スダホークは、日本の競走馬、種牡馬である。1980年代中盤に活躍した名バイプレイヤーの1頭。重賞を4つ制しているがGI勝ちはなく、日本ダービーと菊花賞はともに2着であった。戦法は追込。主戦騎手は田村正光と田原成貴。競馬ライターの須田鷹雄はこの馬にあやかってペンネームを付けた。※馬齢は、当時の旧表記(数え年)で統一する。スダホークは3歳の11月、東京競馬場でデビュー。初戦はサザンフィーバーに1.7秒も離された3着に敗れるが、2戦目で初勝利を収め、続く400万下の葉牡丹賞を制し、一躍クラシック戦線の有力候補に名を連ねた。4歳になったスダホークは共同通信杯4歳ステークスこそ5着に敗れるが、弥生賞で重賞初制覇し、クラシック第1弾の皐月賞を迎えた。3番人気で出走した皐月賞はミホシンザンの6着に敗れた。続く日本ダービーではデビューからずっと手綱を取っていた田村正光から田原成貴に乗り替わった。ライバルのミホシンザンは骨折でダービーを回避し、ダービー馬になる好機かと思われたが、重馬場の直線の大外を駆け抜けたシリウスシンボリに3馬身も離された2着に終わった。秋になるとスダホークは神戸新聞杯5着、京都新聞杯5着とトライアルレースを2戦してから菊花賞に挑んだ。だが、菊花賞では骨折が復帰したミホシンザンに1馬身及ばずの2着に終わった。シーズン最後の有馬記念ではミホシンザンとともに4歳馬の代表として挑んだが、シンボリルドルフの前に完敗、4着に終わっている。奥手の血統であるシーホークの産駒であったスダホークは古馬になってからの成長に期待されていたが、その期待に応えるようにAJC杯、京都記念と連勝した。サンケイ大阪杯ではサクラユタカオーにハナ差で敗れたものの、天皇賞(春)はシンボリルドルフやミホシンザンといった強豪が不在のため、スダホークにGI制覇の期待が掛けられていた。ところが、単枠指定の1番人気に支持された天皇賞(春)では、「マイルの競馬を2度やりました」という名手岡部幸雄の好騎乗で躍動したクシロキングの前に惨敗、7着に沈んだ。続く宝塚記念も5着に終わると、秋からは田村が再び騎乗する事になったが、毎日王冠は8着、天皇賞(秋)とジャパンカップは最下位、有馬記念は11着とスダホークは凡走を繰り返すようになった。スダホークがスランプを脱したのは6歳春の阪神大賞典の事だった。1年1か月ぶりの勝利となったこのレースがスダホークの最後の勝利となった。その後、スダホークは7歳春まで7戦しているが1勝もできずに、7歳春の宝塚記念でタマモクロスの3着に入ったのを最後に現役を引退した。なお、6歳秋以降、スダホークは乗り替わりが頻繁にあり、6歳秋の有馬記念と7歳春のAJC杯では柴田政人が、7歳春の阪神大賞典では樋口弘が、天皇賞(春)では岩元市三が、ラストランとなった宝塚記念では田島良保が騎乗している。スダホークは引退後、日高軽種馬農協浦河種馬場で種牡馬になったが、これといった産駒を出す事もなく、1994年に種牡馬登録を抹消され、去勢の上、乗馬に転向し、繋養先も門別町(現・日高町)の日高オーシャンファームに移った。1995年夏にテレビ朝日製作のテレビ番組「さんまのナンでもダービー」で日高オーシャンファーム内のコースでスダホークやポニー馬(ナリタブラリアンなど)、アラブ系競技馬等と共に距離ハンデキャップ方式によるレースが行われた。このレースでスダホークはJRAの郷原洋司騎手の騎乗で現役当時を彷彿させる走りを見せたが、さすがに最後の直線では伸びなく、6頭立ての4着に終わっている。2003年4月16日早朝、胃破裂のため死亡している。22歳(馬齢〈数え年〉)だった。※曾祖母・ミスオンワードは桜花賞・優駿牝馬(オークス)勝ち。
出典:wikipedia
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