宝篋印塔も造られた。滅罪や延命などの利益から、追善(死後に供養すること)・逆修(生前にあらかじめ供養をすませること)の供養塔、墓碑塔として、五輪塔とともに多く造立された。形状がシンプルな五輪塔が僧俗を問わず多くの階層で用いられたのに対して、装飾性の強い宝篋印塔は主に貴顕の間で用いられる傾向がある。鎌倉地方の丘陵部に多く存在するやぐらには、宝篋印塔が置かれる場合や、宝篋印塔のレリーフが彫られている例がある。ほぼ、五輪塔と同じ意義で用いられたことが考えられるが、作例は五輪塔よりも少ない。石造宝篋印塔のような石造美術品、特に中世期のものを見るうえで、律宗僧及びその関係の石工たちの存在に注目しなければならない。中世期は、平安期に比べて石造美術品の造立数は格段の数となり、奈良の西大寺の叡尊や忍性といった律宗僧の戒律復興運動の全国展開により、彼らが招いて、率いた石工たちにより、優れた石造美術品が残された。特に先に触れた「箱根山宝篋印塔」に大和生まれの石工大蔵安氏の名が永仁四年(1296年)銘とともに残されていることは注目に値する。現在も律宗系寺院または律宗系寺院の廃寺の跡においては、このような石造美術品が多い。
出典:wikipedia
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